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武蔵美×朝鮮大「突然、目の前がひらけて」展に思うこと――ただぼんやりしていても共にはいられない時代に

韓東賢日本映画大学教員(社会学)
灰原千晶、李晶玉の共作「区画壁を跨ぐ橋のドローイング」2015(写真に色鉛筆)

武蔵野美術大学と朝鮮大学校美術科の有志5人による合同展「突然、目の前がひらけて」展を、11月14日に訪れた(両校の2つのギャラリースペース。21日まで)。筆者自身も「社会の芸術フォーラム」の第3回フォーラム「問題としての多文化主義:表現・アイデンティティ・(不)寛容」で言及し、期待を表明していたが、隣接する両校の間の塀に橋を架けるプロジェクトが注目され、各紙で取り上げられるなど(朝日新聞東京新聞)、話題になっている。(あくまで素人的、かつ個人的な)雑感を記してみたい。

橋という象徴をめぐる日常と非日常

「橋」をしばらく眺めていた。おそるおそる渡っていた人たちが印象的だった。なんだか楽しそうに渡っていた人たちも、いた。そして私にとっては、それなりに長い時間その辺にいたので必要があって何度も往復するうちに、すぐに日常のツールとしての単なる橋と化した。象徴とはそのようなものだ。当初は象徴的な意味が付与されたものでも、それが実用的なものでもあるかぎり、すぐに日常化する(同時に、象徴として制度化、権威化する場合もある)。

とはいえ、朝大側から入ったおかげで、レセプションパーティの時間には、入構のための受付をした朝大の正門からいったん出て、改めて武蔵美の正門から入ってこなくてはならない、という事態となった。両校の間のバス停ひとつ分、暗い夜道を雨のなかぞろぞろと歩きながら「橋、意味ねーじゃん」と言ったら、一緒に行ったうちの学生が笑っていた。当たり前だが、やはり作品としての「非日常の橋」なのだ。

橋(とか塀とか壁)そのものについては、このくらいだろうか。「望ましい多文化主義のメタファー」として語られすぎているし、私の興味はもはやその結果物にはない。むしろ(というほど離れるわけではないが)このプロジェクトのテーマは、そこにいたる「対話」そのものだろう(メディアに掲載された作家たちの鼎談やインタビュー、会場で配布されていた小冊子に掲載されている「展覧会ドキュメント タイムライン2014.11-2015.6」等を参照。この記録は「アーカイブ」として展示もされている。ぜひ手に取って、そして見て読んで欲しい)。

「愛(だけ)は国境を超える」とされる訳

映画の『パッチギ!』でもいい、『GO』でもいい、そして、同じアートということなら高嶺格の「在日の恋人」でもいい(今回の企画に関して、この作品との比較を持ち出す人が今のところいないように見えるのだが……)。なぜ「愛(だけ)は国境を超える」(と、される)のか、かねてから疑問だった。

ぼんやりと、ただなんとなく、誰かと一緒にいられるなんて、(それができたら幸せだろうし、望ましいのかもしれないが)残念ながらそれはファンタジーにすぎない。「(恋)愛」は、誰かと共にいたいという強い意志と目的をともなう。ではそれは「(恋)愛」のような親密な関係性、ある種の共同体づくりをめざす場合にのみ必要なことなのだろうか。よくも悪くも、今や公共圏でもそのようなメカニズムが必要になっているのではないか。

誰か、つまり他者と共にいたい、いなくてはならないという強い意志を持ち、自覚的にコミットすることなしに他者と共在することはもはや困難なのだということだ(社会学の議論を持ち出せば、たとえばゴフマン的な儀礼的無関心のような装置も、ただ無意識のうちに行われているのだとしたら、それによって共在が可能だったフェイズは終わったのではないか)。

仮構としてのアートが見せてくれるもの

「(恋)愛」のメカニズムを持ち出したので誤解されるかもしれないが、それは博愛とは違う。他者をただ受け入れるのではない。他者と共在することへの意志を持って、そこに自覚的にコミットすること(それによる相手や自分の変化をも恐れない)。これが今、そしてこれからの世の中で必要とされる「知」なのではないだろうか。もちろんその前提として、他者とすでに共にいる(それはすでに不可逆だ)のだということを認識し、それを受け入れるということは不可欠だ(また個人の意志や自覚だけでなく、そのためのアーキテクチャの設計も必要だろう)。

一種の社会実験としてのコンテンポラリー・アート。共同制作という目的、条件設定のもとで、成立する対話、コミュニケーション(さしあたり、それが成功するかどうか、したかどうか、ではない)。そこには明確な意志と自覚的なコミットがある。「(恋)愛」ではなく、仮構としての「アート」がそれを可能にしたのだとしたら、これをアートの外で行うことは可能なのだろうか。だとしたらアートは現実の社会に何を見せてくれるのか。やはりアートに代わる何らかのアーキテクチャが必要なのか。

とはいえ、だからこそ、こうした試みに触れつつ、むしろその困難さを感じている。だがその困難さを、自分個人として、また自分のフィールドで、引き受けていくのは自分自身でもある。

蛇足として(もしかして、やっと「展評」的な)

「橋」というアイディアが出た時点で、よくも悪くもおそらくその部分での「成功」は決まっていた。彼女たちは「賭け」に勝った。そして、それを「正しく」遂行できる条件を備えていた。未熟さと率直さ(それはどこかもどかしいものでもあるが、瑞々しく、強い)、意志と環境。そして、アーティストであるということ。だから今回、重要なのはプロセスだ。作家としては、個々の作品を見てほしいかもしれないが、結果として、対話というプロセスそのものが作品となっている、というのは疑いようもない。

とはいえ個々の作品のレベルでそこに一番自覚的なのが、中心的な存在でもある武蔵美側の灰原千晶だろう。橋の端材で作った机と音声で構成された「対話のテーブル」が印象に残っている。同じく土屋美智子の、朝大美術科研究院のアトリエをジャングルにした展示も好きだ。朝大研究院の李晶玉(リ・ジョンオク)、鄭梨愛(チョン・リエ)の作品は、対話によってむしろ自分自身をさらに見つめようとしていた。そうなることもよく理解はできる……。

「橋」は象徴的ではあったが、「対話」というプロセスを十分に表現した作品であるのかどうかは、正直わからない。むしろ橋は、やはり対話に先立つ前提の可視化だった。でもだからこそ必要不可欠であったのだろうし(言ってしまえば、「わざわざ橋を架ける」という通過儀礼的なプロジェクトなしには、今回のような対話もできなかったのだ)、橋の端材で構成された灰原の「対話のテーブル」こそが、拙いながらもその先を示唆するメイン作品にふさわしいようにも思えた。

でも彼女たちは「賭け」に勝ったし、それは、彼女たちの対話にそのような前提が必要だったという現実を映し出したということでもある(それは、「双方」が抱える課題でもある。そう思うのは、私が一方の当事者に「近い」からだろう)。だが、だからこそ、本当の勝負はおそらくこれからだ。期待しています。

日本映画大学教員(社会学)

ハン・トンヒョン 1968年東京生まれ。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンのことを中心に日本の多文化状況。韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006.電子版はPitch Communications,2015)、共著に『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(2022,有斐閣)、『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(2021,駒草出版)、『平成史【完全版】』(河出書房新社,2019)など。

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