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アイデンティティー政治の恐怖 女性議員殺人男は「反逆者に死を、英国に自由を」を名乗った

木村正人在英国際ジャーナリスト
コックスさんの死を悼み、手向けられた花束(ウェストミンスター前で筆者撮影)

「ブリテン・ファースト!」

欧州連合(EU)残留を呼びかけていた労働党の女性下院議員ジョー・コックスさん(41)が殺害された事件で、起訴された男(52)が18日、ウェストミンスター下級裁判所に出廷し、人定質問で「私の名前は反逆者に死を、英国に自由を、だ」と名乗りました。

殺害されたコックスさん(ロンドンの自宅のボートハウスで、Brendan Cox)
殺害されたコックスさん(ロンドンの自宅のボートハウスで、Brendan Cox)

事件を目撃した男性は英紙ガーディアンに「男は『英国第一(ブリテン・ファースト)!』と叫んでいた」と証言。車中から男がコックスさんに近づいてくるのを見た男性(77)は犯行を止めようとして腹部を刺されました。命に別状はありません。

「ブリテン・ファースト」と、EU離脱派が掲げていたスローガン「英国を再び偉大な国に」には共通項があります。英国とは何か、英国人とは誰かというアイデンティティーを問いかけたことです。

米大統領選の共和党候補者選びで指名獲得を確実にした不動産王ドナルド・トランプ氏は「アメリカ・ファースト」を、オーストリア大統領選で当選しそうになった右翼ポピュリズム政党・自由党のノルベルト・ホーファー氏も「オーストリア・ファースト」を声高に唱えました。

英国のEU離脱派は「ブリテン・ファースト」を唱えていたわけではありませんが、アイデンティティー・ポリティックスをフル回転させてきました。アイデンティティー・ポリティックスとは人種、民族、宗教などで「私たち」と「奴ら」を対立させ、運動の求心力と推進力にする政治手法です。

ネオナチ団体と関係

コックスさん殺害犯は「重度のうつ病で長期間、通院していた」(家族)と言い、犯行前夜も福利施設に転がり込んだと報じられています。裁判では男の刑事責任能力が問われるとともに、ネオナチ団体の関係が注目されます。

私製銃の作り方マニュアル(米人権団体HP)
私製銃の作り方マニュアル(米人権団体HP)

男の自宅からナチスの紋章や極右思想の書籍が見つかり、1990年代から南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)を支持する団体に傾倒していたと言われています。99~2003年に白人至上主義団体からナチスのハンドブック「私は戦う」やヒトラーの絵を集めた本、私製銃の作り方マニュアルなどを620ドル以上で購入していました。

EU残留・離脱を問う国民投票は「英国人」と「移民」の間に埋めがたい一線を引いてしまいました。狂った高揚感が白人の英国人というアイデンティティーにしかよってすがるところがない男を凶行へと駆り立てた恐れがあります。

労働者階級の誇り

テムズ川に浮かぶコックスさんのボートハウス玄関(筆者撮影)
テムズ川に浮かぶコックスさんのボートハウス玄関(筆者撮影)

17日は午後からテムズ川に浮かぶコックスさん家族のロンドンでの自宅(ボートハウス)やウェストミンスター(国会議事堂)前のパーラメント・スクエアに出かけて彼女の死を追悼してきました。よりによって天使のような心を持つ彼女がどうして死ななければならなかったのか、人生の無常と世の不条理を感じました。

ウェストミンスター前でコックスさんの死を悼む市民(同)
ウェストミンスター前でコックスさんの死を悼む市民(同)

彼女は先のエントリーでお伝えした通り、かつては羊毛や衣服産業、炭鉱で栄えた英中部ウエストヨークシャー州の労働者階級の家庭に育ちました。公立進学校(グラマー・スクール)で学び、名門ケンブリッジ大学を卒業後、貧困問題に取り組む民間支援団体で働き、昨年の総選挙で初当選します。3歳の娘と5歳の息子の母親でもあります。

2人の子供を持つコックスさん(Brendan Cox)
2人の子供を持つコックスさん(Brendan Cox)

彼女のアイデンティティーは労働者階級の家庭に生まれたことです。地元紙ヨークシャー・ポストにケンブリッジ大学での5年間についてこう語っています。

「どこで生まれたかが問題なの。どのように話すかが問題なの。誰を知っているかが問題なのよ。私は本当のところ(彼らのように)正しく話せなかったし、正しい人を知らなかった。夏になると父親が働いた歯磨き粉工場で働き、製品を詰めた。他のクラスメートはみんなギャップ・イヤー(ボランティア活動や職業体験を積むこと)に出かけた」

目をつぶれば事態は悪くなる

卒業後、民間支援団体での活動が彼女のアイデンティティーを進化させていきます。「私は恐ろしい状況下にいた。スーダン西部のダルフールでは女性が繰り返し、繰り返し強姦されていた。ウガンダでは、ソ連製自動小銃カラシニコフ(AK-47)を与えられ、彼らの家族を殺した少年兵と一緒だった」

「そうした経験から私が得たことはもし、あなたが問題に目をつぶれば事態は悪くなるということです」

東西冷戦の終結とグローバル化の加速によって自由貿易や人の移動が拡大し、移民が増えました。これまでは同質性が高い社会で暮らしていた英国の地方でも急激な変化が起こりました。

ある日、あなたの家庭(国)にゲスト(移民)が訪れます。あなた(国民)は両親(政府)があなたと同じようにゲストを扱うことに次第に我慢ならなくなってきます。「私はこの家庭で生まれ育ったのよ。どうしてゲストより私を一番(ファースト)大切にしてくれないの」とあなたは叫びます。

政府は決して移民を優遇しているわけではないのですが、国民とできるだけ同じように扱おうとすることに怒りを覚える不寛容さが世界中を覆い始めています。筆者は怒りをぶちまけるトランプの表情を見て初めて、日本で1990年代後半から自分の身の回りに起きたことを理解できました。

今、米国や英国で起きている現象は、同質性が極めて高い日本では金融バブルが崩壊し、中国が台頭してきた1990年代後半から始まっていたのです。日本人に生まれたこと、男に生まれたことにしか価値を見出せない人が増えているのではないかと危惧します。

ハーメルンの笛吹男

英国では金を積まれて欧州懐疑主義をまき散らしたり、権力闘争のためにEU離脱を唱えたりする日和見主義者の政治家が増殖しています。元凶は保守党右派と英国独立党(UKIP)です。彼らの演説を聞いていると吐き気を催します。ハーメルンの笛吹男とはこうした政治家たちのことを言うのです。

家族と一緒にテムズ川でEU残留を訴えるコックスさん(Brendan Cox)
家族と一緒にテムズ川でEU残留を訴えるコックスさん(Brendan Cox)

コックスさんの遺影をソーシャルメディアにアップした夫ブレンダンさんはこう話しています。「ジョーは世界が良くなると信じていました。そのために人生の1日1日と熱意を捧げてきました。嫌悪は信条や人種、宗教を問わず、毒をまき散らしています」

ハーメルンの笛吹男は日本にもいます。英国も、米国も、日本も、そして世界が嫌悪に絡めとられないことを。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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