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映像はいかに変わったか――ポストメディア化と「ハリウッド的」なるものの変容

飯田一史ライター

筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。

共同討議(1)

飯田一史×海老原豊×佐々木友輔×竹本竜都×冨塚亮平×

藤井義允×藤田直哉×宮本道人×渡邉大輔

■映像はいかに変わったか――ポストメディア化と「ハリウッド的」なるものの変容

飯田

この討議では論集『ビジュアル・コミュニケーション』での議論を踏まえ、視覚文化をさまざまな角度から考えていきたいと思います。まずは社会の変化やテクノロジーの発達が映画や映像をいかに変えたかという話から始めましょう。

渡邉

多様なジャンルを含む視覚文化の状況を整理するにあたって、ひとまずそのなかでもすでに百年を超える長い歴史を持ち、作品や言説の質・量ともに中心的な地位を占めてきた映画の話から始めるのがやはり見通しがいいように思います。映画というジャンルが大きな変化を迎えている、という問題が、ここ数年で、映画ジャーナリズムや批評の現場からじつによくいわれるようになってきました。

そのひとつは映像メディア自体のアナログからデジタルへの変化ですね。映画でいえば、撮影機材や編集機材のデジタル化は九〇年代ころから徐々に進んでいきましたが、二〇〇〇年代後半以降、映画館のスクリーンでの上映方式自体が急速にデジタル(DCP上映)になっていった。現在、シネコン興行のスタンダードになりつつある、「ODS」と呼ばれるアイドルのライブやサッカー試合のライブ・ビューイングなどの試みもその一環ですね。つまり、映画のデジタル化は同時に映画館の多コンテンツ化ももたらしているわけで、ここにも視覚文化的な問題意識の台頭が如実に象徴されています。

また他方で、こうしたデジタル化に伴う技術的変化は、映画や映像のいわば存在論的、ジャンル的な条件の変化とも密接に結びついています。たとえば、誕生以来、長らく「フィルム」に焼き付けられていた映画は、いまやデジタル化によって物質的な支持体がなくなっていく。作品がデータに還元され、さまざまなプラットフォームで配信可能になった。同時に九〇年代後半以降ウェブ、インターネット環境が整備され、ウェブで配信された映画や動画サイトにアップされた過去の作品を、スマートフォンやタブレットで気軽に観ることもどんどん一般化していったわけです。それは必然的に映画と映画以外の映像媒体――たとえばテレビドラマや演劇の記録映像、あるいはやはりデジタルデータで配信される漫画など――がフラットに並列化されることを意味しています。

飯田

「映画館でこそ得られる体験性」は拡散し、同時に二〇世紀までは映画の特権性、メディア的な特性とされてきたものが失われた、ということですね。受け手側の視聴環境が大きく変わった。

渡邉

そうした状況の変化があるがゆえに、個別のジャンルに還元されない「視覚文化」という大きな枠組みのなかで多様なイメージの領域を捉えるアプローチがリアリティを持ってきているわけです。「ニューメディア理論」や「ポストメディウム論」、「メディア考古学」といった、ここ二年ほどで日本でもよく耳にするようになった新しい文化理論も似たような射程を持っています。さて、僕はひとまず映画の研究者や批評家としての立場から述べましたが、引き継いで映画監督である佐々木さんに実作者の観点から見た変化を語ってもらえればと思います。たとえば、佐々木さんは、フィックスの固定ショットではなく手ブレするカメラ――“揺動メディア”としての映像表現や演出に関心を持たれていますが、これもまたデジタルカメラの小型化・携帯化・偏在化にともなう作り手側の制作環境の変化が背景にあると思います。

佐々木

そうですね。映画や映像をめぐる状況が変わり、これまでの語彙ではうまく説明できなかったり、評価できないようなものが無数に現れてきた。私にとってその最たるものが手持ちカメラによる手ブレ映像でした。それを「リアリティ」や「臨場感」のような言葉でしか語れない現状に抗いたくて揺動メディア論を立ち上げたんです。

