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河野談話の検証、なぜ政府は秘密裏に進めようとするのか。

伊藤和子弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

1 河野談話の検証

政府は、従軍慰安婦問題に関するいわゆる河野談話を検証するという。

報道はこうだ。

菅義(よし)偉(ひで)官房長官は28日午前の衆院予算委員会で、慰安婦募集の強制性を認めた「河野洋平官房長官談話」の根拠となった元慰安婦の聞き取り調査などの再検証について「秘密を保持する中で、政府としてもう一度確認することが必要だ」と述べ、政府内に検討チームを作る方針を表明した。

出典:産経新聞

2 そもそも、河野談話とは何か。

これは、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 」(平成5年8月4日)のことである。

すでに知っている人も多いと思うけれど、その重要部分は以下の通りだ。

いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

この河野談話に書かれたことは、これまで何ら疑義のない、確定した歴史認識として通用してきた。

争いのない事実ばかりであり、国連人権委員会、小委員会からもこの人権侵害の事実については詳細な報告書が出されている(クマラスワミ報告、マグドゥーガル報告など)。

そもそも、政府が設置したアジア女性基金(慰安婦の方々からは強く非難されてきた基金である)自体が、河野談話の範囲の事実を認める事実関係を争いのない事実として明記しているのだ。

アジア女性基金ウェブサイト

3 「検証」すること自体の異例さ

このように、いったん国として責任をもって調査を実施し、責任を認めた植民地支配、侵略の過程での人権侵害について、いまさら検証するということ自体は、極めて異例である。

そして、その責任を否定する方向で検証が行われるとすれば、あまりにも恥ずべきことと言わざるを得ない。

一度認めた他国への罪、人権侵害の事実を、時が経過したから、「責任はなかった」「責任は軽かった」などと開き直る国を私はあまり知らない(例えば殺人事件の犯人、レイプ事件の犯人が、いったんは明確に自らの責任を認めて判決が確定した後、20年以上たって、「責任はなかった」「責任は軽かった」などと言いだしたら、どう思うだろうか、最低の卑怯な人間のようなふるまいを主権国家がやってよいのか)。

人権侵害の規模や性質は異なるものの、ナチスドイツの行為の責任を徹底して検証し、認め、謝罪し、補償をしてきたドイツでは、歴史の再検証など到底あり得ないことである。

国際社会は人権問題にセンシティブであるが、人権問題のうち、最もゆるがせにしてはならないのが、戦時下の「戦争犯罪」「人道に対する罪」に該当する重大犯罪である。そして、戦時下の性暴力はそうした最も許しがたい人権侵害に分類されている。

そのような過去を経験した国が、その歴史の修正を試み、人権侵害を直視しない、ということになれば、人権感覚として極めて問題のある国、という評価を受けることになる。その重大性をどこまで現内閣は認識しているのだろうか。

4 なぜ非公開なのか

最近ではNHK籾井会長や橋下維新の会共同代表はじめ、極めて遺憾なことに、従軍慰安婦の加害責任をきちんと認めない問題な言動が相次いでいる。

従って、仮に、安倍内閣が再度徹底して透明性の高い調査をし、人権侵害の事実と責任の所在について改めて明確にしよう、というのであれば、意義のあることかもしれない。

しかし、冒頭の官房長官談話をみれば、この調査は秘密裏に実施されるという。懸念は増すばかりである。

なぜ秘密なのか。どうして透明性の高い公明正大なプロセスとして、有識者、法律家等などを入れた公開のプロセスとしないのか。

不信感を抱かざるを得ない。

このようなやり方は、こうした過去の人権侵害の検証プロセスに関する国際スタンダードに明らかに反しているのである。

過去の人権侵害の検証プロセスはしばしば移行期正義(Transitional Justice)と言われるが、調査委員会、法廷などその形式の如何を問わず、公開性はイロハのイである。独立した専門家が委員に選任され、公開の公聴会が行われ、証拠は公開され、調査結果とその根拠も公表される(南アフリカでも南米でも、アジア諸国でもそのようにしている)。

政府がこっそりと密室で人権侵害の歴史を検証することなど、現在の国際社会の常識では到底ありえない。

まして、日本のあり方に深くかかわる歴史認識の問題に関して、政府の秘密会のようなところでこっそり話しあって、万一にも従前の認識を勝手に覆すようなことがあれば、きわめて非民主的というほかなく、国際社会も、近隣諸国も、被害者も到底納得しないであろう。

私たち主権者も一切かかわれない、一切情報から遠ざけられたまま、ある日突然歴史に関する新しい歴史の事実が「上からお達し」されるということでよいのか。私たちはいかなる時代のいかなる国に生きているのだろうか。

5 そもそも安倍内閣の事実認定のあり方には重大な疑問

何よりも、慰安婦問題に関する安倍内閣のこれまでの、事実や資料に不誠実な姿勢からみて、内閣の秘密裡による調査が適正に実施されるのか、極めて疑問と言わなければならない。

安倍内閣は、河野談話を踏襲してきたというが、2007年の第一次安倍内閣時代には、以下のような閣議決定がされている。

「関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、(中略)内閣官房長官談話のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」

出典:(二〇〇七年三月八日に辻元清美が提出した質問主意書に対する答弁)

このような認識は、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」という河野談話の認識と一致するものとは考えにくい。

