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元校長や遺族らが被災校舎の遺構化を巡り意見発表へ 石巻

加藤順子ジャーナリスト、フォトグラファー、気象予報士
被災した旧門脇小の校舎(2011年4月)

東日本大震災で約4000人の死者・行方不明者を数える宮城県石巻市で、津波で被災した2つの小学校の旧校舎を震災遺構として保存するか否かをめぐり、住民たちや学校の関係者が意見を述べる公聴会が、13日に市の主催で開かれる。当時の校長や、学校管理下で子どもや妹を亡くした遺族や卒業生も意見発表の予定者に名を連ねる。それぞれの公聴会には亀山紘市長や市復興政策部長らも出席し、これまでに市や市教育委員会が市民や保護者たちから集めた意見も併せて検討し、市長が今年3月までに結論を出す予定だ。

遺構の候補となっている旧校舎は、海沿いの市立門脇小学校(2014年度で石巻小学校と統合し閉校)と、新北上川の西岸に建つ市立大川小学校。

公聴会で意見を述べる発表者の募集や、意見書の提出は3日に締め切られ、のべ27件の意見が集まった。発表者の枠は、一部保存を含む保存と、解体を求めるそれぞれの立場から各5人分、ひとり5分の持ち時間が用意されているが、一部で希望者が不足している。

市の復興政策課によると、門脇小について提出された意見書は保存と解体の立場がそれぞれ7件の計14件。このうち、会場で発表するのは<保存>が4人、<解体>が2人の計6人の予定だ。一方、大川小については13件の意見書が出され、<保存>が9件、<解体>は4件だった。公聴会当日の発表を希望者は、<保存>が6人、<解体>が1人となっている。

大川小の<保存>の立場のみ発表希望者が枠を超えているため、抽選となる。そのほかの枠については、当日に会場から発表者を募る予定だ。

門脇小の当時の校長も意見発表へ

旧門脇小の校舎についての公聴会では、様々な背景を持つ人からの意見発表が予定されているが、当時の校長だった鈴木洋子さんも保存を求める立場から発表をする。

漁港と工業地帯に挟まれた住宅地だった場所に建つ鉄筋コンクリートの3階建ての校舎は、津波で1階天井付近まで浸水し、津波に伴う火災で黒焦げとなった。鈴木さんは、学校と学区を襲った災害の爪痕を生々しく残す旧門脇小の校舎が、沿岸市街地特有の災害の恐ろしさを物語っており、未来への教訓とするのにふさわしい建物と考えている。自身の「最後の授業のつもり」で公聴会の準備をすすめる。

門脇小は5年前、大津波警報が発表されてすぐに校舎の裏にある高台に全校避難。当時学校にいた270人あまりの児童全員が被害を免れた。

学校に集まってきていた保護者や近隣住民も、避難する児童や教職員と共に高台へ登った。その際に教職員が日頃の訓練通りに名簿や金庫の鍵、ブルーシートなど必要な備品を迅速に持ち出したこと、校舎に残った一部の教職員が住民と燃える校舎から脱出した出来事も併せて知られる。同校の高台避難時に、すでに下校するなどして校外にいた児童は7人が犠牲になった。

門脇小をめぐる議論の経緯

あの日に校舎へ置いてきたものを取りに(2011年4月門脇小)
あの日に校舎へ置いてきたものを取りに(2011年4月門脇小)

旧校舎の前に拡がる学区の低地の大部分は、ほとんどが非可住区域に指定された。一帯は、震災から10年となる2020年度をめどに、市営と県営の計約40ヘクタールの復興祈念公園が整備される計画となっている。しかし、校舎付近の高台沿いの区域だけは指定を免れ、周辺にはいまも25世帯が暮らす。市は、災害公営住宅150戸と戸建て250戸分の用地を整備しており、今後新たな市街地ができあがる。

旧門脇小校舎の存廃については、市民や保護者、地権者を対象にしたアンケートが、2012年から毎年形を変えて実施されてきた。

これに平行して、住民で組織する復興まちづくり協議会などは、校舎の現地保存に反対する意見や解体を求める声を上げ続けている。要望書も市に2度提出したが、これまで市が開いた住民間の議論の場は、公園の整備計画やまちづくりに関するものがほとんどだった。

そのうえ、有識者で構成する市の伝承検討委員会が2014年12月、旧門脇小校舎を震災遺構として保存するよう提言した。亀山市長は、校舎の存廃を2015年3月までに結論を出す予定としていたが、結論はさらに1年間先送りされた。

