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北方領土に行ってみた(1)

小泉悠安全保障アナリスト

少し前のことになるが、9月の三連休は皆様如何お過ごしであったろうか。

筆者は温泉に浸かってきた。

ただし、場所は北方領土の択捉島である。

内閣府が主催した北方領土ビザなし訪問団の一員として、9月19日から23日に掛けて国後島と択捉島を訪問してきたのである。

そもそも北方領土に温泉などあるのか、と驚かれた方もおられるかもしれないが、実は筆者にとっても驚きだった。

北方領土というのは緊迫した地域の灰色の島であり、どことなく恐ろしい場所、というイメージがつきまとっていたからだ。

筆者以外にもこうしたイメージを持っている人は少なくないのではないだろうか。

だが、訪問前に勉強したり実際に島を訪れてみると、そのイメージは大きく変わった。

以下、今回の訪問で筆者が印象を受けたことについて幾つか挙げてみたい。

なお、筆者は本来、軍事・安全保障についての記事を書くことを期待されてこのコーナーを与えられているわけであるが、北方領土の軍事力配備については機会を改めて詳述させていただく。

(北方領土の軍事力については以前の拙稿「北方領土の軍事力近代化と地政学」も参照頂きたい)

豊かな自然

北方領土は自然の宝庫である、というのがまず驚きだった。

島内ではどこからでも雄大な山並みを眺められる(択捉島)
島内ではどこからでも雄大な山並みを眺められる(択捉島)

国後と択捉には合わせて11もの火山があり、最高峰は国後島にある標高1,822mの爺爺(ちゃちゃ)岳である。

とにかく島の中のどこに居ても雄大な火山の山並みが必ず目に入ってくる。特に択捉島は11の火山のうち7つが集中しており、ほとんど島全体が火山という印象であった。

このように書くと、「北方領土ってそんなに大きかったのか?!」という驚きの声も聞こえてきそうだが、北方領土の面積は歯舞群島100平方km、色丹島250平方km、国後島1,499平方km、択捉島3183平方kmとなっており、国後と択捉については沖縄本島(1208平方km)より大きいのだ。

したがって北方領土問題というのは決して「北の小島」を巡る紛争などではないということは頭に入れておくべきであろう。

島の自然に話を戻すと、動植物も豊富で、キタキツネやクロテン、エゾライチョウ、アザラシといった北方特有の生物に加え、海鳥のエトピリカや全身が白色のヒグマなど、珍しい固有種も居る。

要するに意外なくらい風光明媚な場所なのである。

決して貧しくない暮らし

北方領土に関してもうひとつ感慨を受けたのは、もうそこが決して貧しい土地ではない、ということだった。

一般に北方領土というと北の僻地であり、住民は極貧の生活を強いられている、といったイメージがあるのではないだろうか。たしかにソ連崩壊後にはそうした状況が現実に存在し、それだけに日本からの援助がとても大きな存在感を持っていた(択捉では日の丸を付けたガスタービン発電機を見かけたし、国後にはご存じ「ムネオハウス」がある)。

だが、筆者が見てきた限りでは、すでに国後・択捉の暮らしは豊かではないにせよ、決して貧しくなかった。

国後・択捉ともに市内の主要道路は舗装され(それまでは未舗装が普通だった)、ソ連時代の老朽化した建物も建て替えられたりリフォームされたりしてほか、道行く人々の服装にもみすぼらしい感じは全くなく、生活水準は格段に向上していた。

ホームビジット先の家庭のキッチン(択捉島)
ホームビジット先の家庭のキッチン(択捉島)

たとえば筆者は訪問最終日に市の財務管理課長の家庭にホームビジットしたが、彼女のアパートは外観こそボロボロなものの室内は完全にリフォームされ、筆者がかつて住んでいたモスクワのアパートよりよほど綺麗だと感じたほどだ(しかもキッチンの窓からはキトーヴィ岬が一望でき、素晴らしい眺めだった)。

最近整備された公園。街灯なども凝ったデザイン(択捉島)
最近整備された公園。街灯なども凝ったデザイン(択捉島)

さらに島内では至る所で公園や街灯、街路樹などを整備しているのが目に付いた。要するに、すでに北方領土にはそういうことをするだけの経済的・精神的余裕が出てきているのである。

国後島のハイテク教会
国後島のハイテク教会

傑作だったのは国後島の教会で、なんと鐘楼の鐘をスマートフォンで遠隔操作できるという。実際に神父さんがやってみせてくれたが、同行した山本一太大臣はじめ、一同に大いにウケた。アルハンゲリスクにある教会音楽の学校が開発したアプリで、WiFiを使って世界中のどこからでも決まった時間に鐘を鳴らせるという。最初からプリセットしておいた方が早いような気もするが、これもちょっと意外な北方領土の現在の姿と言えるだろう。

消費生活について言えば、大規模な商業施設などはないもののスーパーに毛が生えた程度の自称「ショッピングセンター」や小さな食料品店、衣料店、電気店などはある。店内を覗いてみると、食料品は生鮮食品がやや寂しいものの品揃えは全体的に豊富で、電気店では韓国製のテレビ、パソコン、携帯電話、生活家電などが一通り手に入る(日本製は排除されているわけではなく、価格面で韓国製の方が手頃ということのようだった。自動車は圧倒的に日本製が多い)。

「ロシア化」が進んでいる?

以上に関連してもうひとつ、日本でよく言われる北方領土の「ロシア化」という言説について述べてみたい。

「ロシア化が進んでいる」というときに、そこにはまだ「日本」の要素がある程度残っているということが暗黙の了解として存在していると思われる。しかし、筆者の見た範囲では「ロシア化が進んでいる」という進行形よりも「ロシア化している」という完了形のほうが適切であるように思われた。

そこにはすでにロシア式の町並みが作られ、教会の尖塔がそびえ、生まれて死んでいく人々が居る。幼稚園に行ってみると、子供達の中には当該からの移住者だけで無く島民4世まで居るということだった。

日本時代の郵便局跡。現在は完全に廃墟になっている
日本時代の郵便局跡。現在は完全に廃墟になっている

一方、北方領土に残っている日本統治時代の唯一の痕跡は択捉島の郵便局跡であるが、すでに使用を停止されてから久しく、完全に廃墟となっていた。このままで行くと朽ち果てて倒壊するまでにそう長くは掛からないであろうことは明白で、同行した国会議員もこれを憂慮して国会で取り上げる旨を根室帰港後の記者会見で述べたほどである。

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安全保障アナリスト

早稲田大学大学院修了後、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員、国会図書館調査員、未来工学研究所研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任助教。主著に『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房)、『帝国ロシアの地政学』(東京堂出版)、『軍事大国ロシア』(作品社)がある。

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