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樋口尚文の千夜千本 第13夜「ゴジラ」(ギャレス・エドワーズ監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:ロイター/アフロ)

ゴジラは「自然物」か?それとも「レスラー」か?

映画史のなかで、ゴジラはふたつの貌(かお)を担わされてきた。ひとつは「自然物」、もうひとつは「レスラー」である。まずこのたびリバイバルされた昭和29年(1954年)公開の「ゴジラ」第一作において、ゴジラという存在はただ海から上陸して猛威をふるい、ただ去ってゆくのみの台風のごとき「自然物」として描かれていた。後に人気者として「人格」を持ち、マンガ「おそ松くん」のイヤミおなじみの”シェー”のポーズまで披露してしまうゴジラだが、第一作の名スーツアクター・中島春雄はひたすら人間的な無駄な動作を排除して抑制的に「怪獣」という生きものの本質をつかもうとしていた。すなわち、第一作のゴジラはたまさか海のどこからか現れて、能楽師さながらの漸進的な彷徨を繰り返し、たまさかそれが人間界に被害を与えてしまうのであった。

そんなただひたすらに荒ぶる「自然物」であったゴジラだが、この怪獣は核実験によって眠りを覚まされ、それで暴れ出したら迷惑がられて、今度は核を超える悪魔的兵器によって葬送されてしまう。この身勝手な人間の都合で自然が生かされたり殺されたすることへの文明批判的なアイロニーが「ゴジラ」第一作には痛烈にみなぎっている。原水爆実験が生んだ怪物ということで反戦・反核の映画であると思われがちな「ゴジラ」だが、そんな訳で実はエコロジー的な観点のほうがぐっと前に出た作品であって、その立ち位置を全篇を通して体現しているのが志村喬扮する山根博士なのである。実際、久々にスクリーンで「ゴジラ」第一作を観なおすと、人間に翻弄される「自然物」としての怪獣を哀しく見守り続ける志村喬のまなざしがことのほか強烈な印象をのこすのであった。

ただし、さらに言えば、この第一作はそういう反戦・反核やエコロジー的な主題を訴えることを第一の課題として作られた生硬な作品では決してない。私はこの第一作の本多猪四郎監督への長いインタビューをもとに東宝撮影所の消長と映画「ゴジラ」の創造を絡めて「グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代」(1992年 筑摩書房刊 / 2012年 国書刊行会より復刊) という評伝的論考を著したが、ここで私は本多監督から「自分はなにも反戦・反核のようなテーマを訴えるために「ゴジラ」を作ったのではありません」という言葉をうかがって、大いに驚くとともにそれはそうに違いないと深く納得した。

なぜなら映画という娯楽に心酔して育ち、撮影所という夢の工房に天分を見出されながら、三度にわたる応召で戦地に赴かなければならなかった不運な本多監督にとって、映画という表現は反戦・反核のスローガンを託す道具などではなく、もっと豊かで花も実もある表現であり娯楽であったはずなのだ。もちろん終戦から十年も経ていない昭和29年の作品なので、作者がことさらに意識しなくても戦後の爪痕や反戦・反核のムードなどを作品が映し出してしまうのは自明のことだ。だが、本多監督やおそらくは円谷英二特技監督も、志としてはそういう戦後の生(なま)な現実とは潔癖に切れたところで大怪獣のカタストロフを描きあげ、手のこんだ夢の娯楽を生み出そうと期したはずなのである。その意志を生前の本多監督ご自身の言葉として聞いた私は、深甚な感動を覚えたのであった。

事ほどさように、くだんのようなエコロジー的観点や文明批判を含みながらも、上質な堂々たる夢のエンターテインメントとして完成された第一作の「ゴジラ」だが、すでにお気づきの通り、台風や地震のような「自然物」としてのゴジラは、構造的にはもうこの一作で描きつくされているわけである。そこで、日本映画の観客動員数がピークに達しつつあった当時、めざましいヒットを記録してドル箱となった「ゴジラ」をシリーズとして存続させるために、新規の怪獣を対戦相手として都度都度登場させるという路線がひねり出された。そののパターンは第一作公開後半年も経ずして封切られた二作目「ゴジラの逆襲」で早くもお定まりのものとなった。

