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親がネットに写真をアップしまくる時代に子どものアイデンティティはどうなるか

飯田一史ライター
(写真:アフロ)

筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。

共同討議(7)

飯田一史×海老原豊×佐々木友輔×竹本竜都×冨塚亮平×

藤井義允×藤田直哉×宮本道人×渡邉大輔

※(1)はこちら

■親がネットに写真をアップしまくる時代に、子どものアイデンティティはどうなるか

海老原

新世代の感覚はどうなるのかについて、さっきの「新しいメディアに慣れる」に絡む話ですけど、最近では生まれた時から自分の写真がフェイスブックにあがっている子がいる。いや、生まれる前の様子、母親の妊婦姿や腹部エコーの写真すらあがっている場合さえある。そういう子たちはアイデンティティをどう認識するのか。われわれは勝手に写真を撮ってアップされることに対して監視カメラに似た恐怖を感じるけど、生まれたときから親が自分の写真を「一般公開」しつづけられたひとたちが、物心ついたころにネットにアーカイブされた自分の写真を見たらどうなるのか。それは実家に小さい頃のアルバムが置いてあるだけのわれわれとは違う感覚をもつ気がしている。

渡邉

これも最近、よく言われることですが、昔は若いときに何か失敗しても忘れられたし、田舎から都会に出て来たりすれば過去は消せた。今はもうネットに上がった情報は基本的にずっとログが残っている。つまり何十年前の自分の振る舞いが今の自分に影響を与えることが普通になってくる。このメディアの変化はでかくいえば、人類の人生観とか世界認識そのものを大きく変えていくでしょう。だからこそフランスとかでは「忘れられる権利」が言われているわけです。

海老原

中二病もなくなるかもしれない。何十年か後にログを漁られたらイヤだから控えめな発言をしたり、とんがったことが言えなくなる。そういえばむかし、写真機能付きの携帯電話が出たばかりのCMでは、街中を歩いているイケメンを撮って「イケメン見っけ」というものがあったらしい。今は完全にアウトですよね。この二〇年でカメラ付き携帯電話についてはあるていど使い方が成熟してきた。だから、ネットに子供の写真をアップすることについても認識は変わっていくのかもしれない。

佐々木

中島興さんが立ち上げたグループ「ビデオアース東京」の作品に『橋の下から』というものがあります。川べりに暮らす路上生活者のところへカメラを持って突撃取材するのですが、その人物は最初、見知らぬ奴らがやってきたことに怒ってどなり散らすんです。ところがビデオに撮られているうちにだんだん両者は親しくなっていく。きっと今だったら即座に「カメラを向けるな」と言われてしまいますよね。「イケメン見っけ」のCMと同じく、かつてはこのようなコミュニケーション・ツールとしてのビデオ利用がありえたのだなと。

藤田

この間、ナインティナインの岡村隆と東野幸治の『旅猿』をたまたま見たんだけど、貧乏な国の子どもたちはカメラが来ると超喜んで集まってきていた。みなさんは映りたいですか? 映りたくないですか? 僕は映りたいほう(笑)。

海老原

場所にもよるでしょ(笑)。繁華街やラブホ街を歩いているときには誰だって他人には見られたくないけれど、「映りに行っている」ようなところもある。渋谷のスクランブル交差点にカメラが来ているとか、事件があって警察と報道車両が来ているから行こうぜ、とか。

藤田

コンビニでバイトしてる大学生がアイスケースの中に入った写真をTwitterにアップした「バカッター」が一時期話題になりましたよね。バカな犯罪めいた写真を自慢気にやっちゃうのは、後進国的な映りたい根性と通じていますよね。「有名になりたい」みたいな自己顕示欲にまみれた映像の使い方。

渡邉

いや、あれは単にネットリテラシーが低いだけです(笑)。僕だって小学生のときはバカッター的感性を持っていたと思いますよ。誰しも目立ちたがる時代はある。だけど今までは別に残らなかった。今はログを取られる場所ではとんがったことはできないから、表現も穏当になっていく。

藤田

分人主義的に、「昔ノ私ハ、今ノ私ト違ウ人」みたいな新しい価値観を作るしかないんでしょうか(笑)。

海老原

なんでカタカナ語なの(笑)。

飯田

「アーカイブになる」ということがパノプティコン下の囚人みたいに内面化された規範として機能しているわけですよね。実際アップされちゃったから害を被っているということ以上に「撮られる」「ネットにあげられる」という潜在的な恐怖が個々人に内面化して行動を抑制している。バカッター事件のあとに「LINEはURLが発行されないから他人に愚行が見られないで済む」みたいなことが言われていたんだけど、その後、LINEのやりとりのスクリーンショットされてアップされることは多発している。もはやスマホのようなデバイスを使ってデータでやりとりしている時点でいつか誰かに晒される可能性があると思って抑制的に振る舞うしかない。