同様に、最近気になっているのは「ハリウッド的」という言葉の意味合いの変化です。しばしば「まるでハリウッド映画のようだ」と安易に言われるわけですが、実作者としては、現在の「ハリウッド的」な映像に見られる特質は、個人やインディーズ規模では模倣不可能なところに行ってしまったという実感を持っています。

藤田

9・11やISIL(イスラーム国)の映像が「ハリウッド映画みたいだ」と言われていることに対してですよね。政治学者の山口二郎があれを「ハリウッド的」と言っていますが、手ブレ映像とかを駆使した疑似ドキュメンタリーっぽいハリウッド映画ではなくて、もっと古いハリウッドを想定しているんじゃないかな。最近のハリウッド映画をロクに観ていない感じがするというのは、同意です。

飯田

あの人質が燃やされる動画の演出については――もちろん事件の痛ましさは大前提とした上で、純粋に演出手法に関して言えば――ダサい。むしろバキッとしたHDの画質で、フィックスでオレンジ服の人間が座らされている映像のほうが衝撃だったんじゃないか。編集したにしてはもっさりしているし、映像表現としての底が見えた感じがする。

海老原

底が浅くてよかった気もします。スナッフムービーが本当にハリウッドと同じ文法で撮られていたら怖い。スナッフムービーの本質は、何が映っているかであって、どう映っているかは本質とはすこしずれていると思います。

佐々木

私もISILの動画に過度の意味付けをするべきではないと思います。しかし、だからこそ、何が映っているかだけでなくどう映っているかも共に重視したい。あの動画にハリウッド映画との関連性を見出す人びとが一定数存在することは事実ですし、「ハリウッド的」な想像力が何らかのかたちで世界中に浸透していることも間違いないだろうという状況だからこそ、では両者はどう違うのか、どう似ていないかということをきちんと見ていく作業が必要ではないかと思うんです。

まず、ハリウッド映画ほど画面上の死が現実の死ではなくフィクションであることが保証された映像もなかなかない。もちろん事故死や過労死が起こる可能性はどんな制作現場にだってありますが、そうした現実の死をそのまま作中に映し出すことはまずありえない。内部からも外部からも膨大なチェックに晒され、むしろ社会的な配慮から徹底して死を隠蔽しようとする姿勢のほうが問題視されることもあるのがハリウッド映画です。そうした映像と、たとえフェイクであっても「現実の人間を殺害する」という声明と共に公開される映像を一緒くたにしていいのか。

また画面に映るものに注目するにしても、ISILとハリウッドを特別に結びつける有効性をあまり感じません。この両者がつながるほど言葉の定義を広げるなら、世界中すべての映画が「ハリウッド的」ということにもなりかねない。現在のハリウッド映画の特徴を挙げるなら、ひとつにはシームレスに動き続けるカメラワークではないでしょうか。フィックスでいいはずのショットでも多動的にカメラを動かしたり、バストショットから引いて遠景へ、そこからさらに宇宙空間まで飛んでいくといったように、VFXを利用して本来カットを割るしかないショットをひとつなぎの長回しで見せていく。矢継ぎ早なカッティングや手ブレ映像は個人でも真似ることができましたが、こうした長回しは真似ようとして真似られるものではありません。

飯田

少し整理すると、個人制作/インディーズ的なローバジェットな映像としての「手ブレカメラ型揺動メディア」が蔓延する一方で、ブロックバスター的な大予算でしか実現しえない「VFX型揺動メディア」が他方にあって、両者は質的に違うということですね。

