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豊洲購入の原点文書「真っ黒」 都が開示した東京ガスとの交渉記録(追記あり)

加藤順子ジャーナリスト、フォトグラファー、気象予報士
これで「情報開示」といえるのか?

築地市場の移転延期の話題は、豊洲新市場の複数の建物の地下に、それまでの説明にない広い空洞と水たまりが見つかったことや、盛り土がされていないことが次々と明らかになり、各メディアの取材がますます加熱している。

公益事業は、主体となる行政が起案の段階から誰が、いつ、どのように話し合い、決定していったのかの記録を残しておくことが欠かせない。しかし、今回の「発見」を発端としてわかったのは、当時の関係者に直に取材攻勢を掛けなければ、きちんとした経緯や責任の所在がわからないということだった。これらの出来事からは、東京都が巨大なブラックボックスと化していた実情が垣間見える。

そして、メディアの取材の関心は、そもそもなぜ生鮮食料品を扱うにはふさわしくない豊洲の汚染地が、築地市場の移転先として選ばれたのか、という原点に向かいつつあるように思う。

筆者も移転先選定の経緯や用地取得のきっかけを知りたいと思っていたところ、都が元々の用地所有者である東京ガスを相手に、土地の取得をめぐる協議を始めたとみられる1998(平成10)年からの文書27項目48ページ分を入手した。2010年5月に一級建築士の水谷和子さんが行った情報開示請求に対して都が開示したものだ。

ところが、その用地取得と土壌汚染処理の交渉の一部の協議・折衝をめぐる一連の記録は、ほぼ黒塗りされている。把握できるのは、会合が行われた日にちと都側の出席者ばかりだ。東京ガス側の出席者名や、やりとりについては一切把握できない。

■交渉開始当初から「副知事」の肩書き

一連の文書の最も古い日付は、今から18年前の1998(平成10)年9月21日とある。東京・浜松町の東京ガス本社会議室を、都の中央卸売市場の再整備担当者部長と課長が訪れている。目的は、「豊洲の調査についての説明と挨拶」。この日をきっかけとして、事前交渉が始まっていったといえるだろう。

実務者レベルで都と東京ガスの具体的な交渉が始まったのが、その1年後の1999(平成11)年11月だ。初っ端に「副知事」の肩書きが記録に出てくる。名前は不明だが、当初から首脳級が絡んでいることがわかった。

さらに年末から翌年の2000(平成12)年2月にかけて、5回の実務者協議が持たれた。4月になると、2回の局長級協議があった後、5月には福永正道副知事が東京ガスを訪れ会談を行った。7月にかけてさらに3回の首脳級の会合があり、10月には濱渦武生副知事(いずれも当時)も東京ガスを訪問した。

こうして2001(平成13)年2月21日に土地の取得に関する両者間の覚え書きが交われるまで、度重なる協議が持たれている。これらの協議内容は、全て黒塗りで不明だ。

また、2005(平成17)年5月の「土壌汚染の処理の確認書」に至るまでの交渉記録は、少なくとも12回の協議記録が部分的に開示されている。こちらも同様に全て塗りつぶされ、内容の一切がわからない。

■別の資料では、「土地の交換リスト」提示の記録も

上記開示資料の黒ぬり部分について、別途入手した資料に要約を見つけた。

水産仲卸の業者による東京魚市場卸協同組合(東卸組合)の「五十年史」(平成14年11月発行)によると、1999(平成11)年11月から2000(平成12)年2月にかけて行われた5回の実務者交渉では、東京ガスが提示したエリア(4街区、5街区)を中心に、市場の移転の可能性を探っていたという。しかし、当該エリアでは立地が難しいという結論に至ったようだ。

現在豊洲で水産卸・仲卸棟が建つ6街区、7街区を確保すべく交渉が行われたのが、2000(平成12)年4月の2度にわたる局長級の協議だ。大矢實市場長(当時)が東京ガスを訪れ、東京ガスと交換する都有地のリストも併せて提示していたことがわかった。

この4つの街区に至る交渉については、同年6月2日付の「弊社豊洲用地への築地市場移転に関わる御都のお考えについて(質問)」という、福永副知事宛の文書にも出てくる。

実は、東京ガスは、都との交渉が始まる前の1998年の7月8日から都環境局に届け出をし、土壌汚染調査を開始している。2007年5月の「豊洲新市場予定地における土壌汚染対策等に関する専門家会議」の第一回資料に説明が出てくる話だ。

都はこの後、豊洲の汚染に対する不安の声が高まる中、用地約40ヘクタールを汚染がない場合と同等の1859億円もの金額で購入し、さらに土壌汚染対策費として858億円を投じることになっていく。しかも、専門家会議が2007年設置される前の2006年には、用地の取得を段階的に始めた。

