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居酒屋甲子園は、どのように批判されるべきか。

井上明人ゲーム研究者

これは昨日の記事の追記である。

私の立場がわかりにくかったという意見がいくつかあったので、改めて書いておく。

下記、私の検討能力を超えることも書いてしまっているが、ご寛恕願いたい。

昨日の記事で私が行おうとしたことは、基本的には、論点にのぼっていなかった基礎的論点を議論の場に提示しておくべきだろう、ということである。

全体的にネット上の論調が批判的なものが強くなりすぎている印象があり、カウンターとして擁護すべきポイントを強調して書いてはいるが、全面的に擁護すべきだとは全く思っていない。むしろ昨日書いたとおり、一定程度の批判はなされたほうが良いと思っている。

わざわざ言うまでもないことなので書かなかったが、居酒屋業界の「ポエム」が批判されるべきでないだとか、素晴らしいものであるなどとは思っていない。クローズアップ現代の「ポエム化」批判という論点自体は、じゅうぶん意味のある指摘だと思っている。「ポエム化」批判自体が、無効な論点だとは思っていない。無効ではないが、その論点だけで攻めるのはあまりに雑な話ではないか、とは思っている。あと、居酒屋甲子園そのものが責められるべきというよりは、一部の業界にみられるキレイな言葉が氾濫するビミョー社員教育システムみたいなもののほうでしょうよ、と。居酒屋甲子園から、ビミョーな社員教育システムを想像してしまうのは、わからないことではないし、居酒屋甲子園と現場のビミョーな社員教育システムは共犯関係をとりむすんでしまっているという批判はそれはそれで可能だろうけれども、居酒屋甲子園と、社員教育のシステムとかはやはり別のものだし分けて考えたほうがいいだろうとは思う。ここらへんの話の塩梅はどうしても面倒な言い方になってしまう。

いくら前向きな取り組みをしているとしても、現状においておそらくは少なからぬ店舗において「年収250万円、労働時間が時には16時間」という労働環境が存在することは褒められたものではない※1し、いい意味でも悪い意味でも「ポエム」的な高揚感がその劣悪な環境を生き延びさせるための手立てとなっているという側面はむろんある(赤木智弘氏が指摘しているように※2、そこで「ポエム」を排斥することが良い手段だとは、あまり思えないが)。居酒屋甲子園全体と、個別の店舗の問題は分けて論じられるべきではあるが、「おまえら絶叫ポエムをよむより先にやるべきことがあるんじゃないのか」といいたくなる店舗がけっこうあるだろう、という印象は拭えない。

居酒屋甲子園に関わる人間の全員が、「本気」とか「夢」とかといった言葉の危うさを認識しきれているとも思えないし、従業員の少なからぬ人数がベタに「夢」とか「仲間」という言葉の魔力にやられてしまっているであろうことも想像には難くない。私が言っていることをさらにバランスをとっていえば「そりゃ、ポエミーなものいいに陶酔している側面はあるにはあるだろうけれども、ポエミーな言葉によって考えようとしているというポイントを外しちゃだめでしょう」ということになる。

批判は可能だし、なされるべきだろう。すでに述べたとおりである。

ただし、批判対象を矮小化して批判して、ポジティヴな可能性のある部分も、ネガティヴな可能性もある部分もいっしょくたにダメだ、とか、「気持ち悪い」とか、そういう批判はただの雑で差別的な発言だと言われても仕方がないだろう。相手に非があれば、なんでも言っていいわけではない。厳しい居酒屋業界でビジネスを成立させてきた人々は決して馬鹿でも、ひとでなしでもないだろう、と。

批判すべき対象が必ずしもクズなのではないということを考慮して議論をするべきだ、ということだ。

クズであるどころか、批判すべき対象は、ある意味で善良であり、ある意味で明晰な人々だろうと。そういうことこそが前提になるべきではないかと考えている。だからこそ、批判をするのがしんどいのだ、と。それを理解した上で、批判するという話になるのではないのか、と。

善良な人たちのブラックな環境、をどう考えるか

かつてブラック企業に勤め、ブラック企業の辛い労働環境に心身を疲弊させて辞めていった人たちの多くは、それまで務めていた職場を表立って批判しないことのほうが多いのではないだろうか。

批判すべき対象となる、結果的にその人を苦しめていた、かつての同僚や上司が、個別の人間をとってみれば、思いやりがあり、ある種の見識もあり、それなりに適切な問題意識もある人間がいることが多いのではないか。だからこそ、辞めていった人は思いやりの気持ちもあって告発することができない。思いやりのない人たちによる本当にクズみたいなブラック企業であれば、告発する側もこころが傷まないので、比較的はやく淘汰されてしまうように思う。

