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金正恩氏が喜ぶトランプ氏の「不法移民追放」公言

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏

ドナルド・トランプ氏が、大方の予想を裏切り、米国大統領に当選してから1ヶ月が過ぎた中、米国各地では、移民、LGBT、マイノリティに対するヘイトクライム(差別に基づく犯罪)の嵐が吹き荒れ、多くの人が恐怖に怯え、暮らしている。

脱北しても韓国で性的搾取

ニューヨーク市警の発表によると、トランプ氏の当選が決まった先月8日から1週間で、43件のヘイトクライムが発生。これは昨年同期の20件の倍以上で、年間を通してみると、35%増加している。また、南部貧困法律センターによると、当選から10日間で、全米では867件のヘイトクライムが発生した。

米国務省の発表によると、今年11月末までに米国に入国した脱北者は合計で209人。一方、カリフォルニア州に本部を置くNGO「脱北亡命者支援会」によると、その数は400人を超えるという。国務省の統計の対象になっていない約200人の脱北者は、脱北して一度は韓国に入国したが、再移民のため、米国にやって来た人たちだ。彼らは、難民資格の審査を受けているか、申請をせずに滞在し続けており、在留資格が不安定な状態に置かれている。

脱北亡命者支援会の代表のロバート・ホン弁護士によると、2008年の北朝鮮人権法の改正で、韓国を経て米国にやって来た脱北者の米国への難民申請は認められなくなった。それでも、米国を目指す脱北者は決して少なくないが、トランプ氏の当選後、脱北者の間では不安が広がっている。

米政府系のボイス・オブ・アメリカ(V0A)は、そんな脱北者らの声を伝える。40代の脱北女性であるハンさんは、息子を北朝鮮に残したまま脱北した。2012年に韓国に入国したが、その後米国に渡り、不法移民の状態で4年間暮らしてきた。夫は、正式に難民資格を得た脱北者だ。

ハンさんは、夫が今年米国市民権を取得する予定で、それにより自分の法的地位の問題も解決していたが、トランプ氏の当選で不安に駆られているという。

「トランプ氏が大統領になって、不法移民を追い出すと言い続けているので、戸惑っている。もし夫が市民権を得る前に、自分が追放されたら、また家族が生き別れになってしまう」(ハンさん)

別の40代の脱北男性は、一度は韓国に入国したものの、米国にやって来た。北朝鮮で学んだ技術は、韓国では認められず、韓国人から脱北者だとバカにされることに耐えかねてのことだ。

「韓国に帰りたくないから、ずっと米国にいる。不法移民の立場ではあるが、米国ではそれなりに認めてもらっている。身につけた技術を認めてくれるからだ。北朝鮮出身でも、韓国出身でも、米国人は気にしない。そういう差別はない」(40代の脱北男性)

韓国に入国した脱北者の数は、11月に3万人を超えた。一方、統一省の統計によると、今年9月末で韓国で暮らしている脱北者の数は2万7542人。韓国入国後に死亡した人もいると思われるが、その多くが第三国への再移民のため、韓国を離れたと思われる。脱北者、とりわけ女性が辛酸を嘗めるケースが多いと言われている。

(参考記事:「自由」の夢やぶれ韓国でも性的搾取…脱北女性の厳しい現実

男性は、米国の韓国系企業で4年間働き、財産も築いた。しかし、トランプ氏の当選のニュースを聞いて、憂鬱になっている。米国に難民申請を出そうとしたが、弁護士に認められる可能性はほとんどないと言われたため、諦めて不法移民の状態だからだ。

送還されれば厳しい拷問も

「心が重くなった。不法移民の取り締まりを強化するらしい。状況はどんどん苦しくなる。会社も、同僚も、知人も私のことを心配してくれている」(40代の脱北男性)

カリフォルニア州在住の50代の脱北夫婦は、不法移民として米国に暮らしてきた。数年前のある日、移民局から呼び出された。期待に胸を膨らませて、移民局に向かった。

「移民局に呼び出されたので、市民権がついにもらえると喜び勇んで行ったのに、受け取ったのはGPS。米国は人権を大切にする国だと聞いていたのに…」(50代の脱北夫婦)

夫婦は、移民局から追放命令を受け、足に逃走防止用のGPSを付けられた。

「夜中に寝ていても、GPSから電子音が聞こえて、生きた心地がしなかった。」(50代の脱北夫婦)

弁護士の助けを得て、1年半でようやくGPSを外せることになったが、どこを経て米国にやって来ても、北朝鮮出身ならば、人権侵害の被害を受けた保護の対象者で、難民資格が認められると思っていただけあり、夫婦の失望と不安は大きい。

ホン弁護士によると、難民資格を得ていない脱北者のうち、不法移民はごく少数で、ほとんどが難民申請の審査期間中の人だ。その期間中は、合法的な滞在が認められている。

しかし、難民資格を得た人との格差そのものが、人々を不安にする。難民資格を得た人は、半年間にわたり毎月数百ドルの生活支援金や、フードクーポンを受け取ることができる。また、1年経てば永住権が、5年経てば市民権が取得できる。

ホン弁護士とジュディ・ウッド弁護士は、数年待っても審査が終わらず、法的に不安定な立場に立たされている脱北者のために、議会に数千回嘆願書を出し、デモも行っている。難民認定がすぐには得られなくても、審査期間が延長されるだけでも、意味ある進展、つまり認められるまでの時間稼ぎになると語るホン氏。今まで、韓国を経て米国にやって来た脱北者15人の難民資格を勝ち取ったが、まだ10数人が審査状態に置かれている。

UNHCRによると、全世界で難民資格を得た脱北者は2015年末で1103人、審査中の人を含めると1333人だ。

既に脱北した彼らが「不法移民」として米国から追放されれば、普通に考えれば韓国に強制送還されるだろう。しかし、北朝鮮から「米国は我々の公民を誘引・拉致した。自国民を返せ!」という主張が出てきてもおかしくはない。もちろん、米在住脱北者らが追放され、いきなり北朝鮮に強制送還されることはありえない。脱北者が送還されれば、せい惨な人権侵害が常態化している代表的な施設の一つに送られる。こうした事実は既に知られており、国際社会も黙ってはいないだろう。

(参考記事:北朝鮮の「暴行・性的拷問・水責め」を韓国が告発

それでも、米国在住の脱北者たちが厳しい環境にさらされることを喜ぶ人物がいるかもしれない。北朝鮮の金正恩党委員長だ。なにしろ脱北者は北朝鮮を捨てた最大の「裏切り者」だからだ。正恩氏が、トランプ氏の不法移民追放公言に米国在住脱北者が怯えている状況を知れば、溜飲を下げるかもしれない。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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