藤井

そして子供に関してはまだそれが内面化されていないから、危険性がわからない。

飯田

だから、親が自分のログを勝手にネットにアップしまくっていたことに気づいて、あとで愕然とする。

藤田

「何で撮ってないんだ」と子供が怒るパターンと「何で撮ってんだ」と怒るパターンがあるみたいですね。

飯田

中川淳一郎が言っていたけど、ネットで好き放題すべてオープンにさらして大丈夫なのは「あとがないひと」、失うものがないひとだけだと。積極的に自分をさらしまくってるYouTuberなんて、だいたい退路がない状態でやっていることが多い。そう考えると親に勝手に情報を垂れ流されている子供は、絶対に将来の選択肢が狭められている。

海老原

このまえ中学生と話していて、「世の中は実力主義に見えて、ほとんど自分の思い通りにならない。自分でやった分だけ返ってくるのは勉強ぐらいなんだ」と言ったら「HIKAKIN! HIKAKIN! HIKAKINは実力主義でのし上がってきた。やったらやった分だけ返ってくるんだ」って返事が(笑)。「いざとなったらHIKAKINになればいい」という成りあがりのロールモデルになっていて、怒り(笑)を覚えましたね。

佐々木

一方で、あまりに情報が増えすぎると個々の情報の価値低下も加速する気がします。ネット上の情報を真に受けるのはナンセンスという空気は確実に以前より強まっている。

冨塚

佐々木さんの話を受けて作品受容について議論を戻しますが、記録としての情報量が肥大化してひとつひとつの情報の価値が低下してくると、ある作品を長い期間残していくためには記録より記憶にどれだけ残ったかという視点で測ることが重要になるように思います。論考で取り上げた佐藤雄一氏やカヴェルの議論と関連しますが、記憶に残る情報に意義や価値があるという軸で、売上や再生数とは別のかたちで作品を評価できるのではないか。

海老原

結局それも物量なんじゃないか。「記憶に残る物語」は、毎年金曜ロードショーでやる『天空の城ラピュタ』になっちゃう。

冨塚

記憶の残し方にもよります。多くの人の記憶に残るかどうかという、単純な量で測るのか、量とは関係ないものとして見るかは違うはずです。

藤田

冨塚くんが言っているのは、個人が「いい」と思ったものを記憶して受け継ぐことで多様性とかマイナーなものを守れるんじゃないかということ?

冨塚

基本的にはそういうことです。

飯田

「記録より記憶残し」(大神「大怪我」)というのは美しい話だし、佐藤さんはどうしたら詩が生き残れるかを考えたときにヒップホップ、サイファーと接近することを考えた。それはおもしろいんだけど、議論をごく単純化して言ってしまえばですが、耳に残ることを重視して韻を踏もう、リズムを取れるようにしようっていうのがいきすぎると「ラッスンゴレライみたいなリズムネタがいちばんいい」って話になりかねない面もある。

渡邉

ジャック・デリダも『Glas』だったかで「暗記するということは心臓に残ることだ」みたいなことを言っている。身体に刻む、リズムで覚えるみたいなことは珍しい議論ではない。

海老原

「暗記する」は英語で「learn by heart」と言いますよね。

冨塚

佐藤氏はまさに渡邊さんが今あげた、マラルメによるポーの詩の翻訳に関するデリダの議論を援用していました。これもほとんど佐藤氏の議論の受け売りですが「創発性」の有無に着目すること、そして、さらに付け加えればいかに長期的な記憶に残るかを考えることで、飯田さんのつっこみに応答できるかもしれません。

さまざまなコンテンツが消費され飽きられるスピードが加速する中で、ある作品が五年、十年たってもどこかで誰かの記憶に強く刻みつけられているような強度を持ち得るか、そして、他の誰かの新たな制作のなんらかのきっかけになり得るかを基準とすれば、リズムネタがいちばん、という結論には至らないのではないか。その意味で、『東北記録映画三部作』を「3・11の経験を百年先まで残そうとする試みである」と語る濱口・酒井両監督の姿勢に個人的には強く共感します。

飯田

なるほど。たしかにパッと覚えやすいという短期記憶に訴えかける技術と、深く心に刻まれてずっと残る長期記憶に働きかけるものは違いますね。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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