告発すべき対象となる元上司は、おそらく、時に思いやりがあり、時に冷静にビジネスのことを考えることができ、おそらくは退職者本人を積極的に世話し、面倒をみてくれたようなやさしい人ではないだろうか。もし告発するとすれば、そのような人にむかって「お前は私にひどいことをしたんだ」と告発して、なじるような行為になるのではないだろうか。それは、告発する側の人間にとって、強い心理的葛藤を生むだろうし、とても気軽にできることではない。私が、かぎかっこ付きの「被害者」の立場におかれた場合を想像してみても、そういう告発をすることはとても気が重くてできないし、私の友人にも実際に前の職場を告発できずに苦しい気持ちになっている人は何人かいた。クローズアップ現代にとりあげられていた、見事なまでに相田みつを風の色紙を部下にプレゼントして、部下を気遣いつつオーバーワークをさせてしまっていたマネージャーの人も、かなり優しい人のように見えた。おそらく、優しい人であるのだろう。そういう気がする。

これは私の勝手な憶測だが、「ブラック体質」を中長期にわたって持続させてしまっているような企業というのは、そのような、ある種の明晰さ、ある種の優しさを備えた人々によってある程度支えられている企業ではないだろうか。そういった企業は、容易に告発されにくくなるのではないか、と思う。ビジネスとしても、なんとかやっていける状態を維持することもできるだろう。

そのようなブラック企業を支える優しさや明晰さを備えた人々は、実際にある程度、立派な志もある人が多いだろう。労働環境の改善をできる手立てがあるのならば、改善をしたいと思っている人も多いだろう。「居酒屋甲子園」で喋られていたのは、言葉の安っぽさだけではなく、ある種の明晰さ、配慮をする能力の高さを感じる発言の多さ、そして離職率や労働環境改善への強い意志だった。居酒屋甲子園にあらわれていたこれらの特徴は、ブラック体質の企業を支える人々の優しさや明晰さによってもたらされる複合的な結果なのではないか、と思う。そこは、とても「善良な人たちの世界」であるように感じられた。

そして、そのような善良で、ある程度の明晰さを備えた人々は、適切な批判をされれば、適切に答え、過酷な労働環境を改善するための原動力としても機能する人にもなりうるのではないだろうか。そのように感じた。

少なくとも、居酒屋甲子園の出場者の多数派は自らの労働環境をまっとうに改善したがっているように見えた。居酒屋甲子園出場者の少なからぬ人がそんじょそこらの人よりも、よほど労働環境の改善を真剣に考えている。そのことは、広く知られるべきだろう。某居酒屋チェーン店が、「頑張れば、人間なんだってできる!」みたいなことだけ言って、容赦なくオーバーワークをさせるような世界観だけが支配している場所ではなさそうだぞ、ということだ。※3

だからこそ、雑な批判には反対したい。

擁護だけをすることにも、「結果的なブラック体質」を生き残らせることに加担してしまう気がして、あまり乗り気にはなれない。

その他の政策的対応、公的対処の手法をどう考えるか

話を政策的対応という観点にうつせば、もちろん、労基法違反で即NGということで、取り締まるという方法もあるのだろう。仮に、そういった政策的なかたちで上からの対応によって、取り締まりを強化した場合、日本のどのぐらいの企業が、どういう影響をうけ、短期/長期でみて経済的にどのような影響がありうるのか私は全く知らない。労基法ありきで無理な取り締まるをすれば、少なくとも短期で強引に推し進めると、明らかに経済的にネガティヴな影響が出そうな予感もするが、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。長期的にみればどうにかなるとかなんとか、そういう議論もあるのだろうが、専門からかなり遠い話なので、申し訳ないがその点についての政策的判断についてどうこう述べる能力はない。重要な論点だとはもちろん思う。そういった政策的対応の細かいバリエーションについては労働社会学や労働経済学まわりの先生が、統計をとったり、精緻なモデルを立てているものだろうと勝手に期待しているが、私の手に負えないので、議論の筋の良し悪しについては判断がつかない。専門の先生のご登場をお願いしたい。