市が行った最新の調査は、2015年秋のアンケートだ。無作為抽出で選ばれた18歳以上の市民と、学区の住民の計1078人が回答した。

報告によると、市民の意見は<解体>が 40.1.%、<一部保存>41.1%、<全部保存> 17.1%だったのに対し、地区住民はそれぞれ48.1%、36.8%、15.0%だった。いずれも保存を求める立場が過半数を超えるが、意見は拮抗している。

大川小で亡くなった児童の親や兄弟姉妹も発表の予定

大川小の旧校舎についての公聴会は、学校で亡くなった児童の親たちや兄弟姉妹も、保存・解体を求めるそれぞれの立場から意見発表を予定している。

地震発生後に校庭へ避難した大川小では、児童と教職員が約50分間の待機した後、登りやすい裏山ではなく校外へ移動を始めたばかりの時に、河川や陸地を遡上してきた津波に襲われた。児童70人と教職員10人が死亡し、4人の児童が現在も行方不明となっている。ひとつの学校で起きた学校管理下での災害としては、戦後最多の犠牲者となった。また、旧校舎の建つ集落の釜谷地区でも、住民の人口のおよそ半数にあたる約200人が死亡・行方不明となっている。

学校がとった当日の避難行動や当時の防災体制について、児童の遺族から真相究明を求める声が上がり、市が設置した第三者事故検証委員会が2013年2月から1年をかけて、当事者や住民らからのヒアリングを含む検証を実施した。しかし検証の進め方や検証のあり方そのものが遺族から批判され、新しい事実の報告もほぼ出なかった。

2014年3月、19遺族が真相を求めて仙台地裁に市と県を相手取り提訴。現在も地裁での審理は続いている。

大川小をめぐる議論の経緯

大川小の旧校舎(2013年9月)
大川小の旧校舎(2013年9月)

大川小の旧校舎が建つ一帯は非可住区域に指定され、現在集落に残る建物は無残な姿となった校舎だけだ。教室があった建物は外形をとどめているものの、床はめくれ、梁がむき出しになっている。体育館は流失、渡り廊下は根元からなぎ倒され、ねじ曲がったままの状態で置かれている。

大川小の校舎の遺構化を巡って市がこれまでに行った調査は、2015年秋のアンケート1回のみ。無作為抽出で選ばれた18歳以上の市民と、学区の住民の計1262人が回答した。

報告書によれば、市民の意見は<解体>37.2%、<一部保存>32.1%、<全部保存>28.3%だったのに対し、地区住民はそれぞれ54.4%、20.4%、24.6%だった。 市民と地元の住民との間で意見に大きくズレが見られる結果となった。

地元では、保存か解体かで揺れているだけでなく、「結論を出すのはまだ早い」といった声も根強くある。地区全体が受けた被害が甚大で、意見を表明する段階に至れない人もかなりいるという実感や、訴訟が進行中であるというのがその理由だ。

住民で作る大川地区復興協議会自体も、2012年の時点で、「まだ早すぎる」として校舎を巡る議論を凍結した経緯がある。その後、2014年秋に議論が再開されるきっかけとなったのは、当時の在校生や卒業生らが保存を求めて意見表明の活動を始めたことや、市伝承検討委の検討対象から大川小が外されたことだった。

同協議会は2015年3月、意見集約のための会合を開き、地域住民、遺族、子どもたちが発言しにくい雰囲気の中でそれぞれ意見を述べ合った。その場で実施・集計されたアンケート(有効回答120件)では、<解体>30.8%、<一部保存>2.5%、<全部保存>47.5%、<公園整備も望まず更地化>9.2%などとなり、同協議会は集計結果とそれぞれの意見を記した要望書を市に提出した。

地元の人たちが「東日本大震災の最大の被災地」と表現をする石巻の震災被害を、後世にどう残していくのか。これまでの5年間で、意見を交わす場が醸成されてきたとは決して言えないなか開かれる公聴会で、市長に意見が託される。

市は現在、当時両小学校に在籍していた児童へのアンケートも公聴会とは別に実施している。

■2つの旧校舎の保存・解体に関する公聴会

平成28年2月13日(土)

・旧門脇小学校校舎については市立門脇中学校体育館にて、午前10時から

・旧大川小学校校舎については市立飯野川中学校体育館にて、午後2時から

ジャーナリスト、フォトグラファー、気象予報士

近年は、引き出し屋問題を取材。その他、学校安全、災害・防災、科学コミュニケーション、ソーシャルデザインが主なテーマ。災害が起きても現場に足を運べず、スタジオから伝えるばかりだった気象キャスター時代を省みて、取材者に。主な共著は、『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)、『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』(ポプラ社)、『下流中年』(SB新書)等。

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