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樋口尚文の千夜千本 第55夜「マンガ肉と僕」(杉野希妃監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:Motoo Naka/アフロ)

ガラパゴスから、見るまえに跳べ

『マンガ肉と僕』は女優、プロデューサー、監督とマルチな才能を発揮している杉野希妃の長篇監督第一作である。この作品のことを語る前に、今まで(きっと周りの誰もが感じていながら)真っ向からふれられなかった、杉野をめぐる素朴な疑問から始めてみたい。

杉野希妃は、たとえば深田晃司監督『歓待』『ほとりの朔子』や内田伸輝監督『おだやかな日常』といった作品をプロデュースしては国際映画祭で評価され、自ら監督した二作目『欲動』では釜山映画祭の新人監督賞を受賞し、ロッテルダム映画祭では日本人初の審査員をつとめ、若くして東京国際映画祭や台北国際映画祭で彼女の特集上映が組まれたりもしている。ちょっと彼女の年齢からすると、このキャリアは驚異的である。正確にいえば、ふつう日本映画にあって頭角をあらわすまでには、メジャー映画会社であれインディペンデントであれテレビ局であれCM制作会社であれ、何がしかのコースで徐々に認知されてゆくのがお定まりだった訳だが、杉野の場合はそのどこにも属さない謎の少女が忽然と現れて、いきなりこうしたキャリアを達成した感があった。映画大学を出た訳でも自主映画を作っていた訳でもないし、誰か映画界の先達に師事したのでもない。要は、これだけの活躍をしていながら、彼女は日本映画のあらゆる潮流から全く切れているのである。

そういう未知なる存在を、極東の映画界の作る/観るムラ人たちは訝しがるばかりではなかったか。かく言う私も2011年の『歓待』の試写の際は不明にも彼女の名前も顔も認知しておらず、試写室の出口に立つ主演女優の前を通過しながら、いったいこの人はどこから出て来たのだろうと思うばかりであった。確か『歓待』のサイトに応援の短評を送って御礼を言われた気もするが、それどまりであった。ところが、その秋に東京国際映画祭でいきなり杉野希妃の特集上映が組まれた時は本当に驚いて、この人は本当に何者なのだろうと興味を惹かれ、こちらから杉野をずけずけ探ってみようと会見を申し込んだ。以後は・・・自分の映画にも女優として出演をお願いし、また逆に彼女のプロデユース作のトークに赴いたり、最近では彼女の新作映画のキャスティングに協力したり・・・というようなつきあいを重ねながら、杉野のヒミツを垣間見ようと試みた。

しかし端的に言えば、ヒミツも何も彼女のこの目覚ましいキャリアは、世界中の映画祭に自ら愚直に飛び込んで行って認知を図った、ひたすらその足で稼いだことの賜物なのである。何か根拠となるキャリアがあるのでもなく、謙遜であろうが本人いわく英語とて堪能ではないのに、とにかく国際的な土俵で映画を作って見せて行こうと思い立ち、その勢いで海外に出かけていったというのだ。きっと彼女には何やら世界中の映画祭ににらみをきかす豪胆なるパトロンでもいるのではないか(?!)と言った爆笑ものの風説さえ耳にしたことがあるが、いかに映画好きの才媛がいたとして、まさかこうした裏付けなき思いつきを即座に行動に移し、基盤なきところで努力を重ねるという事はまずありえないので、そんな噂話が湧いても無理もなかったかもしれない。それほどに、彼女の登場と順風満帆ぶりは唐突であり、しかも華々しかった。もちろんその行脚の過程では彼女の美貌と知性にイチコロの映画界のオジサンたちもいたことだろうし、現にそういう向きを幾人も見かけて微笑んだりもしたが(そもそも女優なのだからそのくらいしたたかで丁度いいくらいだが)、しかしそんなことだけで世界のさまざまな映画祭に受け入れられるほど現実は甘くはないだろう。

さて、今ひじょうに気になるのは、こんな従来の日本映画の潮流を無視して世界に飛び出し、着々と評価を得ている杉野希妃とその作品が、国内の映画賞や映画論壇では全くと言っていいほど俎上に上がらないということだ。ここで心配なのは、しかし杉野のほうではない。何かこうして日本的な〈伝統〉から切れて、あらかじめ軽快にグローバルである映画人と映画作品に対して、余りにも日本の映画論壇はガラパゴス化してはいまいかという心配である。ガラパゴス日本におけるデジタル化とグローバル化は極めて急激な世代交代によって推進されつつあり、旧套の物差しでしか物事を考えられない先行世代の夜郎自大ぶりが若い世代の跳躍を阻んでいるというシーンは、さまざまな企業活動において見出されることだ。大げさに言うと、こういう構造の縮図が杉野希妃と日本映画界についても敷衍できそうな気がする訳である。

事ほどさように杉野は閉鎖的な人脈やら狭隘な映画美学にがんじがらめになった旧来の日本映画界とは全く無縁のところで、ほぼ「見るまえに跳ぶ」感じで世界へ(天真爛漫に!)どんどん出かけて行って驚嘆すべき成果をおさめていった訳だが、その〈伝統〉から切れている判らなさゆえに彼女を胡乱なものと否定するのは後ろ向きな事である。マックス・ウェーバーの師テオドール・モムゼンは、ウェーバーの論文が新し過ぎて理解し難いとしつつも、その行く手を阻むことはしないと表明して博士の学位を授け、「わが子よ、汝我にかわりてこの槍を持て」と新世代への期待の言葉を託した。この逸話は大島渚が大いに好んだもので、私は折にふれ大島のスピーチで耳にしたが、まさに現在の杉野に申し送りしたいと思う。もちろん現在の杉野のプロデュース作や監督作はひらめきと行動力で突っ走ったような粗さもあるので、そこを手放しで持ち上げようというのではないが、そもそも若い杉野はこれから羽ばたいてゆく才能である訳だし、まさにこのひらめきを次々とグローバルな行動に移す身軽さだけでも大いに評価されるべきだろう。

さて『マンガ肉と僕』の話がなかなか始まらないのには訳があって、この作品における女優としての杉野がどんなかたちで登場し、それを監督としてどんな意表を突く展開で見せるのか、あまり語りたくないのである。溝口健二『浪華悲歌』にあやかって”Kyoto Elegy"とうたい、市川崑映画を完コピしたような明朝タイトルで始まる遊戯的な本作で、杉野はとんでもないケッサクなアイディアを愉しんでいる。このアイディアもなんとなくひらめきを速攻で画にしたようなところがあって、全体の構成もはてこれでいいのだろうかという点はあるのだが、粘りに粘るというよりは思いつきを即座に行動に移す感じのラフな勢いが杉野らしくもあり、あらゆる意味で処女長篇らしい愉しい作品である。共演の三浦貴大は快作『ローリング』ともどもダメ男をずるずると演じて秀逸で、大ベテランの高間賢治のカメラは、杉野の「見る前に跳ぶ」持ち味を通常の低予算即製デジタルムービーとは一線を画す美しい映像をもってよき方向に補完している。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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