また、「労基法違反だからダメ」ということを政策論的判断としてではなく、労基法を道徳規範的なものとして論じるという発想をする方もいらっしゃるのは知っている。そして、そのような規範的な反応を身につけるということが効果的になりうるケースもあることも認める。「労基法違反は道徳的によくない」という人が一定数以上おり、労基法違反を反射的に責める人が一定数以上いるということは、それ自体が労働市場をある程度まで良い状態に保つ圧力になることもあるだろう。それはそう思う。

ただし、私個人が労基法を道徳規範として受け入れるべきと考えているかどうかについて言えば、私は労基法をめぐる問題が規範的に考えられるべき論点であると同時に、政策的判断として考えるべき側面が強いのではないかという世界観でものを考えている人間だ、ということを申し上げるほかない。労基法を強く遵守することがトータルでみて、どこまで効果的なのか、そこは非常に複雑でグラデーションがわかりにくい話を孕んでいるように思う。もちろん、繰り返しになるが誰かを働かせすぎることそれ自体には問題があるし、労基法的判断を、道徳規範的判断として考えるべきだという議論自体に価値がないとは思っていない。私のそのよう、場合によっては労基法違反を許容しかねない姿勢が問題だという批判は甘受するが、これは非常に複雑な論点を孕んでおり、あまり単純にいいか、わるいか、を決められるような話ではないだろうと考えている。なので、その点については私が判断する能力をもたないことを積極的に認めるし、あえて強い発言は控えたい。

まあ、しかし正直なところ、年収250万で、「時には16時間労働」というのが月1ぐらいの16時間労働で、本人がいいと思ってるのであればいうほどのことはなかろうという感覚はある。しかし、それが週4とかだったりすると、「たとえ、本人がいいとは思っていたとしてもやっぱり、エグすぎてドン引きですよねー」という話はそれはそれでもちろんわかる。ただ、それはもちろん、店舗によっても、個々人によって、いろいろなケースがあるはずで、ここらへんは実態などをまじえて微妙なめんどくさい議論をしていかなければならないだろうと思う。

ブラック体質がどうすれば解消されるのか。ブラック体質にはからずしも加担してしまっている当事者たちも交えて広く議論し、仕組みづくりをするできることができれば、理想的だとは思う。だが、どうすればそれが実現できるか、という点についての段取りを構想できるだけの力量は残念ながら私にはないし、特に今後の人生でそのことに積極的に取り組む予定もない。私としては争点にのぼっていなかった論点を提示するという以上のことはできない。

炎上させるべきだろうか?

今後の対応についてはわからないが、とりあえず今回、炎上させるような仕方で総スカンでバッシングを受けてしまうのはよろしくないだろう、というのは思っている。

居酒屋甲子園サイドの良心的/良識的なスタッフが、外部から批判されたことをきっかけに建設的な対応につなげていくというシナリオはいくらでもありうると思うが※4、今回のケースのような炎上ではそういった展開はまあ、まず難しくなる可能性が高いだろうなとは感じている。メディアと寝ながら「炎上上等」みたいな商売をしながら生きている人であれば、炎上したとしてもある程度まで冷静な対応ができるだろうし、炎上をきっかけに何かが起きることも否定しない。だが、炎上に不慣れな組織や、そもそも「ことば」を扱うことに不慣れな人々をバッシングしてしまうと、あまりいいことは起こらない印象がある。バッシング自体が何か生産的な事態へとつながりうるのであればまだいい。多くの場合は、バッシングされた側が、ネット不信、メディア不信のような気分をいだき、その界隈が閉鎖性を帯びてしまったりして、問題は巧妙に隠蔽されやすくなり逆効果を引き起こす懸念は感じている。世間に対して「いま自分たちが何を考えているか」「いま、自分たちが何をやろうとしているのか」ということを、うまく訴えかけ、提示していくための組織的対応力を持たない人々がバッシングの対象となってしまうことはよくある。そして、そういうPR力不足によってもたらされている炎上はごく素朴に不毛なものを孕んでいると感じている。

言葉や映像といったメディア対応に不慣れな人々の集団がバッシングの対象となった場合、誰も幸せでない方向に話が転ぶような気はしている。

NHKは批判されるべきか

あと、NHKが今回「だまし討ち」のようなことをやったという話があって、取材意図を伝えずに居酒屋甲子園に取材協力をさせたらしく、これは、居酒屋甲子園側が怒るのはあたりまえだし、NHKは批判されるべきだとは思う。

またそうした番組制作は、すでに論じられていたが「確信犯」としてやられているだろういう指摘があるが、それもその通りだろうと思う。「批判されてもいい。これをやるのはある意味で悪いことだが、ある意味では社会正義にのっとっている」みたいな、複合的な合理的判断にのっとって、NHKがこうした番組制作をしたのはほぼ間違いなかろうと思われる。

