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樋口尚文の千夜千本 第75夜「淵に立つ」(深田晃司監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

映画の深き淵にきわどく立つ

この作品を一度観た時に、ひじょうに面白く、わくわくさせられるとともに、ちょっとどうでもいいような事を考えた。それは、こんな不吉にして玄妙なる映画の資金を集める時、いったいプロデューサーはこれをどんな映画だと言い張るのだろうか、ということである。そんな事を考えていた矢先に、本作を観た黒沢清監督が「これはホラーですね」と言ったと聞いた。確かに、これは浅野忠信という悪魔に侵食された不運な一家のホラーである、と言い張るのが口実としては最も納得度が高いものかもしれない。黒沢監督の傑作『トウキョウソナタ』なども、家庭崩壊を禍々しく描くホラーだと言えば、いくぶん企画も通りやすかったかもしれない。

さていったい『淵に立つ』のプロデューサーは、この作品をどういうものと言い張って資金繰りしたのであろうか。彼はもしかすると本当にホラーと言ったかもしれないし、異色の夫婦崩壊劇と言ったかもしれないが、幸いなことに映画そのものは、製作者や監督が処世上の便宜でどんなレッテルを貼ろうが、どんな要約や口実を言い張ろうが、その囲い込みを勝手にゆうゆうと超えてゆく。黒沢清監督の諸作は、ビジネスとしては「ホラー」で企画され制作され、「ホラー」のジャンルでビデオ店の棚に並び、あるいは配信される。しかし、映画の実質はいわゆる「ホラー」よりも戦慄的、蠱惑的な領域へとはみ出している。作り手が意識的であれ無意識的であれ、商品としての欺瞞と引き換えに、映画のこの越境と侵犯を導き出せば勝ちである。

そんな事をつらつらと考えてしまうほどに、この『淵に立つ』という作品を観る者は、映画の深い河に吸い込まれそうになりながら、物語の架橋の淵に立つような不穏な(そして途方もなく魅力的な)瞬間に立ち合わされ続けるのである。こんな危ういものを、どう世俗的に価値づけて、どう商売になると言い張れようか。おかしな感動のしかただが、現在の映画業界にあって、この妖しく豊かな作家的な時間を具現化することがいかに難しいことか。しかも、深田晃司監督には、このところその緻密な作劇の資質に、映画の深淵に落ちかかっているきわどさが増して来て、そこがまた面白さを募らせて二度目の試写を観た。

ここで自分自身を引用すると、私は2010年の深田作品『歓待』のサイトにこんなコメントを寄せている。「ロッテルダムで評判とは聞いたが、かなりミニマルなつくりのデジタルムービーながら、極めて充実した作品。その訳は、緊密な脚本、簡潔な演出に加えて、俳優たちの動静の「読めなさ」にあるだろう。その演技がリラックスしているのもいい。 俳優の中でも印刷屋一家を波乱に陥れる闖入者に扮した古舘寛治の怪人ぶりは、飄々と図々しく、時にやけにおっかなく、本作をパワフルに牽引する。翻弄される杉野希妃のくたびれ加減も共感を誘う。最後まで息をひそめて観てしまう下町ロメールふう?コント。 俳優も皆いいが、この作品のいいところは狭い印刷屋に出入りする男女全員のよこしまな感情を無言のうちに描いた脚本と、それを雄弁な省略によって着実に撮っていった演出の掛け算である」。

この感想からも何となく伝わるように、深田作品はどこか計算ずくの巧緻さが勝っていて、それが続く『ほとりの朔子』、さらに『さようなら』と作品を経るごとに、それこそ「喜劇と格言劇」的な様式や計算から解放されて、もっと虚心に映画に身をゆだねるようになっているように思う。下町ロメール(!)などと評した『歓待』などはその寓話的な完成度が見事でもあり、且つそこが聊か窮屈でもあったのだが、もともと極めて犀利な構築と自制をむねとする深田演出が『ほとりの朔子』ではいくぶん緩くなり、『さようなら』では映画に身をまかせ、本作では映画の深い淵にのぞんで壊れ、手探りしている感じがする。

さて、こうしてなかなか具体的に物語にふれないのは、観る側もなるべく丸腰で虚心に作品に向き合ってほしいからなのだが、ひじょうにかいつまんで言えば東京の端っこでつつましく金属加工の工場を営む夫妻(古舘寛治、筒井真理子)の家庭に、夫の旧知の人物である浅野忠信が闖入してくるところから物語は始まる。浅野はずっと服役していて出所したばかりだというので、当初は筒井にかなり訝しがられるが、その夫の古舘とは対照的な柔らかな物腰や思いがけない教養にほだされて、筒井も十歳の娘(篠川桃音)もすっかり好感を抱いてしまう。このあたりの最初の不信感がギャップを生んで女性たちが浅野になびいてしまう過程の表現もいいが、そのソフトな態度の浅野が古舘と二人きりの時にどきりとするくらい豹変する描写など、ただならない感じの持続が惹きつける。浅野はごく静かな様子でありながら、古舘には脅しをもって、筒井には媚態をもって、彼らをじわじわと支配下に置こうとする。それとともに、古舘と筒井の夫妻には、それぞれの秘密とやましさが増幅していくのだが、彼らの「罪」はやがてとんでもない凶事によって逆襲される。

ここまでの前半は、浅野、古舘、筒井の芸達者によるきめ細かな感情表現の積み重ねにより、奇異なる虚構のリアリティが実現され、それは思わぬカタストロフによって異様な亢進を見せるのだが、後半はごく静謐に彼らが「罰」にどう身を処しているか(いくか)が描かれる。まずその「罰」がいかなるかたちになって到来しているのかが明らかにされるまでの流れは秀逸で、その真昼の悪夢めいた描写には慄然とさせられる。そのことで夫妻が打ちのめされ、力を失っているのは一目瞭然だが、元凶である(姿を消した)浅野への峻烈な怒りがおさまっていないのは、古舘と筒井それぞれの新入りの工員の太河に対するヒステリックな態度から明らかだ。

鮮烈な印象をのこす前半はもとより、長き不在にもかかわらずずっと夫妻と娘のそばに禍々しく偏在するかのような浅野忠信の存在感は圧巻である。彼は前半の終盤で白い工場のツナギを脱いで真紅のシャツ姿になって、まさにその悪魔的な炉心が露わになる感じであったが、そこで生身の存在からベルイマン的な禍々しさのアイコンに転じた浅野は、後半もずっとすぐそこに生きている訳である。その浅野を追い続ける古舘と筒井がズタボロになりながら行き着くラストは壮絶で、思わずこの映画はいったい何であったのだろうかとため息をつくばかりだ。ここで映画自体もていのいい物語と訣別し、劇中の古舘同様、じたばたとただ呼吸をし続けるのであった。ここで深田監督は、かなりの映画の難所にまで登攀を試みているが、そんなこの作品をいい映画呼ばわりするのは手ぬるく、いと凄まじき映画と呼ぶべきであろう。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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