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「中間映画」的領域をいかに再興するか

飯田一史ライター
(写真:ロイター/アフロ)

筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。

共同討議(3)

飯田一史×海老原豊×佐々木友輔×竹本竜都×冨塚亮平×

藤井義允×藤田直哉×宮本道人×渡邉大輔

※(1)はこちら

■「中間映画」的領域をいかに再興するか

藤田

僕は構築性の高い劇映画以外ならインディー的な、あるいは作家性の高い作品でも何とかなるとも思っています。無料あるいは安価で、大人数は観ないかもしれないけど、ネットに流して、アーカイブ化されればいい、とまで、割り切れば。……というあたりで、そろそろ冨塚さんに「映画」と個人の作家性の擁護に入ってもらえるといいのですが。

冨塚

今回門外漢ながら「映画」を論じるにあたりまず意識したのは、過去の栄光に引きこもるのでも、過去を全否定するのでもない形で「映画」を捉えることです。一方で、いわゆるシネフィル的な、「フィルム」で撮影された映画を「映画館」で観賞することを過度に重視するような発想は、デジタル化の進行によってもはや保つのが物理的に困難になっています。

しかし他方で、これまでの一〇〇年あまりの映画の歴史で蓄積されてきた撮影技法や鑑賞の作法が、デジタル化やネット以降の動画文化の多様化ですべて無に帰すかというと、そうではない。単に「変化とともに何が失われてしまったか?」だけを考えるのでも、「何も変わらない、終わらない」と居直るのでもなく、「かつての「映画」的なものを、形を変えつついかにして存続させられるか?」を考えなければならない。

飯田

ここまで映画をめぐる状況に対して悲観的な、あるいは批判的なトーンで進めてきたような気がするので映画産業に関する統計的なファクトを確認しておけば、日本における映画の市場規模はここしばらくは二〇〇〇億円前後をキープしていて、内訳を見ると洋画と邦画の比率が変化したり、あるいは邦画のなかでアニメが半分くらいを占めるようになったといった変化はあるけれど、「映画館で映画を観る」というマーケットは大きく増えても減ってもいない。

日本の出版市場の右肩下がりっぷりを横に置けば、変わらぬ存在感が際だっている。そういう意味では「映画終わったな」ということでは決してない。ただ佐々木さんや冨塚さんは美学的な、「映画文化」的な問題意識があるわけですよね。

冨塚

ポストメディウム的な映画の美学を考える上では、ロザリンド・クラウスが「技術的支持体」(technical support)という用語でオールドメディアの意義ある使用について考えはじめる際にベースにした、スタンリー・カヴェルの映画論が重要だと思っています。

そこではたとえば基本的な撮影技法、モンタージュの方法論などが反復されて長期間に渡って存続することで、ひとつの慣習として定着してくるという考えがあります。そういった慣習は、たとえばデジタル化や撮影機材の変化が起きたとしても、一気にすたれてしまうのではなく、少しずつ形を変えて残っていく。

グラデーションを伴った変化と捉えることで、過去の歴史的な技法に着目して現在の状況を照射することもできるわけです。この発想は、渡邊さんの論考における可塑性、プロクロニズムに関する議論、佐々木さんの論考における「仮止め」の議論ともある程度通底するものがあると考えています。現在起こっている変化の意義を的確に見定めるためにこそ、過去へと遡行する必要がある、このことをまずは強調したいと思います。

渡邊

冨塚さんから提起された問題は僕も重要だと思っています。

すべてがデータ化され定量化可能になった世界で、映画の美学的な固有性をどう確保していくか。冨塚さんが取り上げた濱口竜介や瀬田なつきといった監督は、そのぎりぎりのところをやっている稀有な作家ですが、そういう作家は積極的に評価していきたい。

佐々木

今回の論集に濱口竜介論が入っていることは、個人的にとてもしっくりきたんです。先ほどお話ししたように、街でカメラを回すことすら困難な監視・管理社会的な状況下でいかにして実写映画を撮るかという難問に対して、「ワークショップ」や「地域映画」という枠組みを利用して活路を見出した例として濱口作品を見ることもできると思うからです。

つまり、一方で社会はカメラを向けられることを拒絶しているけれど、他方では――地域の記憶を残したい、コミュニティを活性化したいというかたちで――撮られることを強く欲してもいる。

渡邊

社会の要請と密着した映像や芸術作品が作られていくことはトレンドとしてあると思いますが――藤田さんが最近、積極的にコミットしている地域アートの問題や、これも最近活況を呈する行政補助による演劇イベントなどでも典型的だけど――、社会に密着していけばいくほどPC(ポリティカル・コレクトネス)が要請されて表現の幅が狭まるという側面もある。