「自然物」としてのゴジラは一作目こっきりで、二作目以降のゴジラはいきなり敵役の怪獣とプロレスを展開する「レスラー」に様変わりした。ゴジラは「自然物」どころか人気者のヒーローをもって任ずる「人格」さえ感じさせるようになり、やがては子どもの夢にガキ大将のように登場したり、マンガの吹き出しで仲間の怪獣と会話したりするようになる。対戦相手とのバトルが日本各地の名所で行われ、ゴジラがプロレス巡業をしはじめるに至っては、ほぼ「寅さん」状態であった。「自然物」ゴジラの”本格派”ぶりが何より好きだった幼少のミギリの私は、「キングコング対ゴジラ」のキングコングや「怪獣大戦争」のキングギドラなど名対戦相手が登場する痛快娯楽篇の愉しさは重々感じながらも、そういうプロレス路線がどこか安っぽい”堕落”に感じられてならなかった(幼い子どもの感性はそのへんまっすぐなのでオソロシイものだ)。

さてそんなこんなのヒストリーゆえに大予算を投じたハリウッド版「ゴジラ」がどういう切り口で来るのか、観るまでかなり心配であったわけだが、しばらくしてこれがゴジラ単体の横顔を新たに描くものではなく、手ごわい対戦相手とのバトルを軸とする(まさかの)プロレス路線であることがわかって、私は不安の極に達したのであった・・・・・が、そういうたぐいの作品としては、これはけっこう痒いところに手が届いている憎めない作品なのだった。その配慮と工夫のポイントはふたつあって、ひとつは怪獣がプロレスしあうという不自然さを解消する配慮、もうひとつは怪獣プロレスにつきもののちゃちさを解消して迫力と臨場感のあるものに見せる工夫である。

まず前者の「配慮」のほうだが、ゴジラであれガメラであれ怪獣プロレス路線をお安いものにしている大きな原因は、ひとしくケダモノであるはずの怪獣が「人格」をもって善玉と悪玉に別れ、かつお互い関係ないはずなのに何の因果で喧嘩しているのか?というご都合主義なのだが、そのファンが感じていた積年のガッカリ感を、たとえば金子修介監督×樋口真嗣特撮監督の傑作「ガメラ 大怪獣空中決戦」などはかなり執拗かつ繊細に設定で慮っていた。ゆえにガメラもギャオスもひとしく人類の脅威と定義され、便宜上の命名も慎重に行われ、彼らがなぜお互いを意識してバトルに及ぶのかが、伊藤和典の脚本で画期的なリアリズムをもって書きこまれていた。所詮は怪獣のプロレスなれど、この外堀を繊細に埋める作業あってこそ、はじめて凄くわくわくできるプロレスになるのである。今回のハリウッド版「ゴジラ」は、この「ガメラ 大怪獣空中決戦」ほどのリアリズムではないものの、ひととおりこの新生ゴジラと敵方レスラーの横顔にふれて、なるべく怪獣のお安い「人格化」と「理由なきプロレスへの突入」という怪獣映画の病いを回避しようとはしている。

そして後者の「工夫」のほうだが、怪獣プロレス物のちゃちさを排除すること。なにせ怪獣のプロレスなんだからと作り手がタカをくくると、その見せ方はとことんチープに堕してしまうので、実はここはかんじんな監督の腕の見せどころなのだが、今回のハリウッド版「ゴジラ」のいちばんの成果はまさにここだったと言えるだろう。というのは、ひじょうにラディカルな要約をすると、長きにわたって「ゴジラ」シリーズを正しい怪獣映画ではなく安手のプロレス映画にしてしまっていたのは、その対戦の視座の据え方なのだ。つまり、邦画斜陽期の作品よりはぐんと質があがった平成「ゴジラ」シリーズにあっても、怪獣どうしが東京都庁や横浜ランドマークタワーなどご当地の名所をはさんで対峙するカットを典型に、怪獣を視るカメラの位置はほぼ怪獣と同じ高さなのである。言わば神の視点でも人の視点でもなく、漫然と水平的な視点に甘んじていた。これではいかにスーツアクター諸兄がアクションに腐心して奮闘しても、「人格」をもった着ぐるみのプロレスにしか見えないうらみがある。