しかも、河野談話の前提となる政府の調査結果の中には、慰安婦の強制連行を示す証拠があったことが明らかになっているのだ。

オランダ人への戦争犯罪等を裁くBC級裁判、いわゆるバタビア臨時軍法会議の裁判資料がそれだ。

昨年、以下のような資料が市民に情報公開された。

戦時中、旧日本軍がインドネシアの捕虜収容所からオランダ人女性約35人を強制連行し、慰安婦としたとの記載がある公的な資料が6日までに、国立公文書館(東京)で市民団体に開示された。資料は軍の関与を認めた河野官房長官談話(1993年)の基となるもので、存在と内容の骨子は知られていたが、詳細な記述が明らかになるのは初めて。

法務省によると、資料名は「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第106号事件」。 49年までに、オランダによるバタビア臨時軍法会議(BC級戦犯法廷)で、旧日本軍の元中将(有期刑12年)、同少佐(死刑)など将校5人と民間人4人を強姦(ごうかん)罪などで有罪とした法廷の起訴状、判決文など裁判記録のほか、裁判後に将校に聞き取り調査をした結果が含まれる。計約530枚で、法務省がこれらを要約したものが談話作成の際に集められた資料の一つとなった(中略)。元陸軍中将の判決文などによると、戦時中の44年、ジャワ島スマラン州に収容されていたオランダ人女性を、日本軍将校が命じて州内4カ所の慰安所に連行し、脅して売春させた。

出典:共同通信 2013年10月7日

このバタビア臨時軍法会議では、証人が、ジャワ島スマランのオランダ人抑留所にいた女性や少女達を、売春をさせるために強制的に連行したということを克明に証言している裁判記録もある。

辻元清美議員は、この裁判記録をもとに2007年に第一次安倍内閣に質問趣意書を出している。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a166266.htm

この辻元議員に対する政府の答弁書は

連合国戦争犯罪法廷に対しては、御指摘の資料も含め、関係国から様々な資料が証拠として提出されたものと承知しているが、いずれにせよ、オランダ出身の慰安婦を含め、慰安婦問題に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話のとおりである。

出典:http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b166266.htm

というものである。

河野談話のとおりだ、などと話をぼかしているが、このように強制連行を示す証拠があるにもかかわらず、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と閣議決定したのだ。そして、証拠をつきつけられて質問趣意書を受けても、理由も明確にしないまま、閣議決定の認識を変更しようとは全くしないのだ。

辻元議員は2013年も同様の質問をしているが、安倍内閣の答弁は変わらなかった。強制はない、という言い分も変更していない。

これ、弁護士の端くれである私などから見ると、全く筋が通っていないのだ。

裁判で、強制連行をした事実を前提に有罪判決となっている事件の存在を知り、その資料も入手しながら、どうして、「強制連行を示す証拠はない」と言えるのか。

裁判や証言の信憑性を今さら争うつもりなのか? 信憑性を否定するならその根拠は何か? そうした理由を一切示さないまま、政府の一存で「強制連行はない」と言い張れば、それが正しい事実になるのだろうか。

このように政府は平気でうそをついているとしか言えないのが現状である。このことを国会議員やメディアがあまり問題にしないのも、議員やメディアの怠慢としか言いようがない。何を萎縮・遠慮しているのだろうか。

6 改めて、秘密の独走を許してよいのか。

以上のように、安倍内閣の過去の歴史に関する事実認定に問題があり、適正な事実認定能力に欠けることは、オランダ人慰安婦に関する裁判記録からも明らかになっている。

政治的とか、イデオロギー的という以前の、事実を直視しない、証拠を無視する、という、事実認定能力の基本に欠ける問題なのである。

そのような政府に、秘密裏に、歴史認識の認定を委ねれば、どんな非常識な結果になるのか、想像に難くない。

都合の悪い証拠が出てきても、無視して大胆に、自分の好きなように事実を検証し、決められることになってしまう。まさに茶番になる危険性があるのだ。

どうしても今検証するというのであれば、公開で透明性のあるプロセスにすべきだ。

過去の確定した判決を理由もなく無視するような、世界に恥ずかしい事実認定をさせないためにも、独立した立場の有識者、裁判官OBや検察OB、ジャーナリストなど、独立性のある、まともな人が入ってチェックすべきである。

出来る限りの証拠を国内外から新たに収集して、公開しながら事実を認定すべきだ。

都合の悪いことを国民やメディアから隠す「秘密保護法」が昨年成立したが、政府が秘密裏に勝手なことをやって独走し、国益を損なう結果になる見本のような事態が起こりつつある。

そして、その結果は、世界に対する日本の信頼を失墜させ、近隣諸国やオランダを含めた被害国との関係を決定的に悪化させ、地域を不安定にし、平和と安全保障を危険に晒し、国益を損なう危険性がある。曲がってはならない歴史の曲がり角を曲がることになりかねない。

このようなことはあってはならない。

政府は事の重大性を深く認識し、このような軽率な行動をやめ、歴史と史実、資料に謙虚に、公正な姿勢で事態に対処すべきである。

弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

1994年に弁護士登録。女性、子どもの権利、えん罪事件など、人権問題に関わって活動。米国留学後の2006年、国境を越えて世界の人権問題に取り組む日本発の国際人権NGO・ヒューマンライツ・ナウを立ち上げ、事務局長として国内外で現在進行形の人権侵害の解決を求めて活動中。同時に、弁護士として、女性をはじめ、権利の実現を求める市民の法的問題の解決のために日々活動している。ミモザの森法律事務所(東京)代表。

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