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トランプ勝利は金正恩氏に「2つのハッピー」をもたらす

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏

米大統領選でのドナルド・トランプ氏の大逆転勝利を受けて、安倍晋三首相や韓国の朴槿恵大統領は祝意を伝えるメッセージを送った。言うまでもなく、慣例上のものである。日韓両国とも、政府内は衝撃と不安で満たされているようだが、それについては様々な報道で紹介されている通りだ。

では、北朝鮮はどうか。公式な反応はまだないが、金正恩党委員長がトランプ勝利の報を受け、本心からの「祝杯」を挙げていたとしても筆者は驚かない。

同窓会を「血の粛清」

これは、正恩氏がトランプ氏に何かを期待している、という意味ではない。むしろ、ヒラリー・クリントン氏の敗北を喜んでいると言った方が適当かもしれない。

理由は大きく二つある。ひとつは人権問題、もうひとつは軍事情勢に絡むものだ。

現オバマ政権は、北朝鮮における人権侵害の責任を問い、史上初めて正恩氏を制裁指定した。これに対する正恩氏の怒りは凄まじく、ブチ切れて周りに当たり散らし、拳銃を乱射したとの情報もあるほどだ。

そもそも、正恩氏の核とミサイルの暴走は、人権問題で国際社会から追い詰められ、絶望した末のものであると言うことができる。金日成・正日、そして正恩氏へと連なる金氏一家は、国民の血で手を汚し過ぎた。たとえ核兵器を放棄しても、まともな国の元首であれば、正恩氏と握手しようなどとは思わないし、経済支援を与えることもない。

(参考記事:北朝鮮「核の暴走」の裏に拷問・強姦・公開処刑

一方、米国は、戦略ミスにより北朝鮮の核武装を許してしまったために、積極的に軍事力を行使する選択肢が事実上、なくなってしまった。そこで、クリントン陣営が匂わせていたのが、北朝鮮を内部からゆさぶる戦略だ。

たとえば、クリントン氏の外交ブレーンを務めてきたウェンディ・シャーマン元国務次官は5月、朝鮮半島関連セミナーの昼食会で発言し、「北朝鮮で内部崩壊またはクーデターが起こる可能性を想定するのは不可欠であり、韓国と米国、中国、日本が速やかに協議を行うべきだ」と述べた。

実際のところ、現在の北朝鮮に、クーデターの兆候が見えているわけではない。過去にはそのような例もあったが、疑いを持たれた軍の同窓会組織などに対し「血の粛清」が吹き荒れ、今では軍人が数人程度の集まりを持つこともできなくなっている。

(参考記事:同窓会を襲った「血の粛清」…北朝鮮の「フルンゼ軍事大学留学組」事件

韓国政治の体たらく

もちろん、シャーマン氏とてそのような現実を知らぬわけではない。件の発言は、「北に内部崩壊やクーデターを起こすことを検討しよう」という意味を裏返したものだ。

そのような目的をもって北の内部に変化を起こし、それを外から支援するには、人権問題が最も強力な大義名分になる。「殺されていく北朝鮮の人々を、今すぐにでも救わねばならない」との主張を掲げるのである。

ならば、トランプ政権が発足したらどうなるのか。トランプ氏やそのブレーンたちも、「北朝鮮の人権問題は重大だ」くらいのことは言うかもしれない。しかしその度に、人々は彼の発してきた人種差別的な言葉の数々を想起するだろう。北朝鮮に対する人権包囲網が、これまでに比べ真剣味の薄れたものになるのは避けられないのではないか。

次に軍事面だが、実はここにも人権問題は絡んでくる。

米国と韓国が、軍事力によって北朝鮮の核の脅威を取り除こうと思えば、偶発・突発的な衝突が起きた場合、それに素早く乗じ、一気に正恩氏の命を狙う――つまりはカウンター攻撃による「斬首作戦」を仕掛けるしか可能性はない。

何故なら民主主義国家では、戦争を始めるにも国民にリスクを説明しなければならないが、「核ミサイルが飛んできて、もしかしたら打ち落とせないかもしれないけど、それでもやりますか?」と聞かれ、賛成多数で「YES」との答えが出る状況など、ちょっと考えられないからだ。

しかしカウンター攻撃を狙う場合は、「相手が先に攻めてくるかもしれない」という状況説明に加え、「北の人々を圧政から解放する」という大義名分があれば、押し切れないこともない。実際、米国はこのような構図でイラク戦争を始めている。

それも、トランプ新政権下で人権包囲網が後退することにより状況は変わる。正恩氏にとっては、カウンター攻撃でやられるリスクが減るということだ。

ちなみにトランプ陣営でも、外交・安全保障諮問役のマイケル・フリン前米国防情報局長が、「(核・ミサイル挑発を繰り返す)北朝鮮の現体制を長く存続させてはならない」などと言ってはいる。しかし、何をどうするか、アイデアはないように見える。

その上、韓国の政治があの体たらくである。

(関連記事:親友の「愛人ホスト」が居並ぶ利権集団…朴槿恵大統領を操った「秘線会議」とは

米国と韓国、そして日本も加えた事実上の「3国軍事同盟」は、基本的には強固だ。トランプ氏が日米や日韓の安保について何を言い出そうとも、簡単に瓦解することはないし、北朝鮮が米軍の軍事圧力から完全に自由になることもない。

ただ、本当に朝鮮半島有事となれば、どう考えても主役は韓国軍である。とくに最もリスクの高い地上兵力は、「統一」の悲願に殉じる覚悟で韓国軍が出さなければ、他の国は絶対に動いてくれない。しかし、政治が求心力を欠いている現状で、兵士たちにだけ「命を差し出せ」と言うのも無茶な話だ。

それにこの先、朴槿恵政権がどうなるかはわからないが、次期政権は、どちらかというと北朝鮮に融和的な政治勢力が担う可能性が高い。

そうなれば、正恩氏は向こう数年間の猶予期間を得たも同然である。その間、北朝鮮が過激な行動を繰り返すのか、あるいは大人しくなってふりをするのかはわからないが、核兵器の原料となる核分裂性物質を増産していくことだけは確実だろう。

数年を経て韓国の政治が落ち着き、トランプ政権の次の政権が誕生したときには、正恩氏は今の数倍の核戦力を有している可能性があるということだ。しかも、若年の正恩氏はその間に経験を積み、狡猾さも増しているかもしれない。

そんな未来を想像し、正恩氏が心からトランプ勝利を祝っていたとしても、全く不思議ではないのである。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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