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『FAKE』と『連祷』 新垣隆さんが広島・福島をモチーフにした新作交響曲を聴いてきた

飯田一史ライター

佐村河内守のゴーストライター騒動で一躍「時の人」となり、森達也監督『FAKE』での取材申込みの顛末についての声明でも再び注目を集めた作曲家・新垣隆さんが広島・福島をモチーフに新たに書き下ろした交響曲「連祷-Litany-」東京初演(東京室内管弦楽団演奏、於:東京芸術劇場)を観た。

現代音楽としての評価は僕にはできないが、『FAKE』に関してはYahoo!個人やexcite上などで記事にしてきた、佐村河内騒動のウォッチャー的観点から言って、とてもよかった。

新垣さん自身が指揮をし、ゲームやアニメーションなどサブカルチャーの音楽の演奏にも力を入れている東京室内管弦楽団が演奏をした『連祷』東京初演は、一連の騒動が改めてひとつの円環をなした感があり、新垣隆氏がいくつもの文脈と責任を引き受けてやりきった感があり、それは『FAKE』の不誠実さと無防備さとは対照的だった。

『連祷』『FAKE』は、それぞれ人間の異なる側面が際立って表出された作品であり、そういう意味で今年『FAKE』『連祷』の順で観られてよかったと思う。

ここでは『連祷』東京初演の文脈、僕が感じたおもしろさを解説していきたい。

■文脈(1)『HIROSHIMA』はゲーム音楽リスナーのための交響曲だった

新垣さんはゴーストライターとして『バイオハザード』『鬼武者』といったゲーム音楽を手がけていた。

彼はクラシック、現代音楽畑の人間だが、多数の映画音楽も手がけた現代音楽の作曲家・武満徹や、芸大を出たがポピュラー音楽に進んだ坂本龍一などが好きだったこともあり、CM音楽や映画音楽などをやってみたいという気持ちがあり、自分の名義ではないとはいえ、ゲーム音楽の作曲をすること自体は喜んでのことだった。

そして例の交響曲第一番『HIROSHIMA』は、新垣さんへのゴーストライティングの発注段階では広島・原爆・被曝二世という設定は皆無の「現代典礼」というタイトルのものであり、「ゲーム音楽を手がける佐村河内守がついに(劇判ではなくオリジナルの)交響曲を書いた」という文脈で書かれたものだった。

だから新垣さんはあの作品を書くさい、ゲーム音楽のリスナーが聴くことを前提に、ゲーム音楽のリスナーに気に入ってもらえるような曲をめざしたということを著書『音楽という〈真実〉』で語っている。こんな発言もある。

『HIROSHIMA』は、もともとゲーム音楽から来ていて、私自身はそこがちょっと大事なんじゃないかと思っています。ゲーム音楽というジャンル自体には、音楽的に新しい要素は特に含まれていません。ある種の映画音楽のようなものです。言ってみれば、映画を携帯電話で見るようなことに近いのかもしれません。

でも一方で、映画は大画面で観なければ意味がないという立場もありえます。本来の映画というメディアのあり方から見れば、携帯で見る映画はおもちゃのようなものだとも言えなくもない。ゲーム音楽もやはりそういうあり方に近いのではないか。

ですからあの曲は新しい世界が開けたと言うより、ちょっとそういう駄菓子、しかも非常に高度なテクノロジーを使った駄菓子ではないかという気がします。誰も相手にしないようなところから生まれてきてしまった、ある種の鬼っ子のようなもの……。

出典:『音楽という〈真実〉』小学館より

そしてまた、クラシック界ではゲーム音楽のオーケストラによる演奏、ゲーム音楽の作曲家による「セミクラシック」とも言うべき音楽を適切に扱うことができなかった、してこなかったこと(たとえば作曲家の賞も芥川賞にあたるシリアスな芸術音楽に対するものはあるが、直木賞にあたる大衆音楽、エンターテインメント性のあるセミクラシック音楽に関する賞はない)を指摘し、ちょっとした問題提起をしていたのである。

で、今回、新垣さんの『連祷』を演奏したのは東京室内管弦楽団であり、冒頭に書いたとおり、このオーケストラはクラシックのみならず、ゲーム音楽の演奏にも力を入れている。『連祷』東京初演は「平和祈念コンサート」の一部をなすものであり、ほかのプログラムはゲーム『ペルソナ3』の歌をヴォーカルに緒方恵美、川村ゆみ両氏を招いて演奏するものや、スタジオジブリの『火垂るの墓』『風立ちぬ』の曲を演奏するものだったのである(そちらを指揮した志村健一氏はクラシックや現代音楽はもちろんのこと、梶浦由紀さんが作曲したアニメ『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』のオーケストラ・コンサートなどの指揮も手がけた人物である)。

