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“認知症”は作られる!? 隠れ介護1300万人時代の根っこに潜む医療問題 

河合薫健康社会学者(Ph.D)
著者:Karsten Hitzschke

10年後には、65歳以上の5人に1人が認知症になるーーー。

こんな衝撃的な数字が、政府が策定した「認知症国家戦略案」から明らかになった。2012年時点で65歳以上の認知症の人は7人に1人(462万人)。これが団塊の世代が75歳以上になる2025年には、65歳以上の5人に1人にあたる700万人前後に増えるのだという。

5人に1人。こんなにも多くの人たちが、認知症になってしまうのか? 後で詳しく述べるが、「作られているのでは?」との疑念もある。

いずれにしても、5人に1人とはただ事ではない。その高齢者を介護し、サポートするのは40代以上の子ども世代だ。組織での責任あるポジションと、「親のためにできることはしたい」という気持ちに翻弄され、介護と仕事の両立に四苦八苦することになる。

実際、私の周りでは立て続けに、“親の変化”が起きているのだ。

おそらくそういう年回りなのだと思う。80歳前後になった両親、特に父親に変化が起こり、

「お互い、大変だな」

「うん」

何度、こんな会話を繰り返しただろう。

そう。実はうちの父にも、“変化”が起きた。

その一週間前まで、連日ゴルフに行き、「やれ、大学の同窓会だ!」「それ、幼稚園の同窓会だ!(はい、間違いなく幼稚園です)」とバリバリ元気で、「そんなに鍛えて誰に見せるわけ?」と笑ってしまうほど、腹筋・背筋・腕立て伏せをやっていた父に、“変化”が起きた。

それはある日、突然の出来事だった。

入院とともに体力は著しく低下した。それでも退院後は、鍛えていただけあって肉体的には、驚異的な回復力をみせている。だが、精神面はダメだ。まるで坂道を転げ落ちるように入院中に“変化”し、どうにか瀬戸際で食い止めてはいるものの、一歩進んで三歩くらい下がる。

「追い込まれるから必死にやるんでしょうに……」――。以前、私が介護問題について書いたコラムに、こんなコメントをくださった方がいたが、その言葉の重さをつくづく感じている。

人は実に勝手で、愚かで、ちょっと悲しい存在で、どんなに「介護、介護、介護問題をどうにかしなきゃ!」と問題提起しても、当事者にならない限り、所詮他人事。そのときがきて初めて、出口の見えない孤独な回廊に足がすくむ。

しかも、“親の変化”をきっかけに、さまざまな変化がおこり、“プレ介護”状態に疲弊し、翻弄される。リアル介護の前のプレ介護状態があるだなんて、親の変化に直面するまで考えたことも、イメージしたことも、全くなかった。

ひょっとすると、このプレ介護で離職する人も少なくないのでは? と思ったりもする。

「隠れ介護 1300万人の激震」ーーと日経ビジネスが報じたのは、昨年の9月。就業者6357万人(総務省統計局の労働力調査)の実に5人に1人が隠れ介護で、その多くが40代以上で、管理職クラスの課長以上が半数を占めるとし、「介護離職をいかに食い止めるかが、企業存続の鍵」と警鐘を鳴らしたのだ。

おそらく隠れ介護の倍以上の、“隠れプレ介護”状態の人たちもいる。しかしながら、“プレ介護”で仕事を休もうにも、有給休暇以外使える制度はない。いや、それ以前に、2012年の介護制度の取得率は、わずか3.2%。介護離職した人の数は、48.7万人(平成19年10月~平成24年10月の期間中)。

今や、介護を理由に職場を去る人が年間約10万人にものぼり、まさに「介護離職」は個人にとっても、企業にとっても決して他人事ではない時代となった。にもかかわらず、積極的にこの案件が議論されている様子はない。

制定されてから15年も立つ介護休暇の取得率が、5%にも満たないのを異常だとなぜ、考えないのか? 「働き方革命」とばかりに、残業代ゼロ法案はせっせと進められているけど、介護問題は置き去りになっている。そう思えてならないのである。

今こそ、真のワークライフバランスとは何かを考え、実行に移すべき。そうしないことには、働く人たちも企業も共倒れになる。

子どもを持つ女性の労働力を! との声は大きいが、介護をする人たちの労働力を! とする声はない。労働人口が減っていく中で、女であれ、男であれ、若かろうと、年配だろうと、言葉は悪いが「使える人を使わない」限り、企業に未来などない。

つまり、介護問題をピンポイントで考えるのではなく、出産・育児・思春期になった子供、親の変化などなど、仕事と家庭の両立という、究極のワークライフバランスに取り組む時期に来ている。「家族の価値」を根本的に考えた制度を作る。いや、今ある制度を徹底的に使える、使いやすいものに変えるだけでもいい。