■VFXによる創発的クリエイティビティ

佐々木

もうひとつ、近年のハリウッド映画を見ていて気になる点として、VFXと演技に関わる問題があります。宮本さんの論考でも「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのゴラムに触れられていましたね。これまでVFXで架空の生物や人物をつくる試みは「いかにリアルか」「本物らしく見えるか」が問われていたと思いますが、もうその段階は越えていて、いまやVFXの「演技力」が問われる段階にきているのではないでしょうか。例えばゴラムはたしかに「リアル」に見えるけれど、『ホビット 思いがけない冒険』まで来ると、芸達者な俳優が演技を見せつけようとしてオーバーリアクションになっているような感じが少々鼻につく(笑)。あるいは『ミュータント・タートルズ』の亀たちは外見的には荒唐無稽なモンスターにしか見えないけれど、ちょっとした仕草や振る舞いにティーン・エイジャーらしさが宿っていて驚きました。これはたんに「VFXやCG進歩したね」という話ではありません。VFXの人物(生物)の演技というのは役者個人の演技ではなく、VFXのスタッフや声優、監督等が「集団で一人を演じる」「集団で一人を作る」という、「集団作業としての演技」の質が問題になっているからです。

藤田

そのゴラムのモーション・キャプチャーをやった役者はアンディ・サーキスだね。僕が驚いたのは『猿の惑星』の新しいシリーズの主人公は猿で、ほとんどCG。なのにあれの「中の人」であるサーキスに破格のギャラが払われていて、次の新作でも同じ役者と契約がされたと報じられている(どうも、『ゴジラ』の中の人もやったらしい)。CGの基になる人間の「こいつじゃなきゃダメだ」感に大金を払っているわけです。CGが次のフェーズに移行しつつあるときに、生身の身体をもういちど必要としていることはおもしろい。

宮本

画家が絵を描くときにモデルがないと描きにくいのと同じで、CGもゼロから動かすのは難しい。シミュレーションしようにも、結局それはいろんな人のたくさんの演技をコンピュータに取り込んで予測精度を上げてゆくことになります。まして実在する個人でなく架空の存在を作るとなると、その特定の形状をした存在がどう動くかというのは現実に無い事例なわけです。だったら、イメージの一番近い俳優さんに演技をしてもらって、一例に肉付けしていくほうがラク、ということではないでしょうか。人間の動きを作る神経回路メカニズムも細かくは分かっていないですし、地面の角度や風の吹き方といった変動要素に対する身体・衣服の反応をシミュレートするにも複雑な物理計算にはまだかなり時間がかかりますし。

海老原

物理法則やコンピュータでの表現はどうしても最適化されてしまうけれど、人間の身体には冗長性、ある種の過剰性、“ムダ”が必然的に生じてしまう。その冗長性を再現するにはまだコンピュータが入り込めない部分がある。

佐々木

そうした「人間らしさ」が追求されるいっぽうで、特にアクションやSFに顕著ですが、限りなく死ねない身体も目立ってきていますね。先日、古いハリウッド映画を見ていて、主要人物がアパートの窓から落ちてそのままあっけなく死んでしまうシーンがあってびっくりしたというか、これ今の映画だったら絶対生きているだろうなと思ってしまった。奇妙に弾力的な身体の感触が発明されて、それが物語展開や観客の見方にも影響を及ぼしているように感じます。

飯田

漫画のキャラクターに近くなっているわけですよね。佐々木さんの指摘を整理すると、さきほどの旧来型のカメラで撮ろうとすると不可能なカメラワークをVFXで実現しているという話は、非人間性や非日常のものを見たいという「新奇性」に対する欲望から生まれている。対して今出た、もはやCGにも演技力が問われているという話は逆ですよね。人間は人間的なもの、人間らしいもの、自分たちに近しいものを求めるという「親近性」に対する欲望から生まれたものです。ひとびとは映画の登場人物に人間くささを求めると同時に、人間以上に活躍する姿が観たいとも思っている。役者の身体をベースにVFX加工されたキャラクターは、観客がもつ異なる二つの欲望を同時に体現しようとした存在だと言える。

佐々木

こうなってくるとますます、どこまでが実写でどこまでがVFXかという問いや、リアルかリアルでないかという問いは有効ではないと感じます。映画の観賞においてはしばしば画面を虚心に見つめることの重要性が説かれますが、返す刀でVFXに対する実写の優位が唱えられたりする。実写であれVFXであれ、画面に映っているという意味では等価だと考えても良いはずなのですが。

