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ソチオリンピックを巡るポリティクス

小泉悠安全保障アナリスト

「オリンピックは平和の祭典である」という建前論も、「そうは言ってもそこには政治的な思惑もまた渦巻いている」という言説も、現代人にはもはや聴き飽きたステレオタイプであろう。

しかし、今月7日にロシア南部のソチで始まった冬季オリンピックほど、政治的利害が鋭く交錯しているオリンピックは珍しかろうと思う。

何故、ソチなのか

そもそもソチという場所でオリンピックが開催されること自体が「政治」の産物であった。

ソチといえばソ連時代から黒海に面した温暖な保養地で、かつてのスターリン書記長やプーチン現・ロシア大統領も別荘を構える。

要するにあまり冬季オリンピック向きの土地ではない。

その証拠に今回のオリンピックも雪不足に苦しんでおり、人工降雪機を大量動員したばかりか、アルタイ地方のシャーマンを呼んで雪乞いの儀式まで行われた。

それでもこの地域でオリンピックが開催されたのはひとえにプーチン政権の政治的思惑によるものである。

すでに我が国でも報じられているが、ソチを含む北カフカス地方(ロシアの行政区分としての「北カフカス連邦管区」にはソチは含まれないが、地域的区分としては含まれる)ではイスラム原理主義勢力による自爆テロや戦闘が頻発しており、そこでオリンピックを開催し、成功させることは、同地の安定化をアピールするという狙いがあった。

プーチンの誤算と面子

ただし、プーチン政権にとって誤算であったのは、北カフカス情勢が完全に収束せず、むしろ暴力が激化・拡散したことであった。

ロシアは2009年にチェチェンでの対テロ作戦を終結させたが、代わりにダゲスタン、イングーシ、カラチャイ=チェルケシアといった周辺の民族共和国でイスラム原理主義勢力の活動が活発化し、さらには北カフカス連邦管区外のカザンやヴォルゴグラードといった都市でもテロが行われるようになった。

その背景には、

1 同地を安定化させるためにプーチン政権が送り込んだ共和国大統領達の強権的統治が却って地元住民達の反発を招いていること

2 失業率が極端に高く、行き場の無い若者達が過激化していること

3 アフガニスタンとシリアでイスラム原理主義勢力が勢いを増し、北カフカスにもその影響力が及んでいること、

などの構造的背景が考えられ、従って、その解決も容易ではない。

しかも、このオリンピックはプーチンの面子を賭けたものであるだけに、北カフカスのイスラム過激派としては絶好の標的となる。

実際、北カフカスで武装闘争を繰り広げるイスラム過激派「カフカス首長国」は、事前にソチオリンピックを「あらゆる手段で妨害」するようインターネット上で呼びかけており、昨年末にはソチ市内に「黒い未亡人」と呼ばれる女性テロリスト達が侵入したと報じられている。

ソチに配備されているのと同じパンツィリ-S1短距離防空システム
ソチに配備されているのと同じパンツィリ-S1短距離防空システム

もちろん、ロシア政府側は連邦軍や内務省などから7万人とも言われる大量の人員でソチ周辺を固め、地対空ミサイルまで配備する厳戒態勢を敷いてはいるが、テロリストは神出鬼没であり、大量の観光客が流れ込むソチ市内や、逆に警備の手薄になった他の都市(たとえばモスクワや、昨年末に自爆テロが相次いだヴォルゴグラード)を完璧にカバーできる保障は無い。

しかし、プーチン政権としては、通常の自爆テロが発生した程度ならばオリンピックを完遂するであろうし、逆に「テロとの戦い」を旗印に国民の結束を図ろうとすることさえ考えられる(もともとプーチン氏は首相時代に第2次チェチェン戦争を指揮して国民的人気を得た)。

テロリストの狙いと対米関係

黒海に展開中のイージス艦ラメージ
黒海に展開中のイージス艦ラメージ

その意味では、プーチン政権がオリンピックを継続できない、あるいは外部から失敗と見なされるような状況こそテロリスト側の目標となる筈である。

それが何であるかを断ずることはもちろんできないが、たとえば米国の選手がテロに巻き込まれ、米選手団が丸ごと引き揚げるような事態は、上記の条件に該当しよう。

実際、米国はそのような事態を念頭に置き、ソチが面する黒海の沖合に第6艦隊旗艦の揚陸指揮艦マウント・ホイットニーとイージス艦ラメージ(両艦併せて海兵隊員600人が搭乗)を展開させている。

だが、黒海はロシアの「裏庭」と呼ぶべき地域であり、そこに米海軍が進出することをロシアは決して歓迎していない。

2008年のグルジア戦争において、グルジアに対する「人道支援」の名目で米海軍がイージス艦を展開させた際には、モスクワがトマホーク巡航ミサイルの射程に入るとしてロシア側は少なからぬ脅威認識を抱いたとされる。

