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虹は消えた マンデラの死の意味

木村正人在英国際ジャーナリスト

南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃の先頭に立ち、同国初の黒人大統領になったネルソン・マンデラ氏が5日、ヨハネスブルクの自宅で亡くなった。95歳だった。

マンデラは昨年12月から肺感染症や胆石などの治療で入退院を繰り返しており、最近では自宅療養を続けていた。2010年、南アで開かれたサッカー・ワールドカップ閉会セレモニーに参加したのが、公の場に姿を見せた最後になった。

マンデラの人柄と闘争を物語る言葉がある。

「マンデラさんは良い人です。王族とも乞食ともつきあえる人です。ボタ(アパルトヘイト撤廃に頑強に反対した南ア大統領)に言ってやりたいものです。ネルソン・マンデラは思慮分別のある男であって、暴力をふるうような男ではないとね。とても思いやりがあって、正直で、平和を好む人ですよ。マンデラさんが暴力に訴えたのは、わたしが暴力に訴えたのと同じで、好んでそうしたわけではなく、この国の法秩序にぎりぎりのところまで追いつめられたからです」

南ア自由党党員エディー・ダニエルズ(『ネルソン・マンデラ』メアリー・ベンソン著より)

ANC(アフリカ民族会議)とは政治信条を異にする自由党はすでに解散されていた。ダニエルズも、ケープタウン沖のローベン島にマンデラと同じように投獄されていた。

思想信条の異なる人までひきつける人間的な魅力がマンデラをアパルトヘイト闘争のシンボルに押し上げた。

非暴力ではなかったマンデラ

1993年にノーベル平和賞を共同受賞したマンデラは、インドの不服従運動を指導したガンジーや米人種差別撤廃運動家のキング牧師のような非暴力主義者ではない。

アパルトヘイトを打倒するため、20年間に及ぶANCの非暴力抵抗を武力闘争に方向転換する推進力になった中心人物の1人である。

周辺国で独立運動が激しくなった1960年、南アの黒人居住区シャープビルで、抗議活動を行なっていた群衆に警官75人が700発以上の弾丸を撃ち込み、69人が死亡、180人以上が負傷した。

女性や子どもも背中から撃たれていた。

非合法化されたANCはシャープビル虐殺事件をきっかけに、マンデラに武力闘争組織「民族の槍」をつくる役割を与えた。マンデラはその最高司令官に指名され、国外で活動した。

「民族の槍」は、「政府は運動の穏やかさを弱さと解した。民族の非暴力方針は、政府が暴力をふるうことに対する青信号と受けとられた。われわれは、この国の人民解放のための新しい道をたどって出撃する」と宣言した。

南アを内戦ぎりぎりにまで追い込めば、政府もアパルトヘイトをあきらめる。それが武力闘争の狙いだった。

南アに帰国したマンデラは62年に逮捕され、国家反逆罪で起訴される。

獄中エピソード

マンデラの弁護団を務めた英国のジョフィー上院議員からお話をうかがったことがある。

63年、プレトリア拘置所。マンデラは死刑を宣告される見通しだった。マンデラは自分の命と引き換えに、アパルトヘイトを法廷に引きずり出す覚悟だった。

国際社会はアパルトヘイトの実態を知らず、ANCの武力闘争は独立運動の一つだと思い込んでいた。マンデラは独立のためではなく、南ア国民の自由のために闘っていた。

「たとえ死刑を宣告されたとしてもそれが指導者の役割だとマンデラは話した」とジョフィー氏は語った。マンデラは罪状を否認するのを拒んだため、弁護活動は困難を極めた。

マンデラは半ズボンにみすぼらしい囚人服を着て、裂けたサンダルをはいていた。弁護団は立派なスーツとネクタイを着用していた。

弁護団がマンデラと面会するとき、警官が面会室の外に立って、耳をそばだてていた。

弁護団は人の名前を仮名にして、実際の名前をメモでマンデラに示した。メモはすぐに灰皿で燃やした。

警官が気づいた。

マンデラが同じ裁判の被告ムベキ(ムベキ前大統領の父)にメモを渡し、ムベキが他の被告に渡し、メモがマンデラの手元に戻ってきた。

その時、警官が扉を壊して面会室に押し入り、メモを取り上げた。

そこにはマンデラの字で「スワインナプール(警官の名前)ってハンサムな男と思わないか」と書かれていた。

その後、警官が面会室に入ってくることはなかった。

マンデラはロンドンを訪れるたび、聴衆に「彼が僕を27年間、牢獄に押し込んだ張本人だ」とジョフィー氏を紹介する。

弁護士だったマンデラは死刑にならずに済んだのはジョフィー氏らのおかげだと感謝している。

ジョフィー氏は「マンデラはカリスマ性をそなえているが、ざっくばらんな性格。どんな苦境に追い込まれても深刻になることはなかった」と振り返った。

アパルトヘイトの弱点

死刑判決を免れたマンデラは終身刑に服した。獄中にいる期間が長くなればなるほど、マンデラはアパルトヘイトの非人間性を浮き彫りにする象徴になった。

南アのデクラーク大統領は90年2月、マンデラら政治犯の釈放を発表し、ANCの非合法化を解いた。マンデラはケープタウン郊外の刑務所から出て、ウィニー夫人(当時)とともにこぶしを高く突き上げて行進した。