ただ、これについての批判は、するべきだとは思うが、気力がなえるところもある。

よくゲームとかアニメとかの「頭のいい悪役」描写で、悪役が虐殺とかするときに「私はいくら罵られてもかまわん、後世の人々のためになると信じている」みたいなのがよくあるけど、ああいうの。NHKの悪意が、ああいう感覚そのものなのか、その類似の変種なのかはよくわからないけれども、やった人も「罵られても構わん」と思っていることだろう。だから、どんどん罵ればいいと思うが、単に罵ったところで、覚悟決めてる確信犯には、どうせ精神的にノーダーメージだろうな、と思う。業界構造的にもさほどダメージが対して与えられないのではないかという気がしてならない。

どうせ批判するのであれば、NHKにかぎらず、報道やドキュメンタリーによるそうした「だまし討ち」が繰り返される構造まで踏み込んで議論した上で、その構造そのものを組み替えるための一石を投じるような筋のいい批判でなければ、実質的な効果は薄いだろうと思われる。NHK批判も、もしやるのであれば、何がどうして、あれがお仕事として「OK」になってしまうのかの構図まで含めて、もしやるのであれば、クリティカルな一打というのがほしいなとは思うが……まあ、それはそれとして批判は、ぜひやるべきだとは思う。

「ベンチャー企業だって似たようなものじゃん」と言えるのか?

「ベンチャー企業とかだって、まあ似たような労働時間で、夢見てやってる人が大量にいるのだから、まあ50歩100歩」だというご指摘もいただいた。事実の一面だとは思う。ベンチャーも死屍累々の山であり、その山のいただきに我々が享受するイノベーションというのは鎮座しているようなものだろう。イノベーションバンザイ!ベンチャーバンザイ!な話をするというのは、必要な話であると同時に罪深い話で、「若者は起業をしろ!」も「若者に安易に起業をすすめるオヤジどもは滅べ!」という主張はどちらも妥当な発言であるという、これまた悩ましい話が、この手の話の派生としてあるのだろうとは思うが、それはそれとして置いておくとして。

ただIT系ベンチャーと飲食の違いも、指摘しておいたほうがいいだろう。急成長の夢がどのぐらい見られるか。頑張った人が結果的に得られるであろう報酬の多寡がどの程度か。あと企業のなかでどのぐらいうさんくさい自己啓発セミナーまがいの話をやるか。

居酒屋の人たちが、いくら頑張って得られるやりがいというのは「来ていただける個別のお客様にしあわせをご提供し、感謝される」というあたりが中心で、なかなかでっかく成長しにくいことのほうが多いだろうと思うと、IT界隈でいえば、ベンチャー企業というよりも、組み込み系の下請けの企業とかで、「みんな夢見ようぜ!」って自己啓発セミナーノリで鼓舞しまくってる風景に近いような気がする。(むろん、飲食に急成長がないとはいわない。「店を持ちたい」という人と、「最高のサービスを提供したい」というタイプの人の夢の性質も違うだろう。ただ、それほど大胆なイノベーションのある世界ではないと思うので、やはりITベンチャーとはだいぶ違う)

どかーんとした成長のポンチ絵をもっていて実際にそこまで無理筋とも言い切れない賭けをしている人たちが「夢見ようぜ!世の中変えようぜ!」って言っているのと、どこまで言ってもビジネスの超拡大なんてものが見込みにくい人たちの「死ぬまで毎日、努力しましょう。そして夢をみましょう」という言い方は、似た話に聞こえて別なんじゃないかな、という話はあるだろうと。前者の人たちは、若い時がんばればなんとかなるかもしれない、というクジを買うわけだが、後者の人たちは年取ってもずっと大変でありつづける世界で夢をみるわけで「夢見るのもいいけど労働環境改善優先させたほうがいいかもしれませんね」という話にはなるのだろうと思う。まあ、むろん、ベンチャーの人も労働環境改善は、したほうがいいとは思うが。

もっとも、有名イタリアン・レストランで誇りをもって働く人達を描いた漫画『バンビーノ』みたいなものとかを読んでいると、国内最高峰とかを目指したりをできると、そういう人は楽しそうだなという気もする。国内最高峰レベルの人とかだと転職先もあるだろう。そこらへんは、労働者本人がキャリア・プランこみで現在の「過剰労働」をどう冷静に位置づけられるかが重要だという話なのだと思う。

