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ヒトラー『わが闘争』ベストセラーの虚実 歴史の教訓にできるのか、それとも亡霊は目覚めるのか

木村正人在英国際ジャーナリスト
ヒトラーの著書『わが闘争』(写真:ロイター/アフロ)

「反ユダヤ主義」と「生存圏」

第二次大戦後、ドイツで発禁処分とされてきた狂気の独裁者、ナチスのアドルフ・ヒトラー(1889~1945年)の著書『わが闘争』(全2巻)を2016年1月に再出版した独バイエルン州ミュンヘンの現代史研究所(IfZ)が3日、同書が第6刷になり、発行部数は8万5千部になったと発表しました。

これを受け、世界中のメディアに「ヒトラー『わが闘争』がベストセラー」の見出しが踊りました。ナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を歴史的な教訓として多くの欧州諸国で排外主義をあおるヘイトスピーチは禁止され、ドイツではヒトラーの肖像やナチスのシンボルを掲げたり、ナチス式敬礼をしたりするのは厳禁されています。

ユダヤ人大虐殺を生んだ反ユダヤ主義、第二次大戦の原因となった生存圏を饒舌に主張した『わが闘争』。ナチスの精神的支柱となったこの書は、フランスやベルギーのルール地方占領とドイツ政府の弱腰を批判したミュンヘン一揆(国家反逆罪)でヒトラーが逮捕され、投獄されていた1923~25年にかけて口述筆記されました。

当時は1240万部のベストセラー

ナチスが政権を握り、ヒトラー独裁が始まると『わが闘争』は結婚式のお祝いに新婚夫婦に贈られ、全世帯に少なくとも1冊備えるのが義務化されました。発行部数は1240万部、聖書を上回るベストセラーになりました。しかし45年、ヒトラーの自殺とともにドイツは敗戦を迎え、『わが闘争』の著作権はバイエルン州に移り、ドイツでは発禁処分とされてきました。

批判的注釈付きで再出版された『わが闘争』(現代史研究所HPより)
批判的注釈付きで再出版された『わが闘争』(現代史研究所HPより)

戦後70年がたち、著作権の保護期間が切れたことから、現代史研究所が『わが闘争』の再出版を計画しました。2015年、難民危機が欧州を直撃し、ドイツには100万人を超える難民が押し寄せました。フランスでは大型テロが続発し、ドイツでも難民によるテロが起きるようになりました。

戦後、ドイツはホロコーストという人類の悲劇を起こした反省から自分たちの歴史を肯定的にとらえることができませんでした。東ドイツから西ドイツへの「旅行の自由」を認めたことがきっかけとなり、1989年、東西を分断していたベルリンの壁が崩壊、その後、欧州連合(EU)発足とそのシンボルとして単一通貨ユーロがスタートします。移動の自由と欧州統合はドイツが誇れる輝かしい歴史になったのです。

世界金融危機に続く欧州債務危機で、これまで外交ではフランスや英国の影に隠れていたドイツがEUをリードするようになります。しかしギリシャなど重債務国を支援するため負担を強いられるようになり、ドイツ国内では反ユーロの世論が強まります。そして難民危機や過激派テロで、国境をなくせば戦争がなくなり平和と繁栄が訪れるという欧州統合の理念が大きく揺らぎ始めます。

封印された「歴史の暗部」

最初はユーロの構造的な問題を指摘していた新興政党「ドイツのための選択肢」は反難民を堂々と唱えるようになり、得票率は2013年総選挙で4.7%、14年EU欧州議会選で7.1%、16年の各州議会選では最大20.8~24.4%に達しています。こうした時期に合わせて再出版された『わが闘争』には注意深く、ヒトラーの主張に批判的な注釈が付けられています。

10年、国立ドイツ歴史博物館でヒトラーに熱狂したドイツ人に焦点を当てた特別展「ヒトラーとドイツ人 国家と犯罪」を訪れたことがあります。ヒトラーの頭部像や『わが闘争』、カギ十字の旗、民間組織の制服など約1千点のほか、キリスト教会の協力を示す壁掛けもあり、ヒトラーがドイツ社会の隅々まで浸透していく様子が浮き彫りにされ、同館始まって以来の入場者を集めました。

ドイツ人は戦後、ヒトラーとナチスにすべての戦争犯罪をなすりつけ、過去に口を閉ざす傾向が強かったそうです。学校教育ではナチスの蛮行を振り返る機会が設けられましたが、年配者にはドイツの「歴史の暗部」を詳しく知らない人が意外と多いことに驚きました。

ヒトラー暗殺を企て処刑された陸軍将校、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(1907~44年)をご存知の方も多いと思います。2008年に公開された米映画『ワルキューレ』では俳優のトム・クルーズさんがシュタウフェンベルク役を好演しました。

シュタウフェンベルクの縁者に当たる館員のルドルフ・トラボルトさんは筆者(当時、産経新聞ロンドン特派員)に「多くの人はユダヤ人虐殺を知ろうと思えば知ることができたのに目をつぶりました」と話しました。

ヒトラー独裁の「犠牲者」

母親の親類が武装親衛隊(SS)の一員だった学芸員ジモーネ・エルペルさんも「母はその親類が何をしたのか知りませんでした。戦後しばらく、ドイツ人は自分たちを『ヒトラー独裁の犠牲者』とみなし、なぜドイツ大衆がヒトラーを選んだのかについては口をつぐむことも多かったのです」と振り返りました。

エルベルさんによると「戦中に生まれた世代」は自らの家族がどんな戦争犯罪に関わったのかを知りたがり、「戦後第一世代」はドイツ社会がどんな責任を負っているのかに関心があるのだそうです。当時、ヒトラー崇拝とドイツ人の熱狂は、再軍備やラインラント進駐、オーストリア併合など外交的勝利とともにピークを迎えます。

しかし、当事者だった世代は「その時代」について口を閉ざし、その後の世代にとって「歴史の暗部」は空白になりました。この空白に間違った思想が入り込まないように、現代史研究所はヒトラーの主張に批判的な解説やファクトチェックを加えて『わが闘争』を再出版したのです。右翼団体は『わが闘争』をそのまま再出版しています。

再出版のベストセラーはウソ

欧米メディアが騒いでいるように『わが闘争』がベストセラーになったわけではありません。アマゾン・ドイツによると、再出版された『わが闘争』は政治・歴史分野で16位ですが、全体としてみればとてもベストセラーとまでは言えません。他にミリオンセラーのベストセラーもあるからです。

16年4月、独誌シュピーゲルのノンフィクション分野で1位になりましたが、その後は売れ行きが落ちており、図書館や学校、歴史家が一斉に購入したのが理由と英BBC放送は解説しています。学術書『わが闘争』の定価は58ユーロ(約7100円)と非常に高く、そんなに簡単には手が出ません。

現代史研究所のアンドレアス・ヴァーシング所長は「権威主義の政治思想や極右のスローガンが蘇っている今だからこそ、『わが闘争』の再出版を通じてヒトラーの世界観とプロパガンダを議論することは全体主義思想の数え切れない根源とそれがもたらす結果を考える大切な機会を与えてくれるでしょう」と話しています。

ヒトラーの亡霊を蘇らせるか、それとも歴史の教訓として封じ込めることができるのかは私たち次第なのです。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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