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樋口尚文の千夜千本 第84夜「14の夜」(足立紳監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

中坊に「伴走」ならぬ「同化」する重喜劇

思春期の中坊の生態を描く映画で、父役が光石研となると、これはあの天下の傑作『博多っ子純情』(曾根中生監督)みたいな作品なのかなと勝手に推測していた。だが、『14の夜』を観て気づかされたのは、あの思春期映画の至宝と思っていた『博多っ子純情』はあくまで虚構としてうまく描かれた子どもたちに監督が「伴走」する映画であって(そのスタンスにおいては比類なき傑作であることに変わりはないが)、対する『14の夜』は監督が「同化」している映画なのだった。これは実はでかいことなのだ。

つまり「伴走」とは子どもたちを(そばに接近しながらも)客観視しているわけで、彼らの間抜けっぷりを面白おかしく描く余裕がある。だから、『博多っ子純情』は企業映画としてはかなり子どもたちをヴィヴィッドに描いた作品なれど、実に気がおけない爽やかに笑える映画である。しかし『14の夜』は、ちょっと腹を抱えておかしむような映画ではなくて、むしろ笑うに笑えない作品である。そこがちょっと予想とは違うのだが、このことさらに深刻ぶるわけでもないのにどうにも笑えない感じがひじょうによかった。今どきのヒット映画の浅はかなる要件は「泣ける」「笑える」みたいにほとんどお猿さんレベルになっているわけだが、『14の夜』はホラ笑えなくたってこんなに面白いだろうというところをやってみせてくれている感じだ。

そう、この途方もなく間抜けでオバカで、でも切実な季節にあって、男子はそんな天真爛漫ではいられないのだ。しかもこの80年代後半のうららかなれど「しまらない」感じの日だまりの時代の、冴えない地方都市の、ああこんな感じの店よくあったなあという雰囲気のしがないレンタルビデオ店で、AV女優が真夜中のサイン会に訪れるらしい・・という出所不明のウワサにおどらされて、町じゅうの男子が発狂するという設定は、ひじょうに秀逸である。よもやスコセッシの『アフター・アワーズ』なんかが頭にあったのかなあなどと推測したが、足立監督はじめメインスタッフ各位が『アフター・アワーズ』のファンであったと後から聞いてわが意を得たりであった。

しかし光石研がまたまたいい味を出しているので、話を『博多っ子純情』にチョイと戻すと、あの映画を撮った時の客観的な「伴走者」の曾根中生はまだ41歳で、実は足立紳監督より若かったというのだから昔のひとはオトナである。だからこそ、あの映画で光石研の父で博多人形職人をやっていた小池朝雄は威厳もありカッコよくキップのいいオトナとして描かれていた。だが、あの時代の少年たちが見かけだけはオヤジになった今、オトナとコドモの境界はすっかりぼやけて、オトナコドモみたいな人びとが溢れかえっている。いや、正確にはこの映画は今から三十余年前の、足立監督の思春期を描いているわけだが、そういう今どきのオトナコドモの時代の起点はあの呑気で凡庸な時代に遡るわけで、まさに小池朝雄と対極に「よくしまらない」オトナを快演する光石研は、そんなポジションを引き受けていて重要だ。これは、足立監督というよりも、光石研にとってこそ『博多っ子純情』への切実な返歌なのかもしれない。

さて、ちょっとずっこけた事故を起こして出勤をおあずけにされている教諭の光石研は、年甲斐もなく小説家への夢が捨てきれないわ、娘の門脇麦が婚約者の和田正人を連れてきたら醜態をさらしまくるわ、(あの草むしりやエロビデオのくだりは本当におかしい)まあとにかくカッコわるい。とにかくこの「しまらない」父がだらりと家にいて、やってほしくないことばかり連発するのをウザく思い続ける主人公のタカシこと犬飼直紀だが、オトナをめぐる幻滅はこれに留まらない。タカシと友人たちはそれこそ性欲でアタマがおかしくなっているにもかかわらず、それでも町をふらつく後藤ユウミ扮するオツムの弱い女(性欲的なローカル映画の傑作『祭りの準備』に出て来る正気でない桂木梨江よろしき)にだけは手を出す気になれないと最低限の美徳を持っていたのに、友人の父親がその女としけこんでいるのをみんなで目撃してしまう。タカシは、この惨劇に比べれば自分のオヤジのもたらす恥もまだ軽症かしらと、もう目糞鼻糞を笑うレベルのことをぐだぐだ考えている。

本作では近所の同級生のセクシーなヤンキー(浅川梨奈)やビデオ屋の女(内田慈)をめぐる『博多っ子純情』というよりは『パンツの穴』的な性的妄想を描くお約束の部分もさることながら、こうした友人と自分のセコい優劣をずっと気にし続けるコドモたちの人間関係の描写が妙に面白く、大言壮語していたヤツが最もヘタレであったり、思わぬポジションの友人が思わぬやり方で番狂わせを起こしたり(ここは突飛もいいとこなのになんだか気分がわかるところがおかしい)、まあいつもの友人どうしや不良グループとのやりとりのなかで、ちゃちで無根拠な人間関係の優劣が小刻みに反転してゆくのが面白い。

そこで今さらのように思うのは、このオトナ社会の虚構の掟にまだ縛られていないコドモたちは、実に根拠のない優劣の悩みとともに放牧されていて、自由ではあるが、はなはだわけがわからない残酷にさらされている。AV女優の「よくしまる今日子」が深夜ビデオ屋に来店するのではという謎の噂は、いわばそんなコドモたちの「いつも」を増幅させる起爆剤なのであった。そこで見えてくるコドモたちの生態は、けたけたと笑ってみるにはシンコクである。青春の「同化者」である足立紳監督は、その現象的には珍妙ながら当人はシンコクの極である彼らの大変さに、映画ごと共振してみせる。だから、この映画は青春コメディではなく、コドモたちによる「重喜劇」なのだ。

それにしても、この地獄めぐりのような貴重な14の一夜を明かしたタカシくんが到達した、通夜と初夜がいっぺんに来たような含みある哄笑はどうだろうか。彼もこうして血まみれになったりしながら、光石研のダメおやじが言った「おまえがカッコ悪いのは、父さんのせいじゃないからな」のひとことが徐々にわかってくるのだろう。それにつけても、「よくしまる今日子」のキャスティングが沖田杏梨であったのは、「とってもナイスですね」。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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