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樋口尚文の千夜千本 第73夜「エミアビのはじまりとはじまり」(渡辺謙作監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

贅沢品のように笑いの成就を遠ざけて

悲しい顔づくしの映画である。森岡龍、前野朋哉、山地まり、黒木華、そして新井浩文と、いい俳優揃いの映画だが、この顔ぶれがいちいちどこか悲しい(暗いのではなくて、どこか儚げなのである)。そういえば、同じくお笑い芸人の業を描いて秀逸だった配信ドラマ『火花』も、主人公を筆頭に悲しい顔が占拠していた。そこで思い出すのが、チャップリンにせよエノケンにせよ、最上の喜劇役者はみな悲しい顔をしているという説である。

渡辺謙作監督の脚本・演出は、相棒を喪失して人を笑わせることに絶望した芸人を主人公にして、ではどうすれば笑いは帰って来るのか、笑いはどうやって生成されるのかを改まったかたちで探ってゆく。かつて天才芸人と呼ばれた新井浩文が、自信を失いつつある後輩の森岡龍に、逝ける妹の供養として自分を笑わせろという。だが、新井は鉄壁のごとく森岡の芸をはねつけて、笑うどころか不満の怒りで激昂してゆく。森岡は焦りを隠せず、ついにはこの無理難題に悪意を感じてキレてしまう。

・・・のだが、ここで真に笑いをもくろんでいたのは新井のほうで、森岡は愕然とする。確かに笑いは緊張の緩和と常識のずらしから生まれるという定説があるが、新井はそれこそ最大級の緊張をもって、森岡を追い込んでみせる。それもこれも、めげている森岡を焚きつけ、笑わせようとした新井の心根ゆえのことであるが、森岡も、そして新井本人もむしろ自分が逃れたくても逃れられない悲しみに気づくばかりである。このへんの一筋縄ではいかない感情のゆらぎがうまく出ている。

と、そんなこんなで笑いは帰ってこない。以後、回想というよりもどこか幻夢的な想像のようなかたちで、不在の前野朋哉と彼が大事にした彼女の山地まりをめぐる逸話が語られる。ここで観客は、森岡や新井をここまで呪縛する、生前の前野朋哉がいかに好人物で、いかに笑いの才能があったかということが語られるのを期待するだろう。しかし、回想中の前野はまたこれがなぜともなく哀しい。山地まりを口説こうとした食堂にバンドを仕込んでカップル気分を盛り上げようとした前野が、神聖なる彼女に気安くふれてくるバンドマンに苛立つところが印象的だ。この発注者のくせにいたく見くびられている前野には、何か不幸がつけいってきそうなおどおどした雰囲気がつきまとう。

そして実際、さらに二人は忌まわしい出来事に見まわれる。このあたりのどこか不吉で儚げな描写がとてもいいのだが、ここで前野は山地を巻き込んだピンチを脱するために、あるとんでもない捨身の芸を披歴するはめになる。これはしかし、ちょっとあり得ない芸であって、なんとなく残酷な回想の誰も知らぬ展開がこうであったなら・・というファンタジーのようでもある。とにかく人格をかなぐり捨てた芸は、笑いというよりどこか愁いを誘うばかりである。またしても屈託のない笑いはやって来ない。

『エミアビのはじまりとはじまり』は、したがって遂に復元されることのない笑いをめぐる哀しみと痛みの映画である。そこで描かれる後ろめたさや臆病さ、弱さといった感情は、実に鮮やかであるのだが、ここは何とか笑いを獲得しようとあがくほどに哀しみの側にからめとられてゆく『火花』の主人公にも通ずるところだ。かつて笑いに全身全霊を捧げた芸人を描いて観る者全員を暗澹たる気分にさせた『鬼の詩』という力作があったけれども、こうして笑いと芸人というモチーフにはどうして哀しみがつきまとうのだろうと思った・・・

が、それは逆なのだろう。つまり、笑いは人を武装解除させて和ませ、常識をずらすところに生まれるもので、こういうどこか哀れに壊れそうな人間こそが芸人に向いているのかもしれない。本作がもし弾けた笑いづくしであったら全篇が出オチのようなつまらない映画になったかもしれないが、あたかも笑いの成就を贅沢品のように遠ざけることで、悶々と割り切れない人間の面白さが充満する傑作となった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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