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樋口尚文の千夜千本 第74夜「湯を沸かすほどの熱い愛」(中野量太監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

偶然の旅行者たちの、非センチメンタル・ジャーニー

実はかれこれ半年近く前に内覧試写でこの作品を観て、すぐに何かを書こうと思ったのだが、こういう非の打ち所がない作品ほど何か言葉を弄することを虚しく思わせるものはない。もう作品を観ている途中から余計なことは書くまでもなしと思ったのだが、ただ中野量太監督には最大限の謝意をこめて「これだけ悔いなきOKカットだけで成立している作品を撮ってしまったからには、もう次回作にとりかかる前に、たとえば明日大地震が来てこれが遺作になっても全く思い残すことはないですね」とメールを送った。すると中野監督から「せっかくここまで来たので、もうちょっと撮りたいですよ~(笑)」という爆笑のお返事を頂いた。という訳で、本作は世に言う「映画の神に愛された作品」というたぐいのものだろう。

それから約半年を経て細部もぼやけて来たので、もう一度試写で見直してみた。さまざまな展開を知ったうえで観てみると、ああ、こんな伏線がさりげなく張られていたのか、あるいはこの台詞をこの時点で聞いた人物の感情は実はかなり複雑なのではないか、等々の気づきが改めてあって、ワンシーンごとのシナリオの無駄なくさまざまな関係性を含んだ入念な練り具合も見えてきて、いっそう興味深かった。そんな訳でいきなりではあるが「二度目も観るべし」とまで期待を煽りつつ、少しばかり蛇足な感想を記しておく。

宣伝でも明かされているように、本作では主人公の宮沢りえ扮する気丈な母が余命いくばくもないと知り、最後にいくつかやり残していたことを決行する、という物語である。こんなおおまかな筋書きを聞いた限りではちょっと食傷気味な難病物メロドラマのように思われるかもしれない。しかし、実際にこの作品を観ると(確かに要約すればこんな筋書きになるのだけれども)まるでそんな泣きを売る退嬰的なものではないことがすぐにわかる。もしかするとわれわれは心のどこかで、概ねこんな設定なのだなとわかった時点から「しからばこんな催涙的な展開になるのであろう」とあれこれ予想をし始めている気がするのだが、本作はそういった「こうなるとつまらないな」という凡庸な流れのトラップをひとつずつ軽やかにかわしていく感じである。

その何よりの決め手は、宮沢りえの母が常に極めて意志的で、病魔にさいなまれつつも全くひるまないことだろう。末期癌を告知する医師に対しても気丈に「顔がコワすぎ」と言う彼女は、まず存命中の第一目標である”蒸発”したオダギリジョーの夫を家庭に引き戻すというミッションを、問答無用でやってのける。その際、オダギリジョーの額をお玉で殴打してこらしめて、そこからポタポタ落ちる血をすぐさまそのお玉で受け止める、という爆笑のアクションがあるのだが、このくだりは象徴的だ。宮沢りえがオダギリジョーをシリアスに成敗する修羅場が、次の瞬間にはもう喜劇に転じている。この居合か早撃ちかという感じの映画的処理で表現された、つまらない感傷抜きに事態をあるべき方向に転調させてゆく宮沢りえの意志のありかたが、物語の無駄な停滞をいきいきと排除してゆくのである。したがって、これは実にひとりの女性の臨終に向けての悲愴な物語であるはずなのに、そういう湿度はどこへやらひじょうに活気に満ちた作品になっている。

以後も宮沢りえは、ある家庭の秘密にかかわる女性をひっぱたき、自らの思いを冷淡に裏切った女性の家のガラスを割ったりと、常に「手が早い」ことが属性になっていて、それは怒りの表現に限らず、親の約束破棄に虐げられる娘の伊藤蒼(この子役の見せる薄幸顔は本当に凄い!)や愛情に迷えるヒッチハイカーの松坂桃李に対しても率直な抱擁をもって百の台詞に替える。この母の影響にあずかって、「自分は最下層の人間だ」と鬱屈していた娘の杉咲花(力作『トイレのピエタ』の時とはまた対照的なしおらしい熱演)も、まさに意表をつく捨身の主張の一撃でいじめっ子グループを圧する。こうした意志が無駄な情緒を追い越してアクションに凝縮されてゆくことで、冗漫な解説や雰囲気だけのディテールはそぎ落されてゆく。思えば、この行方不明のオダギリジョーを奪還した際に、彼の子らしい伊藤蒼が付いてきたことも(杉咲花が学校から帰ったら、あたりまえのように父のみならずこの子までが家にいる、という展開なれど)宮沢りえにとって本来は許容しがたい裏切りの産物であろうに、それをめぐるありがちな諍いや諦めや和解のプロセスは見事に排除されている。

前作『チチを撮りに』も親と子の関係性が主題であったが、本作もまた「親の因果が報いてしまった子どもたち」の痛覚と再生をめぐる物語である。物語のなかでは最も自由な風来坊であちこちで子どもを作りまくっても、なぜか憎めない人として甘やかされているオダギリジョーは、そんな過去のないのんきな存在なのかと思いきや、実はあれこれ不遇なことがあって家業の銭湯を継いだらしいことがほのめかされるし、常に負けない宮沢りえまでもが実は親をめぐる不幸を抱えていたという横顔も明かされる。本作は途中から訳あってのロードムービーに一時転ずるが、こうして見るとこの家族または家族的なつながりで結ばれている登場人物たちはまるで血の絆はなくて、ほとんど人生という旅路でたまたま居合わせた「偶然の旅行者」たちなのであった。そこがまた本作を単純なメロドラマにしていないところである。

いささか誉め殺しに近いので、あえてこれはどうかと思ったところをたった一点だけ挙げるなら、圧倒的な意志力で感傷を蹴散らしてきた宮沢りえが、病床にあってこの優しき「旅行者」たちのある泣ける思いつきにふれて、初めて「死にたくない」と涙を見せて玉砕する訳だが、ここ以後はもう一切宮沢は出てこないほうが絶対効いたと思う。いまわの際の弱りきった宮沢の表情も、それを挽回するサービスカットのような祭壇の花に包まれた宮沢の美しいなきがらも、もはや不要であろう。「死にたくない」と号泣して本作中初めて情緒のかたまりとなった宮沢が、次にはいきなり情緒も意志もない「物体」と化して棺桶に隠れている。そのくらいの簡潔さで飛ばさなければ、本作を通して積み上げた表現のスリムさにはつりあわないのではないかと思う。

実は、もともとは気になったところがもう一点あって、この中野監督の明晰で的確なストーリーテリングに感服しながらも、まだ若い中野監督にあってこの犀利に過ぎる着地ぶりはどうなのだろう、いくらなんでもどこか一か所でもはめを外して冒険や飛躍を試みてくれたっていいのにと、ないものねだりをしたのであった・・・が!このニューウェーブの「寅さん」シリーズとも見紛うような上々のホームドラマは、最後に思いきりロックな、痛快な弾けっぷりを見せるのだ。ああ、これをやりたいがために全篇静かに乱れなくやってきたのではとさえ思わせる、チャーミングな幕切れであった。銭湯の煙突から『天国と地獄』のようにたなびくのは、宮沢りえが好んだラッキーカラーの煙であって、これは宮沢が遺された〈家族〉全員に意志を申し送りできた勝利の狼煙なのだった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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