「ドイツを見習え」の虚構 ユーロがあぶり出すギリシャとドイツの戦後問題
ディストモ村の殺戮
[ディストモ発]アテネから長距離バスに乗ってリバディア経由でディストモ村に向かう。乗り継ぎ時間も入れて約3時間。24日昼過ぎ、パルナッソス山に見下ろされるディストモ村に着いた。
ナチス・ドイツの武装親衛隊(SS)が第二次大戦・ノルマンディー上陸作戦直後の1944年6月10日、抵抗組織をかくまったとして生後2カ月の乳児から86歳の老人まで218人を虐殺した悲劇の村である。
ディストモの人口は現在、約3千人。ディストモ虐殺記念館のエフィ・キミアさん(61)=元ジャーナリスト=の伯父は当時、ディストモの村長だった。
キミアさんは「大戦中、パルナッソス山とエリコナス山に左派と右派の抵抗組織が潜んでいました。ある日、SSの将校がやって来て、村長だった伯父に『みんなを広場に集めろ』と命じたのです」と語り始めた。
ギリシャ人の妻を持ち、ギリシャ語を話すSSの将校は「10人のパルチザンを差し出せ」と言った。村長は「私はパルチザンも共産主義者も知らない。協力もしていない」と首を横に振った。
将校は「10人の名前を言え」と脅す。村長は「どうしても10人が必要なら私と両親、3人の兄弟、神父を連れて行きなさい」と引き下がらなかった。将校は引きあげた。
別の日、SSを率いてリバディアからディストモに向かって抵抗組織の掃討作戦を行い、12人のパルチザンを捕らえた。
しかし、パルチザンの反撃で撃たれた将校はディストモにたどり着き、「水をくれ」とあえいだ。村の女性が持ってきた水を飲み干すと、「この女を除いて村人を皆殺しにしろ」と言い残して死んだ。
棚上げされた戦後賠償
SSにも被害が出ていた。ディストモ村の一軒一軒の玄関を蹴破って、SSは機関銃を乱射した。「銃剣で妊婦の腹を割いて、胎児を殺したと生存者が証言しています」とキミアさんは目を見開いた。
SSの中にいたオーストリア兵は玄関の扉に捜索済みの「バツ」を大きく描き、犬や猫を撃ち殺した血で自分の軍靴を汚して村民の生命を救った。218人が殺されたが、約1千人は虐殺を逃れたという。
村長は3カ月後、左派の抵抗組織からSSに情報を漏らしたと疑いをかけられ、谷底に突き落とされて亡くなった。
キミアさんの父親は生き延びたが、村長を含め8人兄弟のうち4人がSSの虐殺や抵抗組織の粛清で命を失った。ナチスだけでなく、パルチザンの左派と右派の闘争「兄弟殺し」がギリシャを巻き込んでいく。
戦後、ドイツは東西に分断され、平和条約を締結できなかったため、「国家間賠償」は延期、事実上放棄された。敗戦国ドイツに支払い切れない懲罰的な賠償を課し、ナチスの台頭を招いた第一次大戦の反省からだ。
1990年に東西ドイツが統一された際の2プラス4条約もドイツへの賠償請求権を認めていないというのがドイツ政府の立場だ。
「ドイツはギリシャの中央銀行から奪った金塊や虐殺に対し賠償する、東西ドイツが一つになったら支払いますと約束してきました。東西が統一したら今度は金融システムが1つになるまで5年待って下さいと言いました。しかし何も起きませんでした」
キミアさんは語気を強めた。金塊は今では10兆6000億円相当の価値があると報じられている。
95 年、ディストモ村の虐殺被害者遺族250人超が生命・財産の損害賠償を求めてギリシャ裁判所に提訴した。「ドイツ人の弁護士10人が支援してくれました」とミキアさんは振り返る。
第1審リバディア裁判所は2年後、「戦争犯罪は国家の主権的行為ではない」として、主権国家は他の国家の裁判権に属さないという「主権免除」を否定。加害国に対する戦争被害者個人の直接請求権を認める歴史的な判決を言い渡した。
「ドイツに見習え論」の虚構
ギリシャ最高裁も地裁判決を支持したが、ギリシャ司法相は判決の執行に必要な署名を行わなかった。被害者遺族はドイツの裁判所にも訴えを起こしたが、ことごとく退けられる。
08年、イタリアの裁判所がギリシャ裁判所の判決に基づきイタリア国内のドイツ資産を差し押さえることを認めるが、ドイツはハーグの国際司法裁判所(ICJ)に提訴。12年に主権免除が認められる。
ひと言で言えば、ドイツは外国の裁判権には属さないということだ。
一方、ドイツはナチス時代の強制労働者への補償を行うため財団「追憶と責任、そして未来」を通じ、07年の終了まで、ユダヤ人やポーランド人の生存者やその遺族ら世界98カ国の約170万人に総額44億ユーロ(現在の為替レートで約5800億円)が支払われた。
防衛省防衛研究所の庄司潤一郎・戦史研究センター長の論文「『過去』をめぐる日独比較の難しさー求められる慎重さ」によれば、サンフランシスコ講和条約に基づき戦争中の行為について「国家間賠償」を行った日本に対し、ドイツではユダヤ人大虐殺などナチスの不正を対象に人道的見地から「補償」が行われた。
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となる」というヴァイツゼッカー大統領の戦後40年演説はあまりにも有名だが、際限のない賠償・補償請求を回避するため、ドイツは「謝罪」を行わず、人道的立場を貫いている。
しかし、ギリシャに対して「法的責任」も「道義的責任」も認めていない。
キミアさんは「私たちはドイツの次世代を追及するつもりはありません。しかし、ディストモ村の惨劇は今も私たちの胸に刻まれています。ドイツが金塊や虐殺に対する賠償を行っていたら、今のような危機に苦しんでいなかったはずです」と言う。
ドイツのギリシャ占領は「ドイツ人はギリシャ人の靴ひもまで奪っている」(ムッソリーニ)と言われるほど過酷を極め、飢餓で20万~30万人が死亡した。ギリシャ人の悲惨な記憶が今のユーロ問題にも複雑な影を落とす。
(おわり)