土地の交換や取得、土壌汚染をめぐって、都と東京ガスの間では、どのような話し合いが行われたのか。交渉の経緯はきちんと明されなければならない。

■なぜ初めから「移転用地は40ヘクタール」だったのか

冒頭の開示資料とは別に都中央卸売市場が作成した資料もある。

土地取得の交渉が始まった1998年9月よりさらに1年前の1997(平成9)年10月の「築地市場の現在地での再整備について」という文書で、臨海副都心(レインボータウン、現在の通称はお台場)、晴海地区、豊洲地区を移転検討先として挙げつつ、「現在地(築地)での再整備することの利点」を確認する内容となっている。

不思議なのは、この段階で、文書では築地市場の移転候補地の面積は「約40ヘクタール」と具体的に言及されていることだ。この広さが確保できるのは当時でも豊洲しかなかった。

築地市場の面積は23ヘクタールで、現地再整備には別途4.5ヘクタールが必要とされていた。そのスペースを築地では確保できないうえ、市場を稼働させながらの再整備は営業面への影響が大きく、「困難」という結論に至ったことが、今日では移転を決めた理由とされている。

40ヘクタールという「広さ」には、どのような意味があるのだろうか。

同じ1997(平成9)年10月14日、都と業界の協議機関である築地市場再整備推進協議会(会長:宮城哲夫市場長、当時)の第14回議事録には、会議に参加した買参人がこんな発言をした記録が残っている。

最近、乃木坂研究所から市場のベイエリアへの移転が提案されていた。良い考えもあるのでこの事を申し入れておく

出典:第14回築地市場再整備推進協議会議事録(1997年10月14日)

ここに挙げられている研究所について確認はできなかったが、コンサルタントだろうか。すでにこの頃には、市場当局の間でも市場団体の人たちの中でも、もし移転を模索する対象地として「豊洲」のイメージがかなり具体的に絞られていたとみられる。

前出の「五十年史」によると、1997年末には、具体的に「豊洲」で意見はまとまっていく。12月に開かれた東卸組合の築地市場再開発特別委員会(伊藤宏之委員長、当時)の水産物部検討会では、築地での再整備を模索しつつ、同時に選択肢のひとつとして豊洲地区も視野に入れて検討していくことを決めた。

翌1998(平成10)年2月には、東卸組合の理事会は、移転の可能性について都に調査するよう要望することを決定。4月2日には実際に、東卸組合も含めた市場6団体(水産卸、水産仲卸、水産買参、買出人、青果、関連事業者による各団体)は、「臨海部」に市場をつくることが可能かどうか調査・検討をするよう要望している。その際、口頭で「豊洲」が触れられたという。

この段階までは、あくまでも「現在地での再整備」を進めつつ、比較検討対象として臨海部への移転の可能性を探る目的だった。それがこの後、「業界が豊洲に移転を希望している」という文脈に書き変わっていく。

■都が求めたのは、市場業界による実質的な再整備白紙の意思

市場団体からの調査の要望に対し、都が公文書で回答をしたのは同1998(平成10)年6月30日。6団体に対し、都は「(豊洲地区への移転の可能性について)検討すべき課題が多く」「現時点で移転の可能性を見極めるのは極めて困難な状況」としながらも、移転の可能性の判断には市場関係者に一致した意思を明らかにすることが必要だとしている。さらにその意思を確認できる文書を年末までに知事に提出にするように求めている。

当時の宮城哲夫市場長の名義で出されたこの回答文書には、都が3ヶ月間、どこを対象にどのような調査・検討を行い、どのような検討課題を見つけたのかという説明は見当たらない。都の大方針だった築地再整備を、「市場業界全体の一致した意思」で、なぜ業界自体に白紙撤回させることが必要だったのか。この文書だけでは見えてこない。

全く別に入手した文書に、この3ヶ月に触れている部分を見つけた。1998(平成10)年10月に都が会議用に作成したその資料には、「平成10年4月から6月まで精力的に関係5局(政策報道課、都市計画局、建設局、港湾局、中央卸売市場)で議論した結果、豊洲地区への移転が絶対不可能であるという結論には至らなかった」と記述がある。

結局、市場団体の一致した意思を求めた都側の要請は、移転計画を進めていくに当たって足かせとなり、後に都が豊洲移転について解説した「疑問解消BOOK」で一方的に方針を変更したことにしている。もちろん今日に至るまで、「市場業界全体の一致した意思」は都知事に提出されていない。

