都会の疲れを農村で癒やそう グリーン・ツーリズムでまちづくりに取り組む岩手県遠野市
東北発上野行きの就職列車
[岩手県遠野市発]東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県の将来推計人口は国立社会保障・人口問題研究所によると、下のグラフのようになる。3県とも同じようなペースで人口減少が進んでいく。
柳田國男の『遠野物語』で知られる岩手県遠野市(人口約2万8800人)は、農村で自然、文化、地元の人たちとの交流を楽しむ滞在型のグリーン・ツーリズムを通じてまちづくりに取り組んでいる。
「戦後、金の卵と呼ばれて中学を卒業すると東北から東京に集団就職しました。東京への一極集中が進みました。これからは大都会と地方のひずみを直し、お互いに交流を進めながら日本をバランス良く成長させる必要があります」
特定非営利活動(NPO)法人「遠野山・里・暮らしネットワーク」の菊池新一会長(66)は語る。菊池さんが遠野市の営農振興課に勤めていた1995年、同NPO法人の会長(当時)が「農家民宿をしたい」と言い出した。その一言が遠野市のグリーン・ツーリズムのきっかけになった。
グリーン・ツーリズムのポイント
92年に農水省がグリーン・ツーリズムという考え方を導入したものの、農家を民宿として使うにはいくつもの規制の壁があった。それより遠野市には『遠野物語』にちなむカッパ淵はあるものの、これと言った観光名所はない。
菊池さんが中心になって当初、7~8人のグループで「遠野グリーン・ツーリズム研究会」を立ち上げた。菊池さんは仲間と英国やフランスやドイツ、イタリア、スイスに視察に出かけた。欧州がグリーン・ツーリズムの本場だったからだ。
グリーン・ツーリズムは自然との共生や持続可能な地方を目指して、都会の生活者に農山漁村の、ありのままの暮らしを「体感」してもらうのが目的だ。「英国の農家でおじいさん、おばあさんがわが村わが町に大きな誇りを持っていることにカルチャーショックを受けました」と菊池さんは振り返る。
菊池さんらに対して英ブリストル大学のバーナード・レーン教授(当時)はグリーン・ツーリズムの条件としていくつかの点を挙げた。
(1)教育水準の高さ
旅行代理店が企画する団体旅行より自分で考えて行動することを好む傾向が国民の間に広がっていること。
(2)歴史遺産への関心
都会の生活者が農山漁村に残る生活の知恵や伝統に高い関心を持っていること。
(3)余暇と所得の向上
余暇時間が増えたのに伴って、欧州では短い休暇は農村で過ごすケースが増えている。
(4)情報網と交通網の発達
高速道路や鉄道、航空便が整備され、どんなに遠い小さな村にも簡単にアクセスできるようになった。「遠い」ことが逆にセールスポイントになる可能性が出てきた。
(5)健康への関心
農村で森林浴を楽しみ、新鮮な空気を吸うことでリフレッシュしたいと思う人が増えている。
(6)農村の衰退
農業を取り巻く環境が厳しくなって、農家は多角的な経営を求められている。
日本でもできる
「レーン教授は日本のことを話しているのではないかと思いました」と菊池さんは言う。小泉政権時の規制緩和で岩手県でも農家民泊実施の基準がつくられた。今ではほぼ自由に農家にホームステイできるようになった。
筆者が感心したのは自動車免許の合宿とグリーン・ツーリズムを組み合わせたプログラムだ。生徒数の減少で地元の自動車学校が閉鎖の危機に追い込まれたとき、菊池さんが20日間のグリーン・ツーリズム型免許合宿を発案した。
教習の空き時間は乗馬を楽しんだり、農家で農業体験をしてもらったりする趣向だ。運転免許を失効させてしまった筆者が「申し込めますか」と尋ねると、菊池さんは「予約待ちでいっぱいです」と表情をほころばせた。
遠野市では農村に負担にならない形で修学旅行生やワーキングホリデーを受け入れている。遠野の人たちとの触れ合いを通じて移住を希望する人も増えてきた。菊池さんは縄文時代から伝わる「わら細工」の伝承も名人の父の協力を得てグリーン・ツーリズムの中に取り込んだ。
山に隔てられた遠野と三陸
東日本大震災後で津波被害を受けた三陸まで車で約1時間の遠野市は、過去の津波災害でも後方支援の要になってきた。
明治29 年6月15日夕、三陸沖で発生したマグニチュード 8.2の地震による「明治の三陸大津波」。2万人を超える犠牲者・行方不明者を出した。
昭和8年3月3日未明に発生した釜石東方を震源とする震度 5 程度の地震による「昭和の三陸大津波」。3千人余が死亡・行方不明となった。
昭和35年5月24日早朝のチリ地震津波は北海道、三陸などを中心に死者・行方不明者139人の被害を出した。
「遠野は2年か3年に1度、山背(夏、特に三陸地方に吹く冷湿な北東風、長く続くと冷害の原因となる)による凶作が襲ってきたと言われています。一山越えた三陸には凶作はありません。しかし、遠野の人々は山を越えて海には行きませんでした」
菊池さんは東日本大震災後、被災地支援で何度も何度も三陸に足を運んだ。「遠野山・里・暮らしネットワーク」も後方支援でフル回転した。菊池さんは被災者と話をするたび、三陸の人たちは海とともに故郷を守ってきた人たちだと思い知らされた。
「三陸の人々は数十年に一度襲ってくる津波で生命や財産を失いました。一山越えた遠野には津波は来ません。でも三陸の人が山を越えて遠野に来ることはありませんでした」
限界集落からスタートすれば良い
菊池さんは語る。「地域にはそれぞれ歴史と伝統があります。遠野にも縄文時代から続く6千年の歴史と伝統があります。しかし、日本ではこの200年の間に7~8割の人たちが都市で暮らすようになりました」
「限界集落という言葉がありますが、開拓者は何もない所にやってきて住み始めます。何も悲観することはありません。そこからスタートすれば良いのです」
遠野市の人口は2035年には2万人を割ると推計される。日本の都会生活者が農村暮らしの魅力に気づくのは果たしていつだろう。
(おわり)