何が調査されるべきか

自らのキャリア・プランの思考能力を自己啓発セミナーまがいのことで考えられなくしてしまうのは、とても残酷なことだというのは言うまでもない。だから、問題は彼らがほんとうに、どの程度まで重要なポイントでの思考力を奪われているのかどうか。そこを定性的・定量的にみていくべきだという話になるはずで、ポエムはもちろんそこで思考力を奪いもするだろうが、予想外にも思考の礎になってしまったりもする。

研究者的な言い方をすると、調査計画をたてるなら、「今後のキャリア・プランについて認識できているかどうか?」という調査項目のほうが、「ポエマーであるかどうか」という調査項目よりも、より重要な調査項目になるのではないかということだ。

で、もって、おそらく「ポエマーであること」と、「自らのキャリアを意識する能力の低さ」には一定の相関はみられるだろう…という気はする。たぶん。でも、第三の変数として何か加えてやると「ポエマーであること」かどうかは、「自らのキャリアを意識する能力の低さ」とはあんまり関係なくなるのではなかろうか、という話である。第三の変数がなんなのかということはよくわからない。ごく素朴に、ものを考えるのが好きな人かどうか、とか、そういうことなのかもしれないし、もっと別のことなのかもしれないが、とりあえず、第三の変数がありそうだぞ、ということだけは言える気がしている。

若者のキャリア意識調査とかは私の専門と全く関わらないので、仮に私がやるとしたら、近いところでは「ゲーミフィケーションに思った以上にはまりすぎてしまってヤバくなりやすそうな人」をあぶり出す調査みたいなことになるだろう。

#2014/01/21 11:00時点で追記の中の話もちょっと書き加えました

[注]

※1 というか、私自身は主にゲーム業界&アカデミック関係の業界に生息している人なわけですが、「年収250万円で時には16時間労働を超えることが…」「本人が望んでいる」という雇用状態は、ワタクシの業界でも、いろいろなところに偏在する話でありまして…。とてもヨソさまの業界を偉そうに言えた義理ではない、とも思っております。まあ、飲食ほどは厳しくはないのかもしれませんが、正直、「自発的ワーキングプアの有無」という点に関しては、あんまりヨソを偉そうにどうこう言える業界って少ないような気もします。

ただ、社員教育とかをする時とかに、どのぐらいウサんくさいセミナーまがいの手法を頻繁に用いるかどうかというそこの頻度の違いは業界によってだいぶ変わるのでしょうが。

※2 参照:赤木智弘氏 「日本人は居酒屋甲子園を批難できるのか?」 http://blogos.com/article/78219/

「もしこの居酒屋甲子園が無く、居酒屋従業員が夢や希望を声高に叫ばなくなったとして、そこに残るのは「夢や希望を声高に叫べない、長時間低賃金労働の居酒屋従業員」である。どちらにせよ長時間労働低賃金であることに変わりがないのであれば「夢や希望を声高に叫ぶ、長時間低賃金労働の居酒屋従業員」のほうがまだマシであろう。 」

※3 というか、「ブラック企業批判」というよりも、ホワイトではないけどブラックとも言い切れない「グレー企業」ってどう言ったらいいのか悩みますよねという話といってもいい(http://ブラック企業.biz/job_gray.html)。世の中の企業でピュア・ホワイトな企業はほとんどないと思いますし。かと言って、かなりダークグレーの企業は「だいたいブラック企業」扱いされても、まあいいんじゃないのか、という話もあるわけで、ああ、面倒な話だなあと思わずにはいられません。

※4 ゲーム業界だと、毎年CEDECという業界の勉強会を数日ほどパシフィコ横浜で開いているのだが、どうせ居酒屋業界の人が5000人もパシフィコ横浜に集まるのであれば、居酒屋甲子園のなかのノウハウ共有的な部分を特に強調した、業界内のノウハウ共有のためのカンファレンスでも同時並行で開催してはどうだろうか、という気はした。居酒屋業界の人を対象にそういったタイプの勉強会型のカンファレンスを開いたとしても、もしかしたら需要を喚起させることは難しいのかもしれないが。

ゲーム研究者

1980年生。ゲーム研究者。立命館大学講師。現在、ゲームという経験が何なのかについて論じる『中心をもたない、現象としてのゲームについて』を連載中。著書に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。ゲームの開発も行い、震災時にリリースした節電ゲーム『#denkimeter』でCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。ほか『ビジュアルノベル版 Wikipedia 地方病(日本住血吸虫症)』など。

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