政治的対立で毎年2万人が殺されていたため、ANC内には武力放棄に反対する声が多かった。

しかし、エスカレートする暴力に対し、欧米メディアは「どうしてマンデラは暴力を放棄しないのか」(米紙ニューヨーク・タイムズ)と非難した。

ANCが55年に採択した自由憲章には「南アは、白人、黒人を含めて、そこに居住するすべての人民に帰属する」と明記されている。

マンデラの精神的支柱は自由憲章だった。マンデラは民族主義ではなく自由主義を信じていた。デクラークが交渉のテーブルに着いた今、武力はもう必要ない。

基本的人権を認めさせれば、アパルトヘイトは崩壊するという信念をマンデラは持っていた。武力闘争の放棄は、マンデラにとって理想主義というより目標達成のための現実的な選択だった。

しかし、当初の武力闘争路線を継続したウィニー夫人と袂を分かつという苦渋の決断をマンデラは強いられた。白人への復讐は必要ない。マンデラは「許し」を訴え、南ア全土を覆う暴力を鎮めた。

91年、南アはアパルトヘイトを廃止、94年に全人種選挙を実施してマンデラを大統領に選出する。

虹の国

95年、ヨハネスブルクでラグビー・ワールドカップ決勝戦が行われた。南ア代表スプリングボクスとニュージーランド代表オールブラックスを見ようと、6万5000人の大観衆が詰めかけた。

アパルトヘイトに対する制裁で南アは国際大会から排除されていたが、復帰が認められた。しかし、ラグビーは白人のスポーツ、アパルトヘイトの象徴とみられていた。

ラグビー選手としては小柄で「黒い真珠」と呼ばれた快速ウイング、チェスター・ウィリアムズ氏は南アのラグビー史上初の黒人代表選手。残り25人はみな白人だった。

ウィリアムズ氏と主将だったフランソワ・ピナール氏から決勝戦について取材したことがある。

マンデラは試合前に更衣室を訪れ、「さあ、祖国のために戦おう」と激励した。そして、ウィリアムズ氏に「W杯の栄光は君にかかっている」と耳打ちした。

ウィリアムズ氏は「試合前、人種に関係なく観衆が総立ちになって新しい国歌を歌った。私も大声で歌った」という。

新しい国歌は、黒人運動で盛んに歌われた「神よ、アフリカに祝福を」(コサ語、ズールー語、ソト語)と旧国歌「南アフリカの叫び」(アフリカーンス、英語)を1つに編曲してつくられた。

劣勢が伝えられた南アは15-12で大接戦を制し、初出場で初優勝という偉業を達成した。

マンデラは、白人支配の象徴とされたスプリングボクスのジャージーを着て、選手の中に現れた。胸元のボタンを上まできちんととめる律儀さを見せた。

ピナール氏は「言葉にできないほど強烈な幸福感だった。翌朝、起きると南アは一つになっていた」と振り返った。

マンデラはアフリカ民族主義ではなく、法のもとでは1人ひとりが自由で平等であるという「レインボー・ネーション(虹の国)」の理念を最高の舞台で見事に演出した。

冷酷な現実

マンデラ釈放から23年。南ア経済は、世界金融危機の影響を受けた2009年こそ国内総生産(GDP)がマイナス2%成長になったものの、04年以降、毎年3~6%の力強い成長を見せている。

人種差別の解消は進んだものの、アパルトヘイトの負の遺産はなかなか解消されない。そればかりか新たな格差も生じている。

失業率は24%超。貧困家庭の子どもは十分な教育を受けられず、就職できない。強盗など犯罪でしか生活の手段を見いだせないのが現実だ。

社会格差を表す指数である世界銀行のジニ係数も南アは09年で63・1%と世界ワースト4位。米国でさえ1対100の平社員とCEO(最高経営責任者)の所得格差は南アでは1対200といわれている。

アパルトヘイト時代は人種差別に基づいていた富の不平等配分が、黒人の社会的地位によって拡大再生産されているのだ。

国連薬物犯罪事務所(UNODC)の10年統計では、南アの意図的殺人の発生件数は世界ワースト7位。人口10万人当りの発生率は世界ワースト12位だ。

英BBC放送の10年5月当時の報道では、1日平均50人が殺害され、年間の殺人件数は約1万8000件。このうち8割は顔見知りの犯行だ。殺人未遂も約1万8000件発生している。

アパルトヘイトが撤廃された直後の1995年当時に比べると殺人の発生件数は約44%も減少したが、それでも英国の年間殺人件数662件に比べると、南アの同1万8148件は突出している。

屋内強盗の発生件数は1万8438件。傷害の意図を持った暴力事件は20万3777件に達していた。

ヨハネスブルクを拠点に活動する英国人ジャーナリスト、ブリッジランド氏は「都市の住民は電気さくに囲まれて暮らしている。自動車や携帯電話を盗むため日常的に殺人が行われている」という。

ムガベ政権の圧政を逃れて南アに流入した隣国ジンバブエの労働者300万人を黒人貧困層が襲撃する事件も少なくない。

アパルトヘイト時代よりは格段にマシとはいうものの、こうした混乱に拍車をかけているのがANCと政治の劣化である。

マンデラは自伝で「山の頂に到達したと思ったら、登らなければならない山がまた、目の前に現れた」と記している。

マンデラにはもう、山を登ることはできない。マンデラの死は、南アがユーフォリアから覚めて、現実を直視する時が来たことを物語っている。

(おわり)

参考図書:『ネルソン・マンデラ』(メアリー・ベンソン著、新日本出版社)

『南アフリカの衝撃』(平野克己著、日経プレミアシリーズ)

『Long Walk to Freedom』(Nelson Mandela)

産経新聞ロンドン支局長時代に取材したメモをもとに執筆しました。

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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