「売れる」という意味での最大公約数にウケることは求められないかわりに、政治的に正しいことしか表現できないという別の窮屈さもありますよね。

藤田

地域住民や地方自治体が色々言ってくるし、協力を取り付けなければ、身も蓋もなく、撮れない。だから、プロパガンダや宣伝を作らされがちになるんだけど、だからこそ作家の巧妙さ、戦略が必要となってくる。「ネゴシエーション」が作家の芸術性・卓越性として評価の軸になってくる所以のひとつです。

佐々木

その戦略が非常にうまくいっているのが濱口監督ですね。偶然ではなく、この論集で提起されている諸問題に自覚的に取り組んでいる作家だと思います。

藤田

そういう、政治や権力や金や交渉がめんどくさいとかクソくらえと思うひとたちが、竹本君が論じた「淫夢」動画みたいに、権威もカネも無視した自由とおもしろさを追求していると言えるのかもしれない。

竹本

淫夢がPC、あるいはその裏に隠れている欺瞞に対するアンチテーゼとして機能している面は確かにあると思います。淫夢厨以外には一見して淫夢だとわからないネタを拡散するタイプの釣り行為が淫夢には多いですが、これもPCを知らず知らずのうちに侵犯させる、2ちゃんねるでいう「オマエモナー」と似たちゃぶ台返し精神の現れだと思います。

冨塚

濱口監督は酒井監督と共同で震災以降の東北の連作ドキュメンタリー(『東北記録映画三部作』)を撮っていますが、これらの作品では作り手側がPCを意識しすぎることなく、かつ依頼側であるせんだいメディアテークからの支援を受けてその需要にも応える、幸福な関係性が実現しているように見えます。またマネタイズの話を補足すると、濱口監督は新作の撮影過程でクラウドファンディングも行っています。作り手が自由にものづくりできない状況下で、ひとり一八〇〇円払って映画を観にきてもらうのではなく、それ以上のお金を払える濃いファンに支えてもらう方向性も出てきている。

三浦哲哉氏が『映画とは何か』でフランスの文脈に引きつけて書かれていましたが、ハリウッドでも自主制作でもない中ぐらいの予算規模の作品、ややインディーでありながらも少し資本が入っている「中間映画」がかつてのアメリカにはあった。同様に昔は日本映画界でも、川島雄三ら社員監督の例に顕著なように、会社側からの縛りを受けつつもあるていど自由な作家性を発揮できるプログラムピクチャー的な領域があったと思います。それをかたちを変えて再興できるといいのですが。

飯田

それなり以上に高額な予算が必要な映画では難しいかもしれませんが、個人レベルでいえば動画配信で有名な永井先生みたいにAmazonの「ほしいものリスト」を公開してファンに送ってもらっているひともいますよね。たかって食っていくやりかたもないわけではない(笑)。ちなみに今の話は海外ではどうなんでしょうか?

冨塚

アメリカでは視聴形態の中心が劇場やDVDから配信に移行していて、忙しいひとが多い昨今では、毎回決まった時間でなくても空いた時間に観られるhuluやNetflixのプレゼンスが上がっています。そういうところから映画研究者がテレビドラマ――配信での視聴が前提という意味ではもはや「テレビ」ドラマではないですが――を論じた研究書も出てきている。

デヴィッド・フィンチャーの『ハウス・オブ・カード』をはじめ、配信先と経済的に結びついたうえでつくられている作品群があって、今、映画監督がどんどんドラマに流れている。15年にもたとえばM・ナイト・シャマランのドラマ初挑戦作『ウェイワード・パインズ』など注目作が控えています。かつて作家性を発揮する余地があるメディアとして機能していた中間映画的なものが、今はドラマに移ってきているようです。

藤田

デヴィッド・リンチもまた『ツイン・ピークス』をやるみたいだしね。

飯田

スタッフも撮影方法もほとんどいっしょ、視聴方法もiPadのhuluアプリからクロームキャストでホームシアターに映して5.1chで観ている、とかってなると、映画と連続ドラマを区別することにどれだけの意味があるのか。

佐々木

ジャンルの区別が曖昧になっている一方で、作品の内容以前に「どういう文脈に乗っているか」で客層がガラッと変わってしまうこともあります。以前、画廊やミニシアター、カフェなど複数の場所で同じ映画の上映をおこなったのですが、客層がまったく違うことが目に見えて分かり、驚きました。中間映画的な領域をつくりだすためには、そうした棲み分けを突破することも必要なのだろうなと思います。

