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「移民の経済学」から考えた英国の医療クライシス

木村正人在英国際ジャーナリスト
英国の救急救命室がピンチだ(写真:アフロ)

急患の4時間以上待ちが4分の1

英国赤十字社が国民医療サービス(NHS)の状況について「人道的危機を招いている」と警鐘を鳴らしている問題で、英国の主要部分をなすイングランド地方(4地方のうちの一つ)で1月の第1週、4時間以上待たされた救急救命医療を必要とする患者(急患)が全体の22%に達したそうです。

イングランド南西部のある病院では急患の44%が4時間以上待たされました。急患の診療は一刻一秒を争います。英国では病院の通路やストレッチャーの上で待たされていた急患2人が急死する事故が起きています。NHSの目標を達成したのはわずか1病院だけでした。

英BBC放送がスクープした内部資料から判明したものです。ストレッチャーの上で4時間以上待たされた急患は1万8千人にのぼったそうです。12時間以上待たされたのは485人です。これは昨年1月全体の数の3倍にのぼるそうです。

NHSは急患について4時間以内に診療を受けられるよう目標を掲げていますが、昨年12月以降の達成率は82.3%です。目標を設定した2004年以降で最悪の状況です。急患に対応するため病棟稼働率の安全ラインは85%とされていますが、94.7%に達しています。

急速に進む高齢化

欧州連合(EU)離脱の準備で手一杯のメイ政権のハント保健相は「この6年間に80歳以上が34万人も増え、平均余命が1年伸びた。この結果、患者の需要は前例のないレベルに達した。クリスマス後の昨年12月27日、急患は昨年に比べ最大で30%も多くなった。それでもNHSは対応を改善した」と苦しい弁明に追われました。

毎年、クリスマスシーズンは寒く、インフルエンザが流行するため急患が多くなります。

先のエントリー「日本の医療は大丈夫 EU離脱決定の英国で医療クライシス 待ち患者2人」に対し、「移民の増加率に病院、医師、看護師の増加率がついていけない、という事実を知ってますか?しかも白人イギリス人は移民達よりも手術が後回しにされるんです」という意見をいただきました。

誤解のないように言っておきますが、NHSが人道的危機に陥っているのは、ハント保健相が指摘しているように「移民の急増」ではなく「高齢化」が原因です。看過できないのは移民を嫌悪するデマクラシー(プロパガンダ政治)を煽る意見が先進国に溢れ返っていることです。日本も例外ではありません。

高齢化に伴って患者の需要が急増する中、医療サービスを維持するには財政支出を拡大して医師や看護師の数を増やしたり、AI(人工知能)やビッグデータなどICT(情報通信技術)を活用して効率化を図ったりする必要があります。

ネット時代だからこそ必要不可欠なファクトチェック

単一通貨ユーロ圏のギリシャ、スペイン、イタリアで失業率が高止まりし、英国に出稼ぎに来るEU移民が激増しているのは間違いありません。破滅的な形でのEU離脱を回避するためのファクトチェックサイトの一つ「イン・ファクツ」によると11年時点でEU移民の平均年齢は34歳。ホスト国の英国生まれは41歳で7歳も高くなっています。

ボイラーや水回りを直してくれるポーランド人のプラマー(配管工)を例に挙げるまでもなく、EU移民は非常にまじめに働きます。

「母国に残してきた子供の児童手当を英国で請求している」「高度医療を受けさせるために英語の話せない両親を呼び寄せている」という話を耳にすることもありますが、全体としては一部の例に過ぎません。

「住所不定、アイデンティティーを示すカードを提示せずとも医者に診てもらえる事」「ナショナルインスランス(国民保険)カードを見せず、抜け穴を通って医者に診てもらう、ゲットー社会がある事」というご指摘も頂きましたが、木を見て森を見ない議論だと筆者は考えます。

移民をめぐる損得勘定

別のファクトチェックサイト「フル・ファクト」によると、15年時点で英国に在住するEU移民は約320万人(半数は06~14年に英国に移住)で、英国の全人口の約5%です。このうち約230万人が働いています。生産年齢のEU移民の80%が就労しており、英国生まれの75%、非EU移民の62%に比べて非常に高くなっています。

他のEU加盟国で暮らす英国人は120万人です。差し引きすると英国へのEU移民は約200万人の入超です。

英国全体では登録医の10%(3万472人)、登録看護師の4%がEUからだそうです。EU移民は全人口の5%で医療サービスをあまり受けない若い働き手が中心なのに対し、登録医の中でEU出身者は10%に達しています。医療面ではEUは英国の負担というより貢献度の方が高いと言えるでしょう。

ハント保健相はEU離脱決定後、医師不足に陥らないよう医学部の定員を最大で年1500人増やす方針を発表しました。NHSで働く医師の4人に1人は海外で学び、研修を受けた移民です。

EU移民も納税しているのでNHS(国民医療サービス)のフリーライダーではありません。NHSの財政状況を逼迫させている主要因は、EU移民の急増ではなくコストや賃金の上昇と高齢化です。

移民を自由化すると世界のGDPは倍増

移民を受け入れると労働市場の競争が増し、供給サイドは大幅に改善されます。世界中の国々が国境を開放して移民を自由に受け入れると国内総生産(GDP)は67~147%も上昇し、世界のGDPはほぼ倍増するという学術研究もあるほどです(『移民の経済学』東洋経済新報社)。

労働力(移民)は最も価値ある商品だからです。その一方で移民の急増はホスト国の住民との間で緊張を高めます。

マクロ経済的にみるとホテルやレストラン、子供やお年寄りの世話をするケアラーなど低賃金の労働力を必要とするサービス産業、金融や研究・開発など高度人材が求められる分野で移民は大きなプラスをもたらします。

しかし移民が流入した特定の労働市場では過当競争になって賃金が押し下げられ、仕事を奪われるホスト国労働者の不満はエスカレートします。若い移民もいずれは高齢者になり、医療や年金、介護を必要とするようになります。

一部地域では移民の大量流入で負担が大きくなったNHSもあります。高負担高福祉の国では移民に医療や社会保障の取り分を奪われるという世論が強まる傾向があります。

『ウェストサイド物語』の悲劇を繰り返すな

米映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002年公開)はアイルランド系移民役のレオナルド・ディカプリオが「ネイティブ・アメリカンズ」のボス役ダニエル・デイ=ルイスに挑む移民の対立をテーマにしています。『ウェストサイド物語』は1950年代半ばの白人移民とプエルトリコ系移民のギャング団の争いを描きました。

『ウェストサイド物語』の音楽を担当した作曲家レナード・バースタインはフィナーレ曲「サムウェア」で移民対立を乗り越える希望と根深い排外主義への不安を交錯させました。

日本では「移民」という2文字は忌避されていますが、外国人の留学生や技能実習生が事実上の移民として働いています。技能実習の職種は多岐にわたっています。総人口に占める65歳以上人口の割合(高齢化率)が26%になった日本では、技能実習生の力なしでは立ち行かなくなる介護施設も少なくありません。

移民の急増が原因となった英国のEU離脱決定と医療クライシスは日本にとっても決して他人事では済まされないのです。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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