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中村修二氏の「人類愛」

石田雅彦サイエンスライター、編集者
photo by Masahiko Ishida

2014年のノーベル物理学賞が決まった。ご承知の通り、青色LED(発光ダイオード)の開発に関係した日本人研究者3人が授賞する。3人とは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授、名城大学の赤崎勇教授、名古屋大学大学院の天野浩教授だ。

彼らは、窒化ガリウムという人工化合物によってLEDを青色に光らせる研究に取り組み、赤崎氏・天野氏の師弟は窒化ガリウムの結晶化を成功させてLEDを世界で初めて青色に光らせ、中村氏が安定した結晶の製造から青色LEDの実用製品化を実現させた、とされている。

当方は、中村氏に何度か会って取材したことがある。初めて取材したのは、中村氏が渡米した直後の2000年の暮れだった。サンタバーバラまで足を運んだことも一度や二度ではない。取材インタビューは、長いケースで3日間、延べ10数時間にわたることもあった。

青色LEDの実用製品化にいたるまでの話はもちろん、生まれ育った故郷の想い出や学生時代のエピソード、果ては奥様とのなれそめや子育て論、サラリーマン時代の苦労話にいたるまで、中村氏に関するほとんどありとあらゆる内容を重箱の隅をつつくようにインタビューしたことを覚えている。物性工学について全く無知な記者のしつこい質問に、中村氏は真摯に時折ユーモアを交えながら応対してくれた。感謝している。

こうして中村氏に取材してきた当方だが、たびたび彼が成功に到ったいくつかの理由を考えてみることにしている。希有な才能に触れた喜びを忘れないためでもあるし、そこには生きるための何か大きなヒントがあるのでは、と思っているからだ。

その勝手な推論を開陳すれば、大きく三つのエッセンスがあると考えた。集中力、運、そして愛である。

まず、驚くのはその類い希なる集中力だ。我々は何かを必死に考え続けるとしても、それが持続するのはせいぜい1時間程度が限度だろう。途中でほかのことを考えたり思考が中断したり雑念が入り込んでしまう。しかし中村氏は研究について考え始めると、大げさな表現だが寝ている間でさえ思考を中断することはない、と言う。

食事をしている間も入浴中も車を運転するときも、常にずっとそのとき取り組んでいる研究について考え続けることができる。歩きながら考えるので電柱にぶつかったり、タクシーにカバンを忘れたりすることがよくある、と笑っていた。日亜化学時代に窒化ガリウムの結晶化を進め始めた頃など、会社内の連絡を一切絶ち、仲間とのつきあいも断り、上司の電話にもほとんど受け答えせず、研究を続けた。

これは、理系研究者なら当然、と言うかもしれない。しかし、人間関係をゼロにする覚悟で集中できる研究者は少ないだろう。

取材の間によく一緒に昼食を取りに出かけることがあったが、中村氏はメニューも見ずに決まって「五目ソバ」と注文する。何を食べようか考えるくらいなら、研究のことを考えたほうがいい、と言っていた。そうしたエピソードが紹介されるたび、中村氏は会った相手から「五目ソバが好きなんですね」と聴かれるようになった、と困惑する。好きなのではなく、食べ物ごときであれこれ思考を乱されるのはゴメンだ、というだけだ。

中村氏は日亜化学時代に、ほとんど一人で製品化にこぎ着けた開発がいくつかある。ガリウム砒素、ガリウム燐、そして赤色LEDだ。ガリウム砒素やガリウム燐もLEDの原料となる物質であり、赤色LEDは実際に赤く光る半導体チップである。

こうした製品の製造を、たった一人で実現させるのは簡単ではない。ガリウム砒素もガリウム燐も自然界にはない人工化合物だ。ガリウムと砒素、燐を熱した石英管の中で結合させ、結晶板を作る。論文を読めば製法が書かれている、と思いがちだが、実際に作るのは難しい。中村氏は、重要な部分は論文には書かれていないことが多い、と言う。