だが、本来の怪獣の戦いは、にんげんの視座から畏怖とともに仰ぎ見られるべきものであり、信じ難く巨大な生物が、同じく高くそびえたつ建築物を破砕しながら暴れまわる戦慄と恐怖に満ちたものでなければならないはずなのだ。おそらく今までの和製「ゴジラ」映画では予算と技術的な限界により、そんな画を迫真性を持たせつつ実現することが至難だったのだろう(邦画でこの脅威としての怪獣を正しく表現しようと頑張っていた好例は、樋口真嗣監督による「ガメラ3 邪神覚醒」のガメラの渋谷襲撃の場面だが、ああいう見せ方は意外にも類を見ないと思う)。しかし、このたびのハリウッド版「ゴジラ」は最大の成果として、この「怪獣を畏怖する(=見上げる)視座」にとことんこだわっている。そういえば大抜擢のギャレス・エドワーズ監督の前作「モンスターズ/地球外生命体」は、まさにごく普通の現実の延長にモンスターが出現したらどうなるのか?という視点のありかを徹底して模索したような作品で(それはもちろん前作の場合、低予算を逆手にとる知恵だったわけだが)、この監督はとにかくこの「視点」へのデリケートな執着を買われて「ゴジラ」をオファーされたのではないかと思うほどである。パラシュートで降下する作戦部隊の視点で眺めるゴジラの図や金門橋の両サイドをはさんでとらえられるゴジラと軍艦の対戦の図など、常にゴジラを巨大なおっかないものとして眺める視点の死守によって、本作はかなり上々の愉しい怪獣プロレス映画になっている。

そんなことでくだんの怪獣と同じ高さで対峙をパノラミックに描くカットはわずか短い1カットに留めて排除する一方、第一作「ゴジラ」の顰(ひそみ)に倣ってなかなかゴジラが登場しないというタメの作り方は大事に継承され・・・というかいっそう有り難さを増して、なんと2時間の映画の相当な部分を過ぎてもゴジラが出て来ない!この粘りはあっぱれだった(思わず時計を見て笑った)。なにしろこうした細々とした配慮と工夫なくしてはゴジラはただのCG(もはや着ぐるみではないとはいえ)だし、やっていることはただのプロレスに過ぎないのだから。そこを丁寧に、大事に大事に慮ってもったいつけたりもしながら、G細胞をおっかない畏怖すべきイメージにまで培養してみせたギャレス・エドワーズ監督の「ゴジラ愛」が(あの憂鬱なローランド・エメリッヒ版とは余りにも対照的に)本作のそこかしこに横溢していた。

もちろんこうしてゴジラを「自然物」として崇める視点で撮られつつも、本作はあくまで構造的には怪獣プロレス映画であって、その限りにあってはすこぶる上出来だということではある。バカボンのパパ的にいえば「これはそういう映画なのだから、これでいいのだ」と思う次第だが、その一方で、こんな見せ方の技術の一切がまだプリミティブであっても、たまさかリバイバルされている第一作「ゴジラ」デジタルリマスター版(画も音も素晴らしいかたちで再現されていて必見)で再認識させられる「自然物」のもののあはれは、本作も含めた以後の「ゴジラ」映画とは根本的に異質の感動をもたらしてくれる。そういう意味では、この「自然物」と「レスラー」のそれぞれの方向で誠意をもってゴジラを突き詰めてみた両作を見比べてみるのは、決して悪くないことだろう。

そしてこれは余談だが、渡辺謙扮するセリザワ博士は名前がイシロー(猪四郎!)と凝った割りにはもうちょっと出張って活躍してほしかったといううらみがあれど、その一方で思いがけぬジュリエット・ビノシュの登場は嬉しいオマケだった。ビノシュが「汚れた血」「ポンヌフの恋人」で共演していた怪優ドニ・ラヴァンは近作「ホーリー・モーターズ」でずばり伊福部昭師の「ゴジラ」のテーマをバックにメルドなる怪獣に変身していたが、そんな人間ゴジラと言うべきドニ・ラヴァンに魅入られ続けてきたミューズのビノシュが、今回はついに本家ゴジラに出会ってしまったというわけである。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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