藤田

一握りの大メジャーと無数のマイナーばかりになって中間がない、ジャンル間の交流が意外と起こらないというのは、わりとどのジャンルもそうなりがちですね。

飯田

たしかにポストメディア化してスマホ上でも映画館でもさまざまなコンテンツが並列化されることは、見方を変えるとアプリごと、プラットフォームごと、ジャンルごとに付くお客さんが「こういうものを好む人たち」ごとに分断されてしまう。誰でも使っているアプリなんてGoogle、YouTube、Twitterくらいしかないだろうけれど、それにしたって見ているものはみんな違う。チャネルが増えてひとびとの時間の使い方が多様化したからこそ、異なる趣味嗜好のひとたちをつないだり、横断的にアプローチすることは困難になっている。

藤田

昔ならメディアや娯楽自体、作品の本数が少なかったから映画やテレビならみんな観ている、観る可能性があるという前提に立てたわけですよね。ただ僕はネガティブにばかり思っていない。だって、今はみんながいろいろな見たいものを見られるようになったし、作り手も昭和二〇年代とかに映像作家になることに比べれば全然簡単になったわけだし。テレビ電話とかスカイプとか、今までとは違った映像――作品なのか作品じゃないのかもよく分からないような動画群にまで囲まれている。質的にはチープなものも増えたかもしれないけど、多様化して豊かになってもいるんです。

■日本の3DCGアニメと「情報のコントロール」問題

飯田

今日出てきたような話は、藤井君が論じている日本の3DCGアニメでも一部、似たような現象が起こっていると思いますが、そのあたりはどうでしょう。

藤井

ただ、日本のアニメはデジタル技術を取り込んだことによって何か変わったかというと、あまり変わっていないように感じます。『サザエさん』が最後のセルアニメだと言われていますが『サザエさん』がデジタル化したことによって「すごく動くようになった」ようなことはない(笑)。カメラが急に多動的になったりはしていない。

飯田

でもそれは作品の性質によるんじゃないかな? 『サザエさん』にそもそも意表を突くようなカメラワークは求められていない。だけどたとえばシャフトや『シドニアの騎士』のポリゴン・ピクチュアズ、吉浦康裕作品なんかは3DCGを活かしたカメラワークをしているように思います。

それから、すでに何人もが指摘していますが、押井守は「アニメは情報量がコントロールされているけれど、実写はコントロールできない」「すべての映画はアニメになる」と言っていましたが、これはある種レフ・マノヴィッチが「デジタルメディアにおける映像制作はアニメーションの特殊ケースである」と述べていたのと同様のことですよね。

押井が強調していたことは、アニメでは演出家がコンテに描いたもの、原画や動画のスタッフが描いたものしか画面に現れないけれど、実写は監督が意図していないものも映り込んでしまう、というものです。現代ハリウッド映画はアニメのように情報量をすべてコントロールする方向に向かっている一方で、藤井君が論じている“生アニメ”『みならいディーバ』なんかは3DCGを使っているけれど生放送でライヴ性を持たせることで情報量を不確定にする、ノイズを混ぜるおもしろさを呼び込もうとしていました。実写は情報量をコントロールすることを望み、一部のアニメはアンコントローラブルなものを望んでいると言えますよね。

藤田

『gdgd妖精s』とか、ネットでの3DCGアニメの生放送は、どういうふうにみんな見ているんでしょうね。

藤井

『gdgd妖精s』はフィクションパートが多いので何とも言えないのですが、僕は生アニメに関しては正直だるいので「一個の作品としてすべての時間を観る」感覚ではなかったですね。「適当に観る」感じで、ラジオの聴取に近い。ずっとちゃんと見なくてもいいんですね。もともとニコ生で配信していたので、思いついたときやおもしろくなってきたらコメントで参戦もできる。

藤田

モニターをどこかに置いておいて、何か別のことをしていてもいいわけだ。つまり、「集中」(gaze)でもなく、「チラ見」(glance)でもなく、ラジオ的な……、「聴き見」とでもいうか。

藤井

生放送ですから、ハプニング性を楽しむ側面は確実にあります。何が起きるかわからないからとりあえず流しておくという楽しみ方もあります。

アニメで言えば、ロトスコープを使ったアニメーション作品を観たときに抱く違和感も、今言った情報量の多さが絡んでいますよね。『惡の華』や岩井俊二の『花とアリス殺人事件』には『ゴールデンエッグス』や『ピーピング・ライフ』に似たシュールさを感じます。これは実写が孕んでいるモゴモゴとした情報量の多さをアニメに落とし込んだときに異物感が出てしまっているからだと思います。アニメはそもそもが非常に合理的に編集され、そぎ落とされた表現形式ですから、「実写のアニメ化」は言うほど簡単ではない気がします。

藤田

フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』を映画化した『スキャナー・ダークリー』はロトスコープを使ったかなり初期の作品で、ドラッグ体験にともなう現実の分離感、解離観をアニメと実写の境によって表現しようとしていた。あの、水準の違うアニメと実写という映像の合わさった「気持ち悪さ」を、物語水準にも生かしていて、面白かった。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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