「スティーブ・ジョブズの再来」といわれたヘルスケアの革命家は”詐欺師”だったのか?
アメリカ時間7月7日、アメリカの血液検査サービスTheranos(セラノス)社が、米保健福祉省(HHS)から免許取消の制裁措置を言い渡されたことを明らかにしました。
セラノス社は、指先から採取したわずか1滴の血液を使い、コレステロールから遺伝子検査まで数百もの検査を可能にする技術を開発したとし、その企業価値は一時90億ドル(およそ9000億円)とされていました。
「第2のスティーブ・ジョブズ」
この会社が注目された理由のひとつが、創業者であるエリザベス・ホームズさんの存在です。
ホームズさんは2003年、19歳でスタンフォード大学を中退してセラノス社を創業しました。知性的な容貌、つねに黒いタートルネックでメディアに現れるその姿から、次第に「第2のスティーブ・ジョブズ」と呼ばれるようになります。
そのプレゼンテーション能力の高さも、スティーブ・ジョブズ氏と比較された理由のひとつでした。
すべての人が健康に関する情報にアクセスできるように診断を「再定義」すると訴える彼女の言葉に、多くの人が熱狂しました。
彼女の快進撃は続きます。2013年の終わりには、アメリカの大手ドラッグストアチェーン「ウォルグリーン」と提携し、アリゾナ州フェニックスなどに46か所の採血センターを設置。アリゾナ州では新法が可決され、医師の指示がなくても血液検査が行えるようになりました。
またたくまに数百億円規模の出資金が集まり、セラノス社の企業価値は90億ドル(およそ9000億円)と見積もられます。彼女は、「女性として世界最年少の叩き上げ億万長者」として、全米はおろか世界の医療業界から注目される存在になりました。
去年の、10月15日までは。
浮上した疑い 革命家は”詐欺師”だったのか?
2015年10月15日、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は、セラノス社に関する調査報道を発表しました。
実は華々しいプレゼンの一方で、セラノス社はその技術の詳細について秘密にしていました。「企業秘密だから」というのですが、技術の詳細は血液検査の精度を判断するために不可欠なものです。それゆえにセラノス社の秘密主義に関しては批判が高まっていました。
そこでWSJのジョン・カレイロウ記者は、セラノス社のサービスについて独自の調査を実施。そして記事にまとめられたセラノス社の実態は、驚くべきものでした。
- セラノスの血液検査機器は「エジソン」と呼ばれていたが、正確な評価を行えるほど血液サンプル中の細胞を検出できなかった。
- セラノス社のラボには、一般的な血液検査に使われる機械が設置されており、セラノス社が自社技術により行っているとした検査の多くは、実際にはこの機械によって行われていた
※The Wall Street Journal記事より筆者まとめ
要は、セラノス社が喧伝していた「画期的な医療技術」の実態はなく、同社の血液検査の多くは、ありふれた既存の血液検査機器によって行われていたと言うのです。さらに、当局に認可を受ける際のデータを捏造していた疑いも指摘されました。
ホームズ氏はこの記事に反論しましたが、脚光を浴びていた彼女に浮上した巨大スキャンダルに、WSJ以外のメディアもいっせいに取材を開始しました。その結果、「セラノス社は自社の血液凝固テストに不備があることを知りながら検査を続けていた」など同社の実態を暴露する報道が相次ぎました。
そして冒頭お伝えしたように、7月7日、米カリフォルニア州ニューアークにあるセラノス社の研究所は臨床検査の免許を取り消され、少なくとも2年間、研究所の運営などが禁じられることになりました。
「わかりやすいストーリー」のリスク
ホームズ氏は今後、当局との交渉や、出資者との裁判に対応することになると思われます。その過程で、彼女が本当に「詐欺師」だったのかどうか、明らかにされていくことでしょう。
この騒動の最大の被害者は、セラノス社のサービスにより血液検査を行ってしまった多くの患者さんです。医師は、血液検査の結果により治療内容を決めますので、信頼できないデータをもとに不必要な投薬が行われたり、逆に、必要な治療が行われなかったりした可能性が否定できません。
しかしそれにしても、アメリカのように規制制度が確立している国において、詳細すらわからない技術によって実際に広く血液検査が行われてしまった、という事実には驚かざるを得ません。
アメリカと日本の制度は違いますので、今回のような事態が日本でも起きる可能性があると単純に言うことはできないのですが、「画期的な新技術」「新進気鋭の女性起業家」など、わかりやすく人目をひくストーリーは、ときに非常に大きなリスクをはらんでいることを改めて感じました。
特に医療など命にかかわる分野において、「わかりやすいストーリー」にはいちど立ち止まって疑いの目を向けてみる、という姿勢こそが望まれるのかもしれません。