実写とVFXの対立軸で考えないということは、先ほどお話しした「集団作業としての演技」にも言えると思います。そもそも生身の役者が演技をする時だって、台詞を考案する脚本家や演出する監督、衣装や照明など複数の人間による集団作業としてひとりの人間が生み出されるわけですから、そこからVFXだけ除外する理由はない。

藤田

「集団制作」問題は重要だと思います。今はもう役者や監督が誰であろうと「インダストリアル・ライト&マジックが本気を出せばどんな監督でも傑作を撮れる」仮説を僕は立てています。ILMはルーカスフィルムが所有している特殊効果やVFXのスタジオですが、たとえば二〇一四年だと『キャプテン・アメリカ』『トランスフォーマー』『ミュータント・タートルズ』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』『ノア 約束の舟』、二〇一三年は『G.I.ジョー バック2リベンジ』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』『パシフィック・リム』、二〇一二年は『バトルシップ』『アベンジャーズ』『クラウド アトラス』、あとは『宇宙戦争』や『アイアンマン』にも関わっています。『クラウド アトラス』はクソだったけど、たとえばピーター・バーグの『バトルシップ』なんて、すごい映画になっていたと思う。もともとはジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』を作るためにILMを作り、CG技術を開発して『スターウォーズ』のエピソードI、II、IIIや『ジュラシックパーク』などを手がけていったんだけれども、ここ五年、一〇年はひとり勝ちしている印象があります。

渡邊

「作品の中のどの部分を創造的な要素としてみなすか」という問題ですが、それもやはり近年のデジタル化と関係していますね。これはより細かい部分でもいえて、映像をデータとして処理するのが当たり前になるということは、イコール映像の画面を構成している諸要素の断片化、モジュール化、細分化が可能になることを意味している。『サイド・バイ・サイド――フィルムからデジタル・シネマへ』という映画のデジタル化を描いたドキュメンタリー映画で少し描かれていますが、最近は映画の中で色を付けるカラーリングも自在にデジタル補正されているんですね。画面に映っている木の一本や雲のひとつでさえも、「カラーリスト」という専門スタッフによって簡単にデジタルのペンタブレットを使って微妙に色が変えられてしまう。そうした作業を無数のエンジニアたちが分業して注力することで、スピルバーグやヒッチコックといった監督やかつての名役者が持っていた個人のクリエイティビティ以上の力を創発してしまっている。

藤田

ルーカスやスピルバーグは「監督」以上の存在なんですよね。映画監督を取り巻く「技術環境」を丸ごと作ってしまったわけだから。ノンリニア編集システムの開発にも関わっているし、フィルムのデジタル化もルーカスがかなり推進させた部分がある。技術屋が集団ですごいクオリティのものを生み出す環境を作ってしまえば、監督は代替可能になるという時代における、監督以上の「創造者」なんです。

飯田

それは歴史を考えるとおもしろいよね。ルーカスはもともとヒッピー崩れの集まりのなかから出てきたような人で、有名な話だけど『スターウォーズ』はジョーゼフ・キャンベルの神話論を参照して脚本を作ったわけです。キャンベルは単一神話論を提唱していて、世界中の神話はいろんな要素が多様にあるように見えるけれども、突き詰めれば全部同じ構造、似たようなプロットでできあがっているんだと言った。神話は近代的な「作者」がいるわけではなくて、集団で紡ぎ上げられていったものですよね。制作技術のデジタル化とネットワーク化が進展した結果、もういちど人類は匿名的とも言える集団制作でいろいろなバリエーションの――でもプロットはよく似た――物語を無数に作り上げるようになったとも言える。

藤田

もはやそうなんでしょうね。笠井潔理論的に言うと、二〇世紀が英雄的人間の戦争の時代ではなく戦車や戦闘機の台頭によって大量の兵士や市民が死ぬ「大量死」の時代になったように、二一世紀にはクリエイティビティも英雄的な作家個人に拠るのではなく総力戦の様相を呈している。「大量創作理論」とか名付けたら怒られるかな(笑)。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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