■都は、仲卸と再整備を模索しながら東京ガスと接触

冒頭の情報開示請求資料の最初に出てきた1998年9月21日は、豊洲への「移転」に向けてそんな条件整備が始まりつつある頃だった。

そのわずか3日後の9月24日、宮城市場長は、東卸組合の増田誠次理事長宛からの水産棟立体化の要望等に対する回答文書を出している。数日前に東京ガス側と接触を始めたにもかかわらず、それには一切触れず、仲卸の人たちに対しあくまでも築地で市場再整備を模索している前提の内容となっている。

都はこの回答で、水産棟の立体化は「実現は極めて困難」と結論付けた。「(上下搬送は)搬送時間の長大化を招き、非効率で使いにくい」「設備費が増加する」「市場財政に大きな負担を課す」などと理由を挙げている。築地の再整備に「難あり」を示す回答だった。しかし皮肉なことに、現在建物が出来上がった豊洲新市場は、水産棟の立体化が実現してしまっている。

同年10月16日に開かれた東卸組合の再開発特別委員会では、11月の全組合員による意向投票を前に、伊藤委員長と増田誠次東卸組合理事長(当時)がそれぞれ移転「賛成派」と「反対派」に分かれ自由討論をしている。

翌月の11月16日には、水産大卸7社が豊洲移転を「最善の選択肢」と決めた旨を仲卸業者に向けて通知。しかし東卸組合は、11月末の投票の結果、豊洲移転を否決し、翌12月に「現地再整備」を機関決定した。

都中央卸売市場のウェブサイトによると、東卸組合はこの時「築地」を選んだにもかかわらず、この1年後1999(平成11)年11月には「豊洲への移転整備」で意見の集約がされたことになっている。しかしこれは、1998年6月に都が公文書上で業界に要請した団体の一致した意思ではなく、東卸組合の協議会の業界委員6名が移転を求めたことによるものだった。いつの間にか都側の前提が置き換えられていた。

■築地売却益で、市場の財政赤字を目的化?

増田理事長は当時の討議で、「平成8年の(昭和63年策定の再整備に関する基本計画の)見直しは、財政難が理由だった」「(築地での再整備の)予算も当初の約2380億円から約1700億円にダウンした」とも話している。

実際に、同年10月に都が、築地再整備の方針と豊洲移転をめぐる状況の変化をまとめた資料にも、財政についてこんな記述がある。

「現在地で再整備するとなると、神田市場などを売却した積立金の残だけでは足りず、一般会計からの繰り入れを求めなければならない。しかし、その時、一般会計に余力があるのか不明確である。現敷地を売却して豊洲に移転するのであれば、財政的にはずいぶん楽になる」

築地の売却益で、市場会計を補填するという目的がこの頃には浮かんできていた。

これ以降、築地で2380億円かけて再整備するよりも、豊洲に移転したほうが「安くすむ」ことが、盛んに言われるようになっていく。しかし、土壌汚染対策が必要となり、当初の約3倍の豊洲の総事業費5884億円(平成25年3月現在)に膨れ上がった。市場業界が豊洲へ移転の方針で一致する前段階で、都は当該地に土壌汚染があったことを知っていたことを考えると、計画は当初の段階から大きな無理が生じていたことがわかる。

汚染土壌の土木的・化学的な技術処理が一定程度済んだとされる今もなお、築地市場で働く人たちが汚染を心配し続けるのは、処理技術に対する正しい認識不足が原因というよりも、ここまで挙げてきたように、都がこれまで適切な情報を共有・開示してこなかったためといえる。根拠を示さない説明は信用しないという空気が広がっているのだ。

なお、豊洲新市場の各棟の最終図面を見れば、「謎の空間」は地下ピットであることや、そこに重機の搬入口があることは一目でわかる。

しかし、こうした図面を世間にいち早く開示して説明せず、「配管のため」などと適当な答えでやり過ごそうとした都の中央卸売市場新市場整備部という部署の組織体質が、マスコミの当時の都関係者への突撃を生み、騒ぎと不安を大きくしているといえるのではないだろうか。

関連記事:「まさに”海苔弁”状態 豊洲用地の土壌汚染対策費や取得価格の交渉記録も(追記あり)」(10月6日 加藤順子)

(追記)

本稿で取り上げた、土地の取得をめぐる東京都と東京ガスとの協議ついての黒塗り開示資料は48ページ分だが、10月6日の都議会経済港湾委員会の求めに応じて市場当局が配布に応じた資料には、黒塗りのままわずか2ページ分(平成10年9月21日分と平成15年4月3日分)しか入っていなかった。(10月6日)

ジャーナリスト、フォトグラファー、気象予報士

近年は、引き出し屋問題を取材。その他、学校安全、災害・防災、科学コミュニケーション、ソーシャルデザインが主なテーマ。災害が起きても現場に足を運べず、スタジオから伝えるばかりだった気象キャスター時代を省みて、取材者に。主な共著は、『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)、『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』(ポプラ社)、『下流中年』(SB新書)等。

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