飲食店、コンビニで相次ぐSNS炎上。彼らが”これはダメ”と感じない理由

このところ、飲食店やコンビニエンスストアにおける従業員の問題行動がソーシャルネットワークサービス(SNS)の中で可視化され、いわゆる”炎上案件”として報道が相次いだ。アイスクリームの保存ケースに入ったり、食材の冷凍保存庫で口に食品を咥えるなどでの悪ふざけに対して、「顧客に販売する食材の上で寝そべるなど言語道断」「衛生管理の意識はあるのか」など、行動そのものへの怒りの声が挙がったのは周知の通りだ。

しかし、一般的な社会常識からすると異常行動としか思えない炎上案件が相次いだことで、話題の中心は行動そのものに対する批判から「なぜ彼らは常識外の行動を写真に記録し、インターネットで公開するのか」という別の視点へと移行しつつあるように思う。

なぜ彼らは問題行動の証拠をネットに自ら投稿し、アルバイトとはいえ職や信用を失う軽率な行動に走るのか。このテーマをトレースする中で見えてきたのが「新世代ネット民」とも言える、従来とは価値観が異なるインターネット利用者層の存在だ。

これまでも、パソコン通信や初期のインターネット掲示板などにおける文字を中心としたコミュニケーションで形成されるネット社会への参加者、あるいはソーシャルネットワークを積極的に利用する利用者層など、現実社会側の視点から見ると特異に見えるひとたちを、ざっくり”ネット民”などと呼び、一般利用者と区別して語られることはあった。従来からのネット民はパソコン通信時代、インターネット時代などの、どの世代に属する者であれ「ネットによって知らない人たちとも繋がっている」ことを強く意識した行動を採る。

ところが、新世代のネット民は自らがインターネットによって接続され、世界中と繋がっていることを意識した行動をしない。なぜなら、彼らは目の前にある道具(主にスマートフォン+インストールされたアプリ)を利用しているだけであり、周りからどのように見られているかなど考えたこともないからだ。

たとえば、大手ハンバーガーチェーンの従業員が、床に大量に敷き詰めたバンズの上で寝そべる写真を投稿したのを見て、多くの人が”こんな写真をインターネットで公開したら非難が集まるのは当たり前なのになぜ?”という感想を漏らす。

しかし、彼らは非難が集まるなどとは微塵にも考えていない。むしろ、仲間内で連絡取り合うために使い始めた道具で、仲間内で愉しくやっているだけなのに、なんで関係ない奴らが勝手に騒いでいるんだ。勝手にクビ突っ込んで勝手にRTしてんじゃないよ。と、彼らの方こそが被害者であると感じているのだ。

”感じないひとたち”を理解する

こうした新世代のネット民が持つ感覚を的確指摘したのが、24時間残念営業というブログを開設するMK2氏である。MK2氏は「「うちら」の世界」エントリーの中で下記のような仮説を立てている。

彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーションがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。実際にはそれは、インターネットの仕組みの内部で動いているサービスなのだが、ここでSNSと「うちら」の結託が起こる。SNS=うちらとなるわけだ。なんとなくは「インターネット全体」という外部があることは知っていても、それが「うちら」に積極的に介入してくることは考えない。もしそれが容喙してきた場合、彼らの理屈に従えば「うちらなにも悪いことしてないのになに勝手に干渉してくんの」ということになる。ましてネットの場合、リアルとは違い「外部」は完全に可視範囲の外にある。おそらく彼らにしてみれば不意打ちの感覚が強いだろう。

出典:24時間残念営業「うちら」の世界

すなわち、実は問題行動を引き起こしている本人たちは、その行動を問題だとは思っていないのではないか?と指摘しているのだ。このエントリーは本記事と同じYahoo!ニュース個人にて、山本一郎氏が「馬鹿が跳梁跋扈している今日この頃ですが「彼らは馬鹿だから」で済ませていて良いのでしょうか」の中でも紹介したものだ。そちらの記事も併せて読んでみるといいだろう。

そう、問題の核心は「それが問題だと感じていない」インターネットの利用者層が増えていることなのだ。「なぜこんなにバカが”増えたんだ”」という批判は、実は当てはまらない。昔からこの手の悪ふざけをする人たちは存在していたが、悪ふざけの"成果"をバラ撒く手段を持っていなかった。ところが、誰もが簡単に使え、しかもネットの介在を意識させない環境が整い、幅広く普及したことで、それらが可視化したのである。

問題行動を防ぐためにどうすべきなのか、食品を扱う従業員に対する教育やモラル維持の手法といった視点も、もちろん必要なものだ。モラルに対する取り組みは別途行わねばならないが、本稿で言及したいのはまったく別の視点からの問題提起だ。