真空に引いた石英管が何度も爆発し、その破片が飛んできたり、実験室が劇物である砒素だらけになったこともあった。会社は経費節減でなかなか石英管の補充をしてくれない。仕方なく割れた石英管を水素バーナーで溶接し、自分で実験装置を作りながら開発を続けた。

しかし、実験装置を自作しつつガリウム砒素などの開発を続けたおかげで、中村氏にはほかにはない技術力が身につく。前述したように、中村氏は頭の中だけで考え続けるのが好きだ。よく「本来の自分は理論屋だ」と言う。大学院の修士時代も実験装置を作ったりするのは苦手だった。本質的にそれは今でも同じだろう。

こうした実験装置は、大学や企業の開発の場合、ほとんど外注に出す。改良点などをリクエストし、外部の業者などに装置を手直ししたり、新しいものを作ってもらったりする。実験装置ができてくるまでの間、開発は中断される。

ところが、必要に迫られた中村氏は、自分で作ったり装置を改良したりすることができるようになった。伝言ゲームではなく、自分のアイディアをダイレクトに装置に反映させ、修正点があれば即座に自分で作り直すことができた。自作のため、ほぼ毎日のように繰り返すことができる。外注に出して実験装置を待っている開発チームにはできない実験頻度だ。

中村氏にどうして青色LEDの開発に成功したのか、と聴くと「宝くじに当たったようなものだ」という答えが返ってくることがある。ほとんど当たる可能性のない宝くじも、買う回数を重ねれば確率は上がる。これは実験の頻度にも当てはまる。最初の数千回で当たる運のいい人間も入れば、数億回やっても当たりくじが出ない人間もいる。ようするに中村氏は運がいい。しかし、ありがちな表現だが、運を引き寄せる努力も怠らなかった。

大学院修士を出た中村氏は就職活動をした。生まれて初めて四国を出て志望する会社がある都会で試験を受け、面接に臨んだ。ある大企業に内定した、と言う。しかし、中村氏は内定を蹴って四国に住み続けることにした。

すでに大学院時代に結婚していた中村氏には長女がいた。四国から出て初めて都会を眺めてみると、これはとても人間が暮らす環境ではない、と悟った。そんな環境で子育てをすることはできない、と思った。大学の恩師に頼み込み、徳島県阿南市にある化学メーカーに押し込んでもらった。それが日亜化学である。

会社を辞め、渡米しようと考えたときにまず選択条件にあったのが自然環境だった。サンターバーバラにしたのもそのせいだ。一貫している。それは自分のためでもあるし、家族のためを考えた結果でもあるだろう。そこにあるのは家族愛だ。

さらに中村氏と言えば、もといた日亜化学を相手取って発明の正当な対価を争った知財裁判でも有名だ。しかし当方は、中村氏は単に自分の報酬が少ないという不満だけで、あんな大がかりな訴訟を起こしたわけではない、と思っている。そもそも最初に裁判を起こしてきたのは日亜化学のほうだった。日本で起こした裁判は、それへの反訴、という意味合いもあったが、企業内発明者の権利を主張する、という目的もあった。文系社会である日本で理系の技術者研究者が冷や飯を食うようにならないように、という考えが根底にある。

すでに米国の市民権を取得している中村氏は、日本の制度的な欠陥を辛辣に批判し続けている。大学受験時代から疑問に感じてきた教育制度、裁判で感じた司法制度、そして組織が優先され、個人が否定される企業社会。その批判の背景にあるのは、母国や日本人に対する愛である。

中村氏は幼い頃、手塚治虫のマンガ『鉄腕アトム』に出てくるお茶の水博士のようになりたい、と思った。人類の生活をよくするため、人類に貢献することを目指す研究者だ。大げさな表現ではなく、青色LEDは我々の生活を一変させた。中村氏は、一般照明がすべて省エネ省資源のLEDに変われば原発も半分ですむ、と言っていた。中村氏のエッセンスで最も重要なのは、この「人類愛」なのである。

サイエンスライター、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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