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リトビネンコ暗殺 妻の一念、政府を動かす 公聴会でプーチン大統領を追い詰めろ(動画あり)

木村正人在英国際ジャーナリスト

ロシア政府の関与示す証拠は開示されるか

元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏(当時43歳)が2006年、ロンドンで放射性物質ポロニウム210により暗殺された事件で、英国のメイ内相は22日、ロシアへの外交的配慮から拒否してきた公聴会を設置すると発表した。

事件から7年半余りにわたって英政府が封印してきたリトビネンコ氏暗殺事件の資料の中には、ロシア政府が関与していることを決定づける証拠も含まれている。

公聴会でも、こうした証拠は開示されない可能性が残されているが、議長を務める判事は非開示の証拠を考慮に入れて判断を下すことができるという。

英政府が突然、方針を転換した背景には今年2月に高等法院が公聴会開催を求めるマリーナさんの訴えを支持したことに加え、ウクライナのクリミア編入や親ロシア派勢力に地対空ミサイルを供与した疑惑に関連してロシアのプーチン大統領に圧力をかける狙いがあるのは明らかだ。

ロシア政府による妨害、英政府の非協力など幾多の障害を乗り越えて、ひたすらリトビネンコ氏暗殺の真相究明を求めてきた妻のマリーナさん(52)は同日、記者会見した。

「これまでいろいろな困難がありました。リトビネンコ氏が書き残した詩を見つけたとき、勇気づけられましたか」という筆者の質問にこう答えた。

「詩は夫がロシアで投獄されていたときに書いていたものです。詩を読み返すたび、勇気づけられました。夫は友人やロシアのことを書き綴っていました」

「私はロシアで生まれ、人生の大半をロシアで過ごしました。公聴会はロシアを攻撃するのが目的ではありません。これからロシアの状況を変えるのです。今のロシアは(私たちが愛した)ロシアではありません」

6年目の「自由記念日」に起きた悲劇

マリーナさんは「国家テロで英国民のサーシャ(リトビネンコ氏の愛称)が殺されたかどうかをはっきりさせたい」と訴え続けてきた。

リトビネンコ夫妻が英国に亡命してちょうど6年目の記念日にあたる06年11月1日。10月、リトビネンコ氏は英政府から市民権を認められたばかり。マリーナさんは手料理を用意して、リトビネンコ氏と2人で「自由の門出」をささやかに祝った。

しかし、その夜、悲劇が起きる。リトビネンコ氏は体調の不良を訴え、同月23日に急死する。血液中からポロニウム210が検出され、ロンドン警視庁はリトビネンコ氏と会っていた旧ソ連国家保安委員会(KGB)元職員アンドレイ・ルゴボイ氏を容疑者と断定する。

ルゴボイ容疑者はロシアに逃亡、ロシア国家会議(下院)議員に当選した。ロシア政府は「憲法上、ロシア人を外国に引き渡すことはできない」として英政府の身柄引き渡し要求を拒否し続けている。

マリーナさんとはもう7年近くの付き合いになる。大阪出身の筆者宅に息子のアナトリーさんと一緒に来てもらって、自慢のタコ焼きパーティーを主催したこともある。タコがあまり好きではないマリーナさんは「タコの代わりにチョコレートを入れた方が良い」と笑った。

マリーナさんはダンスの名人なのだ。「出会った時の彼ったら、本当に性急だった。すぐに自分のものにしないと私がどこかへ行ってしまうとでもいうような感じだった」

「私も息子もタケシ・キャッスル(TBS番組『風雲!たけし城』)の大ファンなの。息子は日本のこと大好きよ!」

「息子がアンソニーという英国名より祖国の名前アナトリーを使うと言ってくれた」

筆者のガールフレンド(現在の妻)が乳がんで手術を受け、抗がん治療で苦しんでいるとき、「あなたがしっかりしないといけないのよ」と励ましてくれた。

ポロニウム210が指し示した犯人は

事件当時の状況を尋ねると、マリーナさんの眼はみるみる充血し、ほほが紅潮する。屈強だったリトビネンコ氏が無残に朽ち果てていく様子が脳裏に浮かんでくるのだろう。

ロシア側から情報提供を受けた一部の英メディアは事件当時、リトビネンコ氏が英情報局秘密情報部(MI6)から金銭を受け取っているとか、あたかもポロニウム210の密輸に絡んでいるような記事を書きたてた。

マリーナさんはそれが悔しくて仕方なかった。

マリーナさんの話を聞くと、リトビネンコ氏はFSBのスパイというより、重大犯罪の捜査官といった方が適切だ。MI6との関係といってもロシア・マフィアに関する情報提供やアドバイスが主で、隠し立てするようなものではない。

ロンドン警視庁がポロニウム210の跡をたどると、ルゴボイ容疑者が宿泊していたホテルの部屋から始まり、リトビネンコ氏と会ったロンドンの事務所やホテル、同席した元ソ連軍将校で企業コンサルタントのドミトリ・コフツン氏へと続いていた。

ルゴボイ容疑者はポロニウム210を入れた容器の取り扱いを誤ってホテルの部屋の床に落としていた。ロンドン警視庁や英政府がロシア政府にルゴボイ容疑者の引き渡しを求めたのは、絶対に揺るがない証拠を握っているからだ。

ロシアとの関係改善を優先させたキャメロン英政権

マリーナさんによると、リトビネンコ氏がFSB長官だったプーチン氏に内部の不正を直訴した直後から、身に覚えがまったくない嫌疑が次々とリトビネンコ氏にかけられ、ついには投獄されたという。

2011年9月、キャメロン首相が英国首脳として6年ぶりにロシアを訪問。その後、プーチン大統領の返り咲きが確実になった。キャメロン首相は対ロシア関係の改善を優先させ、リトビネンコ事件の真相を封印してしまった。

死因審問を通じて事件の真相究明を試みたマリーナさんを支援してきたロシアの政商でプーチン大統領の政敵ボリス・ベレゾフスキー氏が昨年3月、自殺。その直前、マリーナさんはベレゾフスキー氏から「死因審問の弁護士費用を支援することができなくなった」と告げられていた。

英政府がリトビネンコ事件の証拠を非開示としたため、死因審問の検死官は昨年5~6月、「(非開示の証拠を判断材料にできる)公聴会の方が妥当」と判断。これを受けて、マリーナさんが高等法院に公聴会設置を申し立てていた。

リトビネンコ事件の証拠の中にはロシア政府の関与を裏付ける証拠が含まれている。ルゴボイ容疑者らが残したポロニウム210の足跡がロンドンからモスクワの政府関連施設につながっていると筆者はみている。

この証拠が開示されるかどうかは、これからのプーチン大統領の出方次第だ。

公聴会開催を受け、記者会見するマリーナさん(筆者撮影)
公聴会開催を受け、記者会見するマリーナさん(筆者撮影)

マリーナさんはこの日の記者会見で、「私はロシアを攻撃するつもりはない。これは犯罪だ。だから真相が知りたい」と何度も繰り返した。妻の一念がついに英政府を動かし、プーチン大統領を追い詰めようとしている。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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