感じることができていない人たちに、何故そうするのか?と問いかけても答えは出てこない。まずは、感じることができる人が、”感じることができない人の存在”を認知し、理解するところから始めなければ、この世の中の変化には対応できない。

”俺には関係がない?”という読者もいるだろう。しかしそんなことはない。

一連の炎上案件では若年層の悪ふざけがSNSに晒され、関連企業が謝罪するという一連の動きになっている。一見すると「非常識な若者を」「最近の若い子は」など批判しがちだが、”感じない人たち”は若年層のアルバイトの中だけに存在しているわけではない。幅広い消費者層に分布している。

”インターネットの形”が見えないネット利用者層

MK2氏はブログの中で教育や知識といった部分に注目し、右肩上がりで成長が続いた時代には接客業には就いていなかった層が、今は飲食店やコンビニのアルバイトになり、上記の”インターネットを意識しない”あるいは”インターネットが世界中と繋がっていることは漠然と意識していても、自分たちの世界に他人が干渉することはない”という意識の芽生えと重なることで、一連の問題行動が表面化するに至ったと分析している。このほか、飲食店やコンビニエンスストアの給与が安すぎるが故にモラルを保てていないのだという指摘もブログやSNSで見かけた。

これらの論点について、筆者が同意する側面もあるが、問題はMK2氏が指摘する”ネット利用者層の広がり”だけに留まる問題ではないと考えている。上記、山本一郎氏の記事でも指摘されているが、昨今、クラウド型サービスで提供されるアプリケーションが、どのように提供されているかを知らずに使い、セキュリティ上の問題を引き起こしている例が散見される。

彼らはMK2氏が指摘している、スマートフォンなどを通じてインターネットに(それとはあまり意識せず)使っている利用者層とは異なるひとたちだ。

たとえば、官公庁がグーグルの提供するグループ作業用サービスを使い、本来は機密扱いとすべき文書をクラウドの中で共有し、さらには公開範囲などのセキュリティ設定がおざなりのまま運用されていたことが問題となった。運用上の問題として捉えられているが、筆者はこれも、利用しているアプリケーションがどのような経路で提供され、どこに情報が保管されているのかを意識できない、あるいは意識していたとしても、本質的に理解できていないためだと考えている。

さまざまなアプリケーションがコンピュータの中からインターネット(クラウド)へと溶け出し、今やアプリケーションの多くはクラウドで提供されるようになった。さらに、スマートフォン/タブレット+各種サービスに対応した専用アプリという枠組みが加わったことで、”使いこなすことなく使えてしまう”環境が整っている。

以前ならば、インターネットにアクセスし、会員登録したあとにサービスのセットアップを行い、ブラウザで定期的にアクセスしながらSNSを使いこなす必要があり、ここで利用者にフィルタがかかっていたが、スマートフォンとアプリなら誰でも使えてしまう。

グーグルグループを用いた情報共有も同じで、度重なる改良によりサービスをセットアップし活用するまでのハードルは下がってきている。さらにネットサービスへの”慣れ”などもあり、情報技術やインターネットの仕組みに詳しくなくとも使いこなせるようになってしまった。

彼らの場合も、自分たちが使っているアプリケーション、サービスが、どのようにして提供されているのか、どのように動作しているのかを頭の中でビジュアル化できていない点は共通している。イメージできていないが故に、問題意識を感じることはできないのだ。

問題を察知できる、感じることができなければ、予防策、解決策は提供できない。今後、インターネットを通じて提供される製品やサービスはさらに多様化し、利用者層も広がり、またインターネットの存在を意識させない商品・サービスの設計となっていくだろう。潜在的な問題の種は、そのたびに拡がっていく。

ではどのように対応すべきなのか。効果的な解決策は、まだ誰も思いついてない。画一的な手法での対策は難しい。しかし、”相手に問題意識が存在しない”ことを前提に、その現場を仕切る側が意識してワークフローやルール作りをすることで対策できるケースはあるかもしれない。

「あいつらは、なぜあんなにバカなんだ」と切り捨てるのは簡単だ。あなたの周りには、そんなバカな行動をしそうな奴はいないよと思う読者も多いだろう。しかし、普段はバカな行動をしそうにない隣人や仲間の中にも、実は”感じることができていない”人はいる。感じられない側にいる彼らに、”感じるように”と促しても効果的ではない。

やはり、まずは感じることができる側が、最初の一歩として”彼らの存在を意識する”ことから始めるほかないのかもしれない。