そして『連祷』は、現代音楽界では芸術作品として到底認められないロマン派全開の調性音楽だった『HIROSHIMA』とは異なり、新垣さん本来の語法で書かれた、現代音楽(芸術音楽)の、しかし『HIROSHIMA』と同じく長大な交響曲なのである(むろんこれは『HIROSHIMA』と対にするためだろう)。

※このへん、現音くわしくないので適当なこと言ってたらすいません

もっとも、エルガーやバッハの曲も平和祈念コンサートには組み込まれており、サブカル一色というわけではないが、そういうオーケストラが、ゲーム音楽のゴーストもやっていた現代音楽の作曲家・新垣さんの新しい交響曲を演奏する、ということは、たぶん、新垣さんにとって感慨深いものがあっただろうと思われる。

■文脈(2)知らないところで勝手に名付けられた『HIROSHIMA』に対する責任と「被災地の希望」になってしまった同曲への責任を引き受けている

さっきも書いたとおり、『HIROSHIMA』は新垣さんへの発注段階では別のタイトルだったのであり、新垣さんが知らないうちに勝手に広島・原爆・被曝二世という文脈を背負わされた曲だった。

もともと「原爆をモチーフに曲を書いてくれ」と言われてゴーストをしていたならいざ知らず、新垣さんは本来、広島の原爆について何か音楽活動を通じて応答する必要は、ないといえばない。

にもかかわらず「この交響曲は広島のことを想って作られたのか」と思って『HIROSHIMA』を聴いてしまった人たち、そしてもちろん広島の被曝者の方々への責任を感じ、東広島交響楽団からの依頼に応じ、『連祷』を書いた。

そしてまた、『HIROSHIMA』が東日本大震災のあと被災地の一部で「希望の音楽」として聴かれていることが報じられ、「NHKスペシャル」で放映された、「佐村河内守が被災地の女の子のために作曲した」という設定の曲のゴーストをやってしまったことへの購いも込めてだと思うが、『連祷』は福島のこともモチーフとなっている。

もっとも、佐村河内が関わった女の子は津波で親を亡くしたのであり、その点では、原発は関係ない。これは新垣さんが映画『日本と原発』の曲を手がけたことのほうが文脈としては大きいかもしれない。

というか、これは僕の解釈だが、『HIROSHIMA』騒動自体が原発事故に近い問題なのである。

福島の原発事故は「津波なんか来ないだろう」「来ても電源がいかれるなんてことはないだろう」「そうなってもメルトダウンはしないだろう」という甘い見積もりがもたらした人災だった。

『HIROSHIMA』も、新垣さんはゴーストでの作曲を引き受けておきながら自分では「クラシック界では無名の作曲家佐村河内守が書いた70分以上の大作交響曲なんて演奏されるはずがない」と思っており、納品後も「演奏されることのない楽曲」というコンセプチュアルアートのようなもののつもりでいたのである。それが佐村河内の並々ならぬ営業力と「全ろう」「被曝二世」「身体障害も精神疾患もある」などといったてんこもりの「設定」がメディアうけしたことが追い風になって数年後になんと演奏され、CDが18万枚も売れる事態になってしまった。

新垣さんの見積もりは東電と同じくらい甘く、問題を隠蔽していたことにも同型の問題があった。

広島・福島を扱った『連祷』第三楽章で『HIROSHIMA』が引用されることの意味は、そういう反省を込めたものとして読まれるべきだと僕は思う。

■『FAKE』と『連祷』の「差」

『FAKE』には森達也監督が新垣さんの著書のサイン会に乱入して勝手に撮影し、「ああいう取材の仕方は困る」と事務所がクレームを付けたことをスルーして「取材を拒否された」といったテロップを付けた映像が組み込まれていた(もちろん、新垣さんサイドには無許可である)。

『連祷』終演後にCDか本の購入者を対象に新垣隆さんのサイン会があったが、おそらく今回、森達也監督は来ていなかった。

佐村河内問題を「週刊文春」でスクープし、『FAKE』では新垣さん同様のひどい扱いだったジャーナリストの神山典士氏は、もちろん来ていた。ちなみに神山氏は『FAKE』の試写状が来なかったので文春宛の試写状を持って会場に行って名前を告げて名刺を出したところ、追い払われそうになっている(観られたそうだが)。また、神山氏は森監督の取材を受ける条件のひとつに「佐村河内が騙した義手のバイオリニスト・みっくんと被災地の女の子に対して、佐村河内に謝罪をさせること」を挙げていたが、森監督サイドはこれを受けいれなかった(というか無視した)。

『FAKE』は佐村河内守が「曲を作れない」と思われている自らの名誉回復のためだけにつくられた、5分くらいのシンセサイザーによる曲を発表するのがハイライトになっている。

新垣さんは『連祷』で広島・福島をテーマに約60分のオーケストラ用の交響曲を作り、東京では「人類の平和を祈念するコンサート」の一環として自ら指揮をしてその重みを一身に引き受け、ひとつの大きなけじめをつけた。

この差には、本当に考えさせられる。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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