現在、ロシア海軍が黒海艦隊の近代化と増強を急ピッチで進めているのは、このような背景があってのことだ。

t.A.T.uは何故起用されたか

だが、それ以上に大きなトゲとなっているのが、人権問題だ。

ロシアは昨年、「非伝統的な性的関係の宣伝を禁じる連邦法」を成立させたが、これが同性愛者の人権侵害につながるとして欧米から一斉に非難を浴びた(同法の問題点については筆者のブログ記事を参照)。

この結果、日本を除くG8加盟国の首脳は軒並み、ソチオリンピックの開会式を欠席するに至っている。

特に米国のオバマ大統領は、プーチン大統領が面子を掛けて開催したもう一つのプロジェクトである2012年のウラジオストクAPEC(アジア太平洋経済協力会議)も欠席しているから、プーチン大統領としては二度にわたって顔を潰された形となる。

この意味で興味深かったのが、開会式の事前イベントにt.A.T.uが登場し、さらに開会式本番でも彼女らの曲が(それもロシア代表の入場タイミングに併せて)流されたことだ。

同性愛的なイメージ(と態度の悪さ)で日本でも話題をさらったt.A.T.uだが、毀誉褒貶が激しく、人気のピークにあるわけでもない。

さらに全くの私見を述べるならば、プーチン氏は多分、あの種のアナーキーなキャラクターはあまり好きでは無いと思う(プーチン氏は秩序を重んじる体育会系の人物だ)。

にも関わらず、彼女らが起用されたのは、やはり「同性愛者の人権を弾圧している」とする西側の批判をかわす、あるいは反論する狙いがあったのだと考えられよう。

「雲の中」にあるグルジア国境

対西側関係以外にも、ソチオリンピックでは興味深い動きが見られた。

その第一は、グルジアが参加したことだ。

2008年に戦火を交えて以来、グルジアとロシアは断交状態であったが、2013年に対露強硬派のサァカシヴィリ大統領が失脚したことで、両国は関係改善に向けた探り合いを始めていた。

そもそも産業に乏しいグルジアにとってはロシアへの輸出(特にミネラルウォーターとワインが有名)や出稼ぎは生命線とも言うべき重要性を持っており、ロシアとしてもグルジアが西側一辺倒になってしまう事態は好ましくない。

グルジア側には当初、ソチオリンピックをボイコットすべきとの意見があったとも伝えられるが、それでも最終的に参加を決めたのは、以上のような利害計算が働いた結果であろう。

だが、開会式では、両国関係が依然として難しい状態にあることが改めて浮き彫りになった。

開会式の選手入場では、それぞれの国の衛星写真が巨大なディスプレイに映し出されたが、グルジア選手団入場の際には、アブハジアと南オセチア(グルジアからの分離独立地域で、ロシア軍が駐屯しており、ロシアほか数カ国のみが独立国家として承認している)の部分が雲に隠れていたのだ。

もちろんロシアとしては両地域をグルジア領として表示することはできないため、苦肉の策だったのだろう。

日露関係の「雲」は晴れるか

そして、この「雲隠れ」を使わざるを得なかった国がもうひとつある。

日本だ。

周知のように、日露間には北方領土問題が存在しているため(筆者の北方領土訪問記はこちら)、北海道東北沖合はグルジアの場合と同様、「雲の中」とされた。

グルジアの場合もそうだが、敢えてロシアの主張する境界線を明示せず、「雲の中」としたのは、一定の配慮の現れであろう。

前述のように、グルジアとの間では関係改善の兆しが生まれていたが、日本との場合にも、やはりロシア側の利害計算が働いていると考えられる。

前述のように、安倍首相はソチオリンピック開会式に出席した唯一のG8首脳であり、ロシア側としても安倍首相が開会式に間に合うよう、カザフスタンと交渉して航空自衛隊の政府専用機が最短ルートを飛行できるにするなど、最大限の便宜を図った。

安倍首相が北方領土返還要求全国集会に参加した脚でソチへ向かったことを考えれば、異例の厚遇とも言える。

その背景にあるのは、日本との経済協力への期待がある。

ロシアは、衰退が止まらないシベリア・極東の振興のために日本の投資を必要としている上、シェールガス革命や欧州のガス紛争で行き場を失った天然ガスの新たな市場を日本に求めている。

一方、安倍政権としては、こうした経済協力をテコに懸案の北方領土問題を解決したいとの思惑があるのだろう。

とはいえ、ロシアはあくまで政治と経済は別問題との立場であり、領土問題はあくまでも1956年の日ソ共同宣言(平和条約締結後に歯舞と色丹を日本に引き渡すとし、国後と択捉については領土問題の存在を認めない)を基本線としてくる可能性が濃厚である。

日露間に横たわる「雲」を晴らすのは容易ではない。

それだけに、両国の真摯な努力を願う。

安全保障アナリスト

早稲田大学大学院修了後、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員、国会図書館調査員、未来工学研究所研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任助教。主著に『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房)、『帝国ロシアの地政学』(東京堂出版)、『軍事大国ロシア』(作品社)がある。

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