具体的に言えば、フレックス制や時短勤務。出産であれ、育児であれ、親やパートナーが病気のときであれ、介護であれ、理由はなんであれ使える制度。そして、テレビ電話、メールやチャット、VPN環境などのITツールを有効に使って、どこででも働ける働き方。今ある制度、今あるツールを使う。それだけでいい。

実際、私はフリーランスだったことでかなり助かっている。が、その一方で、親のことで脳内が埋め尽くされるようになり、将来の仕事への不安は高まった。一つひとつの目の前の仕事が、次の仕事の“営業”でもあるので、「このままじゃ、やばい。ちゃんとしなきゃ。踏ん張らなきゃ」と、今まで感じたことのない危機感を感じている。

まぁ、私の場合は、そういう働き方を自分で選んでいるのでそれこそ自己責任でどうにかしなきゃなのだが、企業は、介護しながら働いている管理職、子供を持つ女性たち、育児をする男性たちなど、すべて「使える人を使わない」限り朽ちる。企業の救世主は女性だけじゃないはずだし、“今いる人”をどう生かすか? という目線が極めて重要なのだ。

最後に、親の変化に直面して、私が感じているいちばんの問題を書く。

よく「高齢者は入院するとボケる」というが、私の友人の父親も似たような状況になり、病院から「認知症かもしれない」と言われ、病気は治ったにも関わらず、認知症での介護が必要になった。

私の父にもやはり“変化”が起きた。最初の入院で、父とコミュニケーションをとるのが少しだけ難しくなった。

「パパ!」と耳元で話しかけてからじゃないと、会話をしない。話していても、「分からない」と、考えるのをやめることが増えた。入院するまでは好奇心旺盛で、私の仕事にもいろいろと言ってきたのに、元気なときとは180度異なる精神状態に、父は陥ってしまったのだ。父がお世話になっている医師は、とても良心的で、「病院という環境はよくない」と外出や外泊を積極的に許可し、薬も出来る限り減らし、大きな声でゆっくり何度も何度も病状やら今後のことを父に話してくれた。それでも、父はちょっとだけ変わってしまったのだ。

幸い、なんとか今は元に戻りつつあるのだが、「今後入院することになったら……」と考えるだけで恐い。

だがよくよく考えてみれば、高齢者じゃなくても、身体が悪くなり、一日中ベッドに寝て、美味しくない食事を食べていれば精神的ダメージは受けるはずだ。

「○○さん、具合どうですか~?」

「○○さん、体温はかりましたか~?」

「○○さん、血圧はかりますよ~」

「○○さん、お通じはありましたか~?」

と連日、看護師の方から問いかけられ、「はい」「大丈夫です」「ありました」なんて言葉しか発していなきゃ、気分だって落ち込んでいく。

ただ、高齢者のほうが、高齢であるがゆえに体力低下が顕著で、高齢であるがゆえに物忘れが激しくなり、高齢であるがゆえに物事への興味が失われやすい。喪失感もある。

なのに、「認知症」「老人ウツ」「一過性痴呆症」など、高齢者であるがゆえの病気がつけられ、その途端、病人扱いされ、老人扱いされ、薬が処方され、引き続き入院させられ……。

そうやってホントに介護や見守りが必要な状態になっていくんじゃないかと。そうやって、元気だった親たちが、いわゆる「認知症」になっていくんじゃないか、と。そう思うようになったのである。

フランスに駐在していた知人が、「フランスの病院の食事はとにかくウマい!」と話してくれたことがある。日本の病院の食事は、身体にいいものを提供するので、味は二の次、いや、三の次くらいで、あまり美味しくない。

だが、フランスでは「食事の美味しさ」を大切にする文化を背景に、「美味しい物を食べた方が、元気になる」という考え方が、病院にまで普及しているのだという。

「美味しい!」「 面白い!」「 楽しい!」「 うれしい!」という感情を、もっと大切にした病院。病気というマイナスの力に遭遇したとき、プラスの力である「元気になる力」を増やす医療。これこそ難しい、夢物語かもしれないけれども、病院、地域や企業など社会全体で「病院で過ごす時間のQOL(quality of life)」を向上させれば、介護状態を作らないで済むんじゃないか、と。とまぁ、あれこれ、考えるわけです。

健康社会学者(Ph.D)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』話題沸騰中(https://amzn.asia/d/6ypJ2bt)。「人の働き方は環境がつくる」をテーマに学術研究、執筆メディア活動。働く人々のインタビューをフィールドワークとして、その数は900人超。ベストセラー「他人をバカにしたがる男たち」「コロナショックと昭和おじさん社会」「残念な職場」「THE HOPE 50歳はどこへ消えたー半径3メートルの幸福論」等多数。

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