産経新聞と朴槿恵大統領のチキンゲームがもたらす悲劇
産経前ソウル支局長の起訴は無理筋
韓国のソウル中央地方検察庁は8日、朴槿恵大統領の名誉を毀損したとして情報通信網法を適用し、加藤達也前ソウル支局長を在宅起訴した。加藤前支局長のご家族は心配されていることだろう。そして、この事件が日韓関係を一段と悪化させることを憂慮する。
読売新聞の報道では、韓国では批判的なメディアに対し、当局が民事訴訟を起こしたり、刑事告発したりするのが常態化しているそうだ。韓国の言論仲裁委員会によると、今年6月までに国や自治体が報道機関に訂正や損害賠償を求めた件数は101件。
中でも朴政権は大統領個人の名誉に関わる報道に過敏に反応し、4月の旅客船「セウォル号」沈没事故以降、韓国紙ハンギョレを名誉毀損で訴えるなど少なくとも5件の民事訴訟を起こしているという。しかし、外国の新聞記者が名誉毀損で起訴されるのは異常を通り越した事態である。
朝鮮日報の朴正薫デジタル担当副局長は3日付で「産経支局長を処罰してはならない理由」というコラムを掲載している。
コラムは「産経支局長の態度がいくら腹立たしくても、起訴まで持ち込むのは無理だ。国民感情を満足させられるかもしれないが、失うものの方が大きいからだ」と指摘している。
朴正薫デジタル担当副局長によると、産経前支局長の記事は虚偽事実の流布による名誉毀損罪に該当するものの、裁判所の判例は、たとえ虚偽であっても「事実と信じるに足る相当の理由」があれば刑事責任は問われないという。
産経前支局長は、朝鮮日報の記者コラム「大統領をめぐるウワサ」を引用して、セウォル号沈没事故が発生した当日、朴大統領が元秘書室長と会っていたのではないかというウワサ話を報じたが、記事を書いた時点でウワサが虚偽であると認識していたとは考えられない。
ウワサがウソとわかっていれば、朝鮮日報の記者もコラムを書かなかったし、産経前支局長も記事にはしなかったはずだ。挙証責任を負う検察側が虚偽と知りながら報道したと立証するのは難しい。
朴正薫デジタル担当副局長は、「大統領の恋愛」をうんぬんした薛勲国会議員も取り調べないとバランスが取れず、公正性を欠くとも指摘している。
今回の在宅起訴で、日本国内で極端に悪化している反韓感情がさらにエスカレートする恐れがあり、国際社会はすでに「言論の自由」の侵害として朴政権の体質に強い懸念を示している。こうした状況は韓国にとって何のプラスにもならない。
スケープゴート
そもそも今回の問題は「言論の自由」「報道の自由」というより、従軍慰安婦問題や領土問題で韓国批判を強め、嫌韓世論をあおる日本メディアと、それに過剰反応した朴大統領のチキンゲームがもたらした悲劇だ。在宅起訴された産経前支局長は見せしめのためスケープゴートにされた格好だ。
産経新聞の熊坂隆光社長は処分の撤回を求め、「日本はじめ民主主義国家各国が憲法で保障している言論の自由に対する重大かつ明白な侵害である」という声明を発表した。
「韓国当局が一刻も早く民主主義国家の大原則に立ち返ることを強く求める。今後も産経新聞は決して屈することなく、『民主主義と自由のためにたたかう』という産経信条に立脚した報道を続けていく」と宣言した。
強硬な韓国当局の措置に対して、産経も一歩も譲らない構えだ。これから裁判闘争を徹底的に戦い抜くとなると、加藤前支局長が日本に帰国できる日はいつになるのかわからない。朴政権が続く間は帰国はまず実現しないだろう。気の毒というほかない。
インターネットに載せたウワサ話の記事で一社員記者を異国での起訴という窮地に追いやり、「言論の自由」を大上段に振りかざして事をここまで荒立てることを「記者の勲章」とでも言うのだろうか。
