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樋口尚文の千夜千本 第23夜「幕が上がる」(本広克行監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:毎日新聞デジタル)

都会と映画への「妄想力」をたぎらせる夢中篇

『幕が上がる』を観ながら、ああ、いつもメガヒットシリーズを担わされて大変そうな本広監督は、本当はこういう映画を作りたかったのかという嬉しい発見とともに、『すかんぴんウォーク』という映画のことを思い出していた。今からはや30年以上も前の大森一樹監督、吉川晃司主演の青春映画で、私も大好きだが本広監督もかなり偏愛している映画である。広島からふらりと上京してきた青年が芸能界にスカウトされて歌手デビューする話だが、彼を応援する彼女やライバル視してはぐれてゆく先輩など、さまざまな人間模様が魅力的に描かれている。そんな話が、吉川が広島から泳いで東京に来たなどというアホらしくも映画的な飛躍や誇張をもって軽快に表現された、いきいきとした作品だ。『幕が上がる』を観ながら『すかんぴんウォーク』を思い出したのは、単にアイドル歌手の初主演映画ということゆえではなくて、それが都会にあこがれる地方の若者の物語だったからである。

『幕が上がる』で最も印象深かったシーンは、演劇部の実質顧問である黒木華が弱小演劇部のももいろクロ一バーZ一行に夜の新宿のビル群の光を見せに行くところだ。それは東京の住人にとっては見慣れたビル街の光景なのだが、少女たちにとってはとてつもない憧れの光景なのだ。このいわば”都会萌え”の感覚をここまできちんと描いた映画を久しく観ていないが、おそらくそれはつとに知られるように本広監督がうどんで知られる香川県の丸亀市の出身で、それこそハイティーンの頃に『すかんぴんウォーク』を観てテレビ界、映画界にあこがれた人であるからかもしれない。しかし一方で本広監督は『UDON』なる映画を作ったり、さぬき映画祭を盛り上げたりと地元の振興にも力を入れている”郷土愛”の人でもある。この”郷土愛”と”都会萌え”が同時にその作品から湧き上がってくるのは、大林宣彦監督の16ミリのアンダーグラウンド映画から初期の商業映画までの時代がその典型だと思うが、(もちろん世代的に大林宣彦の影響は多大とはいえ)とりわけ『幕が上がる』が大林映画を彷彿とさせるのもその「地方出身者」の映画ならではの香りが充満しているからに違いない。

これがたとえば同じ「少女と芸事」というモチーフであっても、東京出身の市川準監督が神楽坂の芸者見習いを描いた『BU・SU』や都心の花街に生まれ育った森田芳光監督が下町の落語の世界を描いた『の・ようなもの』などを観れば、驚くべきほどにこの憧れの放つ夢の香りはなくて、ごく淡々とした日常感覚やお茶漬けサラサラな軽いタッチに占められている(実は『BU・SU』は当初は大林監督に寄せられた企画であったというが、もしそれが実現していたらまた違った味わいの作品になったことだろう)。これに対して、本広監督は出世作のドラマ「踊る大捜査線」の頃から、舞台となるお台場をとらえる目線が地方の若者が妄想するあこがれの都会のようであった。あのレインボーブリッジとフジテレビのある風景を近未来の都市のようにカッコよく撮るという発想が、まず生粋の江戸前の監督には前提として無いはずだ。しかし、ここで本広監督がつくった夢のお台場はまさに地方の人々の妄想をかきたて、多くの観光客がフジテレビを訪れ、レインボー最中を買って行ったというわけである。

そして本広監督最初の劇場用映画『7月7日、晴れ』をたまさか田舎の映画館で観た私は、そこに描かれる芸能界や都会のありさまに、改めて強烈な東京をめぐる「妄想力」を感じたのだが、それが決して嫌いではなかった。なぜならその対象が仮に東京でなくてパリやニューヨークかもしれないが、こうした「妄想力」が生む”都会萌え”こそが若きクリエーターたちを輩出させる大きな原動力であったりするからだ(本広監督自身がきっとそうであるように)。そんな本広監督には、この裏返しのラインとして『サマータイムマシン・ブルース』や『曲がれ!スプーン』、あるいは『UDON』のように地方の町に根ざした”郷土愛”の映画があるのだが、今回の『幕が上がる』はこの”都会萌え”と”郷土愛”の両輪をたらふく愉しめる文字通り「本広印」の作品である。

それにしても、こんな本広ワールドのなかでいかにも機嫌よく遊泳させられてるももクロのはまり方は千載一遇な感じである。描かれる物語は至って地味なもので、弱小演劇部の部員たちが一念発起して全国大会をめざし、他校の公演を観に行っては恐れをなし、必死にオリジナルのシナリオをひねり出しては悩み、部員のスランプなども克服しながら、ついに本番を迎えるまでのごくシンプルな物語なのだが、過度な盛り上げを排してごく静かにももクロの日常を追う感じがとてもいい。演技のテンションはリアルというよりも現実より二三度高いレベルで統一されているが、一部のしまりのないインディーズ映画とは違うしゃきしゃきした虚構感が快く、またその微熱のテンションがももクロに似合っているという気がする。加えて、ももクロのメンバーは中途半端にうまくやろうとはせずに常に溌剌と前に張り出すことを考えているように見えたが、それは大正解であって、この奔放さを志賀廣太郎、ムロツヨシら教員たちに扮した芸達者が脇で締めるという構図も好ましかった。

それにしてもやはりこの教師陣のなかで黒木華は女優の夢を一度捨てた美術教師という役柄をとりわけ印象的に演じていて、夢をくすぶらせたまま人生に折り合いをつけようとしている女性の雰囲気がよくよくにじみ出ている(最近の黒木華は成島出監督『ソロモンの偽証』の真逆の鬱な教員役も、岩井俊二監督『花とアリス殺人事件』の声の出演も、いずれも見事に引き受けていた)。そして「吉岡先生、東京に行ってる時元気よかったよね」と一緒に合宿した演劇部の生徒に噂されるように、彼女のなかで女優=東京という価値観ががっちり出来上がっていて、それにももクロが共鳴感化されてゆくというところが竹を割ったようでいいのだ。こんなにSNSも普及して中央地方の壁はずいぶんなくなったし、舞台は富士の裾野の町だから実はそんなに東京も遠くはないのだけれども、ももクロのメンバーがおしゃべりする通学中の田園やひなびた駅(これらの風景の”郷土愛”ある点描には逆に都会っ子が”萌える”のかもしれない)が形づくる世界からやってくると、見ようによっては殺風景な新宿高層ビル街の灯りが満点の星空のように映る・・・。

この感覚、この「妄想力」こそが女優志望の教師と生徒たちを夢に駆り立てるものであり、また娯楽映画が長いこと大衆を惹きつける夢の源のひとつに違いないわけで、それを丁寧にきちんと描いてくれた本広監督の「地方出身者」のまなざしに大いに共振するものである。そしてこの作品は華やかな都会への「妄想力」をめぐる女子高生たちの物語を描きながら、ティーンの観客がこれを観終えた時にはきっとももクロというユニットへの「妄想力」がしたたかに高まっているに違いない・・・という意味では上々の青春映画でありつつ、ぬかりなきアイドル映画でもあるといえるだろう。

さて、まったくの余談だが、映画とももクロに絡むちょっと意外な話題を挙げるなら、モノノフの集う聖地である浅草の木馬亭は、かの根岸吉太郎監督のご実家なのでありますぞ。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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