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大谷翔平選手の存在がメジャーリーグの歴史を掘り起こす

谷口輝世子スポーツライター
(写真:アフロスポーツ)

今シーズン、日本ハムの大谷翔平選手は投打にわたって活躍し、チームの日本一に大きく貢献した。

野球の記録を詳しく掲載しているbaseball-reference.comによれば、メジャー、マイナー、女子野球、日本プロ球界、国際野球大会に出場した選手で、投手でありながら、野手か、代打でも出場した選手として447選手の名前が挙げられている。このなかには、大谷や、関根潤三氏、景浦将氏も入っている。最も有名な二刀流選手のベーブ・ルースもリストに入っている。

メジャーリーグで最も二刀流選手の活躍が目立った時代は、まだ、メジャーリーグ創成期だった1800年代のこと。現在はベンチ入り登録選手は25人だが、1881年はベンチ入りする選手が11人、1892年でも13人だったため、投手であっても、投手以外のポジションを守り、打者として打つことが多かった。

「Great Hitting Pitchers」(SABR LIBRARY)によると、1885年7月に、シカゴの投手が「打つことができない。走るのが遅い」という理由でクビになったという記事が、当時のSporting Lifeという雑誌に掲載されているという。

ベンチ入り12人の時代には投げることしかできない投手の評価は低かった。

当時のピンチヒッターは、選手がケガをした場合に代わりの選手が打席に入るといったものだったらしい。1900年代に入ってから作戦としてがピンチヒッターが使われるようになってきたようだ。しかし、前述した「Great Hitting Pitchers」(SABR LIBRARY)によるとピンチヒッターに打者を使うことは珍しく、その日の控え投手が代打として起用されることの方が多かったという。ベンチ入りが12-3人ならば当然の策だろう。

ベンチ入りのロースターが25人になったのは1914年。その後はいくつかの変更があるものの、これが、現在のベンチ登録25人のベースになっている。

ベーブ・ルースが活躍した時期は、ベンチ入りの人数が増えてから。ルースはレッドソックスでプレーしていた1914-1917年までは主に投手業。1918と19年は投手から打者への移行期。ここまでがバッティングに優れたルースの投手時代だろう。ルースは、ヤンキースに移籍した1920年は投手として登板したのは1試合だけ、21年も2試合だけで、投手から打者へと転向している。

2014年に大谷が10勝、10本塁打を同一シーズンに成し遂げたことで、「同一シーズンの10勝と10本塁打」は1918年にベーブ・ルースが達成した13勝11本塁打以来という記録が掘り起こされた。

さて、この記事の後半では、1900年からメジャーリーグで指名打者が導入される1973年までの、「投手であり、代打(野手)」というカテゴリーで好成績を上げている「強打の投手」たちを見ていきたいと思う。

500打席以上で通算最高打率を残したのはジョージ・ユーリーで打率2割8分9厘。

ジョージ・ユーリー(表記はbaseball-reference.comの発音記号を参考)は右投げ右打ちで、1919年にインディアンスでデビュー。その後はタイガースなどにも在籍し、1936年までプレー。1923年と26年にア・リーグの最多勝をマークした。baseballreference.comによると野手ではなかったようで、ポジションは投手・代打となっている

投手としての通算最多の38本塁打を記録したのは、ウェス・フェレル。(大谷は今年22本塁打で通算40本塁打、フェレルの38本を上回った)。フェレルは右投げ右打ちで、1927年からインディアンスやレッドソックスでプレー。こちらも1935年にア・リーグ最多勝の25勝を挙げている。最多勝を挙げる一方で35年の打撃成績は目を見張るものがある。150打数で7本塁打、32打点、打率は3割4分7厘だった。

フェレルのポジションは投手・代打となっているが、レフトを守っていたこともある。肩かひじかは不明だが痛みを抱えていたことがあり、1933年シーズン、左翼手としてプレーしていた時期があるのだ。今季、日本ハムの大谷がマメをつぶして先発から外れていた時期に、DHとして出場した状況と似ていると言えるかもしれない。

フェレルの通算打撃成績は、1176打数、329安打、打率2割8分、38本塁打、208打点。

また、投手でありながら代打として最も起用されたのはレッド・ルーカスだとされている。ルーカスは右投げ左打ち、1923年から38年までレッズなどでプレーした。

「強打の投手」というカテゴリーならば、野球殿堂入りをしているボブ・レモン(右投げ右打ち)も挙げなければならない。

レモンは1941年にインディアンスからメジャーリーグに昇格したが、第二次世界大戦で従軍しており、数年間はプレーしていない。マイナーリーグ時代には野手だったレモンは、戦争から復帰後の1946年にはセンターを守ったが、打撃不振に陥ったのをきっかけに投手転向を薦められた。

本音は野手であり続けたかったレモンだが、自分の価値を高め、メジャーで生き残っていくためにピッチャーへ。代打として打席に立つこともあった。ア・リーグ最多勝のタイトルを3度獲得、通算207勝128敗、防御率3.23で殿堂入りを果たしている。通算打撃成績は1183打数、274安打、打率2割3分2厘、37本塁打、147打点。

各ポジションで最も打撃力のある選手を選ぶシルバースラッガー賞は1980年から。ナ・リーグの投手部門では1999年から2003年まで5年連続でマイク・ハンプトンが選ばれている。ロッキーズ時代の01年には年間7本塁打を打ったハンプトン。通算打撃成績は、725打数で打率2割4分6厘、16本塁打、79打点。

メジャー通算3000本安打を達成したマーリンズのイチローは、年間最多安打でジョージ・シスラーを抜いたし、連続年間200安打でウィリー・キラーを抜いた。イチローの存在が、野球ファンの記憶の奥底で忘れ去られていたかつてのスター選手たちを掘り起こしたと言える。

日本ハムの大谷選手が、メジャーリーガーになる日が近いうちに来るのかどうかは知らない。メジャーリーガーになっても二刀流であり続けるのかも分からない。しかし、二刀流の大谷の存在はすでに、ベーブ・ルースをはじめとするメジャーリーグ史に名前を刻んだ強打の投手たちを蘇らせていると思う。

スポーツライター

デイリースポーツ紙で日本のプロ野球を担当。98年から米国に拠点を移しメジャーリーグを担当。2001年からフリーランスのスポーツライターに。現地に住んでいるからこそ見えてくる米国のプロスポーツ、学生スポーツ、子どものスポーツ事情をお伝えします。著書『なぜ、子どものスポーツを見ていると力が入るのかーー米国発スポーツペアレンティングのすすめ 』(生活書院)『帝国化するメジャーリーグ』(明石書店)分担執筆『21世紀スポーツ大事典』(大修館書店)分担執筆『運動部活動の理論と実践』(大修館書店) 連絡先kiyokotaniguchiアットマークhotmail.com

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