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樋口尚文の千夜千本 第72夜「君の名は。」(新海誠監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

甘美な感傷にくるまれた世界の「孤絶」

『君の名は。』では、主人公の心優しき男女の高校生・三葉と瀧が、当初『転校生』のようにお互いの心が入れ替わっていることに気づく(ここまでは巷間に流布しているので、論を進めるためにバラしても罪にはならないだろう)。ただ『転校生』と既に違うのは、二人がお互いを知らず、しかも物理的な距離を隔てたところに暮らしているということだ。だがそこは現在のネット社会のコミュニケーションの妙で、そんな難易度の高い入れ替わりを経ても、二人は未知なる相手の正体を察知し、親近感を深めてゆく。

こんな展開があって、さて中盤以降どんなふうにひねってゆくのだろうと思いきや、さらにちょっと意外な秘密が露わになってゆく(これはさすがに初見時のお楽しみをそぐので言及は控える)。のどかでユーモラスであった物語は一気に悲しみや祈りやさまざまな感情をたたえた物語に変質してゆく。これはおおごとに構えれば、震災以後の傷んだ精神を救済する寓話のように解せるかもしれない。

そんな『君の名は。』は2002年の『ほしのこえ』で一躍一般にも注目された新海誠監督が、一段と大舞台での活躍を求められた作品であり、実際スケール感のある見せ場もいくつか盛り込まれてはいるのだが、根っこのところはティーンの不安定な妄想じみた世界観が一貫していて、そこがいいのである。もちろん後半に開示された秘密はいかにも大がかりなファンタジーとして、この作品を盛り上げてゆく仕掛けではあろう。だが、これもよくよく考えるとかねて新海監督が反復してきた細やかな主題を再演するための口実のように思えてくる。

思うに、新海誠がこれまでに繰り返し執拗に描いてきたものは、世界のシンクロニシティと、その「ここ」と「よそ」で生きる人々の絶対的な孤立であるはずだ。いやむしろ人々は世界のなかで、都市の群衆のなかで「孤絶」しているのだ。ひとことで言えばそんな世界まるごとの手ざわりめいたものを、新海監督は好んで描こうとしてきたように感じる。もちろん新海作品とひとくちに言っても、ロボットアニメ的な『ほしのこえ』や宮崎アニメ的な『星を追う子ども』のような作品もあって多彩なのだが、『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』などの面目躍如たる風景(情景)描写は、どの作品においても物語を追い越した主役感をもって鮮烈に主張してやまない。その身上とする立体的な遠近感と光芒に彩られる日常の寄りの部屋と、細密にミクロな部分までもが鼓動する引きの都市の対置が生み出す「世界」のざわめき、そんななかで小さな木石のごとき男女が、それぞれの世界にたたずむ。

新海監督がたとえば宮崎駿や富野由愁季のような作家たちと異なるのは、こうしてアニメ表現によって「物語」を語ることより「けはい」を醸すことに圧倒的な力を示すことだろう。実際、いつも「物語」の終焉とともに余韻も何もなくバッサリとタイトルロールに移行する宮崎アニメの筋肉質に対比させると、たとえば『秒速5センチメートル』の終盤などは「物語」の終わった後の余韻がえんえんと続いているようなことと解されるかもしれない。だが、新海監督は、宮崎や富野だったら贅肉もしくはただの雰囲気として切り捨てるところにこそ全力を傾けるのである。その結果、「物語」という口実が有効な限りにおいてアニメは生命を持つ、という往年の名作動画の貞操感覚からすると、感傷的なムードの無為な引き延ばしのように見えかねないディテールが、がんがんと肥大する。しかしその「物語」ならぬ「けはい」の領分は、新海作品のむしろ中枢である。

その「けはい」の表現は作中の細部でさまざまに湧出し、やがてこれでもかと沸騰するのだが、確かにそういう場面は惹かれ合いながら別れる男女のメロドラマ的掛け合い(ここがまた新海作品特有の部分でもあるのだが)によって感傷のムードを殊更に盛り上げ、延長するかのようだ。正直に言えば、私ははじめそこが苦手で新海作品を敬遠しているところがあった。なにげない街角が舞台でもそうなのだから『君の名は。』のようにややスケールがおおごとになっていく作品では、なおのことその定番の盛り上げは増幅再演される。だが、ここで刮目すべきは、そういったわかりやすいセンチメンタリズムの糖衣によってつい目をくらまされがちだが、新海作品が怒涛のごときアニメ的語彙をつぎ込んで実際に獲得している感興はそんなに単純なものではない。

新海監督がアニメ表現そのものによって実質的に達成しているのは、世界の多様さの手ざわりと、どこまでも人と人が「孤絶」したまま偏在している「けはい」であって、男女の主人公の感傷的な台詞の応酬はそれでもなお発せられるあがきのようなもので、そこが真なる感動の根拠ではない。多くの観客はきっとそのセンチメンタルな悲恋の話のところで視線が曇ってしまうのかもしれないが、そこで進行しているアニメ表現の実質は、もっと豊かですさまじきものである。正確にいえば、観客は誰もが実はこの新海監督の「物語」ならざる豊饒なる「詩」のチカラにこそ感動しているのに、ただそれに気づいていないだけのことである。

さて、この「物語」ならざる「けはい」または「詩」をもって観客を虜にしている作家として思い出すのは、岩井俊二監督だ。近作の『リップヴァンウィンクルの花嫁』で、主人公の黒木華が悲しみで途方に暮れて自分が東京のどこにいるのかわからなくなって号泣するのを劇的に描いている場面があって、ここなどは意地悪に「物語」効率の観点から刺せばまるで冗長に盛り上げ過ぎに映るはずなのだが、岩井一流の画角や音楽の調合によって逆に異色の「けはい」を漲らせたディテールになっている。新海作品も、物語自体は時としてセンチメンタルでむだに停滞的であったりするのに、表現のチカラがそれを追い越してゆくのである。

もっとも、こういう「詩」のチカラが無理なく発揮できるのはたとえば『言の葉の庭』(46分)やせいぜい『秒速5センチメートル』(63分)くらいの中篇(岩井俊二にあてはめるなら出世作のドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』や奇しくも『言の葉の庭』とほぼ同じ尺の映画『undo』など)に違いない。したがって、『君の名は。』は物語が後半スケールアップした仕掛けを含むぶんだけ大変そうな感じではあったが、それでも監督は果敢な細部の新海調によってみごとにこの大舞台をねじふせていたと見るべきだろう。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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