朝鮮日報によると、韓国の検察当局は起訴の理由について「産経前支局長は取材の根拠を示せなかった上、長い特派員生活で韓国の事情を分かっていながら、謝罪や反省の意思を示さなかったという点を考慮した」と説明している。逆に言えば反省の色を示せば、猶予の余地はあったということだ。
「歴史者の当事者」になった報道機関
「歴史の記録者」であるべき報道機関が「歴史の当事者」になってしまっては客観的な報道は期待できない。しかも今回の在宅起訴は、このまま日韓関係が行くところまで行ってしまえば、未来の歴史教科書に刻まれる恐れが十分にある。
筆者は約2年前に産経新聞を退職してから、韓国や中国との関係改善に取り組む若者たちと交流する機会が増えた。こうした若者たちがよく引用するのが「言論NPO」の世論調査だ。
言論NPOは、『論争 東洋経済』の工藤泰志元編集長の呼びかけで2001年、日本のメディアや言論のあり方に疑問を感じた有識者が日本の課題について建設的な議論や対案を提案できる言論空間をつくろうと活動を始めた特定非営利活動法人だ。
言論NPOが韓国のシンクタンク、東アジア研究院と今年7月に発表した第2回日韓共同世論調査によると、相手国に対する印象は日本では「悪い印象」が昨年の37.3%から今年は54.4%に増えた。韓国では76.6%から70.9%に下がったものの、依然として高止まりしている。
良くない印象を持っている理由のトップは「歴史問題」で日本が73.9%、韓国が76.8%。2番目が「領土問題」で日本が41.9%、韓国が71.6%。従軍慰安婦問題が両国の間の抜けないトゲになっていることがわかる。
「相手国に報道・言論の自由はあるか」の問いには、日本側では「ない」「実質的に規制されている」という回答が51.6%、韓国側では55%にものぼっている。その一方で、韓国では50.9%が自国メディアが日韓関係に関して客観的で公平は報道はしていないと感じていた。
日韓両国とも8割以上が相手国に知り合いはいないと答え、9割以上が自国のニュースメディアから情報を得るなど、実体験ではなくメディアの報道が相手国への好悪の感情を形成していることがうかがえる。
7月にソウルで「第2回日韓未来対話」を開いた言論NPOの工藤代表は自らのブログで「これまでの日韓問題は、相手を責めるだけの議論が多かったが、自分を見つめる傾向が出ている。この変化を私たちはしっかりと理解する必要がある」と指摘している。
今回の在宅起訴でその変化が消えてしまうことを筆者は心配する。
日韓の首脳間で対話ができない状態が続いているからこそ、両国のメディアは国民に対して相互理解を促す努力をすべきだ。日本がまずやらなければいけないことは、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチをあらゆる法令を適用して即刻取り締まり、国内で近隣諸国への蔑視や嫌悪が増殖するのを防ぐことだ。
今、日本は非常に重要な歴史の転換点に立っている。国民の一人ひとりが「歴史の当事者」であることを自覚し、近隣諸国との関係をさらに悪化させる方向に動くのか、それとも改善させるために努力を惜しまないのか、を考える必要がある。新聞メディアが好戦ムードをあおった戦前・戦中の歴史から私たちは少しは学ぶべきだ。
第3代米大統領トーマス・ジェファーソンは報道の自由を強く支持したが、その一方でバランスのとれた報道を求めている。
「新聞をなくして政府を残すべきか、政府をなくして新聞を残すべきか、そのどちらかを選ばなければならないとしたら、私はためらうことなく後者を選ぶだろう」「わが国の新聞がたどってきた堕落した状態、執筆者たちの悪意ある言動、下劣な品性、偽りに満ちた精神を遺憾に思う」
朴大統領はジェファーソンの言葉を思い起こし、民主主義の礎をなす「新聞の自由」を尊重してほしい。一刻も早く加藤前支局長の起訴を取り下げることを強く求めたい。
(おわり)