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英国「飛び込み王子」のカミングアウト

木村正人在英国際ジャーナリスト
トム・デイリーさんのカミングアウトを1面で取り上げる英メディア(筆者撮影)
トム・デイリーさんのカミングアウトを1面で取り上げる英メディア(筆者撮影)

「飛び込み王子」の愛称で日本でも知られるロンドン五輪男子10メートル高飛び込みの銅メダリスト、トム・デイリーさん(19)が2日、動画投稿サイト、Youtubeで男性との交際をカミングアウトし、3日付英各紙の1面で大きく取り上げられた。

14歳で北京五輪に出場、端正なマスクとイルカのように美しい肉体を持つデイリーさんはセレブ顔負けのアイドル的人気を誇る。これまでデイリーさんは女性との交際がタブロイド紙をにぎわわせてきただけに、同性愛のカミングアウトは「青天の霹靂」だった。

しかし、水面下ではハイエナのようなタブロイド紙(大衆紙のこと)の記者がデイリーさんの性的指向を嗅ぎ回り、インターネット上では「デイリーさんは同性愛者?」という憶測が駆け巡っていた。

デイリーさんのYoutubeの再生回数は1日もたたないうちに約428万回に達した。主な性的指向には「異性愛」「同性愛」「両性愛」がある。たとえ人気者のデイリーさんが「異性愛者」でなかったとしても、英国ではそれ自体がニュースにはならない。

英国民の反応は大半が「トムは勇気を持って正直に話した」「コングラッチュレーションズ!(おめでとう)」というものだった。タブロイド紙が興味本位でこのニュースを取り上げていたとしら、世論の厳しい反発にさらされていただろう。

盗聴、賄賂、おとりに潜入取材、特ダネ情報に多額の金銭を提供する慣行など、何でもありの仁義なき英メディアだが、読者の風向きだけには敏感だ。

英国民はなぜ、Youtubeでデイリーさんの告白に耳を傾けたのか。英大衆紙デーリー・メールにデイリーさんの伝記作家チャス・ニューキー=バーデン氏が性的指向をめぐるデイリーさんの葛藤と成長を語っている。

実はロンドン五輪が開幕する数週間前、タブロイド紙の記者がニューキー=バーデン氏に電話をかけてきた。「トムは同性愛者じゃないの?」。ニューキー=バーデン氏は取り合わなかった。デイリーさんをロンドン五輪に集中させる必要があると考えたからだ。

英国の新聞メディアは公式の記者会見でデイリーさんの性的指向をめぐる質問を発するほどバカではないが、舞台裏では国民的アイドルのスキャンダルを探して、舌なめずりしていた。法的規制がほとんどないインターネットの憶測は容赦がなかった。

デイリーさんはこれまでプールサイドで飛び込みの男子選手とじゃれ合う姿がテレビや新聞を通じて報じられていた。その一方で、デイリーさんは複数のガールフレンドと交際していた。

デイリーさんは両性の間で揺れ動く心理について、「これまではメディアにどんな取り上げられ方をしても気にならなかった。しかし、今回は違う。感情を抑えられない」と語った。

今でも女性にはひかれるというデイリーさんは「この春、僕の人生は大きく変わった。僕に幸せと安心感を与えてくれて、最高の気分にしてくれる人が現れたんだ。その人は男性だ」とカミングアウトした。

デイリーさんは高校でひどいいじめにあった。デイリーさんの才能に対するやっかみと同性愛疑惑に対する偏見が背景にはあった。デイリーさんは自由な空気を求めて転校した。

昨年は、デイリーさんと飛び込みのパートナーに対してホモフォビック(同性愛者嫌悪)な書き込みをTwitterに投稿したプロのサッカー選手らが逮捕された。

デイリーさんは最愛の父を脳腫瘍で2011年に亡くしている。デイリーさんは心のパートナーを求めていたのかもしれない。

英紙インディペンデントが「これはニュースにすべきではない。しかし、紛れもないニュースなのだ」と指摘したように、英国でも同性愛に対する偏見や差別は根強く残っている。

偏見と差別を払拭していくためには、デイリーさんのような著名人が正直に胸の内を打ち明けてカミングアウトする社会的なプロセスが欠かせない。

日本では未婚の母として出産をカミングアウトした女子フィギュアスケートの安藤美姫さん(25)の話が大きなニュースになった。騒ぎを封じて競技に専念、ソチ五輪への出場を目指すためだったが、「父親は誰?」と逆に騒ぎが大きくなった。

英国ではデイリーさんの「彼が誰?」なんて誰も気にしない。

新聞・テレビ・ラジオの既存メディアが「理性」、インターネットは「感情のメディア」と言われるが、果たしてそうだろうか。

確かにインターネット空間は匿名性が高く、法的規制が追いつかない。反応する時間が短くなることから、感情が優先する側面は否定できない。しかし、逆に国境や時差の壁がなく、社会の固定観念や偏見にとらわれない自由さがある。

デイリーさんはカミングアウトの媒体として既存メディアではなく、Youtubeを選んだ。スマートフォンに向けて、素直に自分の気持ちを語った。

世界では同性愛への風当たりが厳しくなっている国もある。

ロシアのプーチン大統領は今年6月、18歳未満の青少年に同性愛をPRすることを禁ずる同性愛宣伝禁止法を成立させた。同性愛をめぐる嫌悪殺人も起きている。来年のソチ冬季五輪では、この同性愛宣伝禁止法が大きな論争になるのは必至だろう。

デイリーさんは2016年のリオデジャネイロ五輪で金メダルを目指す。19歳のカミングアウトは社会の成熟度を示す指標になる。そして、強い政治的なメッセージも込められている。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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