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オンリー・ワンのセパタクロー人生

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

メジャースポーツでも、そうでないスポーツでも、国を代表する選手の覚悟に違いはなかろう。9月開幕の仁川アジア大会(韓国)の日本代表に決まったセパタクローの第一人者、寺本進(SOLUM)は「日の丸を背負って戦うことは自分にとって誇りです」と言い切る。5大会連続のア大会代表。

「サッカーではダメだったけれど、セパタクローでは日本代表として戦ってこられました。日本らしさをチームで明確に共有して、レベルアップしていきたい。目標が(前回大会獲得の)銅メダル以上。ほんとうの意味で最後のアジア大会と決めています」

寺本がいう日本らしさとは、「技術的でこまかい繊細な部分。効率よく1点をとる戦術性の巧みさ」となる。サッカーをしていた高校時代の1994年、地元広島で開かれたアジア大会のプレ試合で初めてセパタクローに触れ、以後20年間、この足を使ったバレーボールのごときスポーツに没頭してきた。

もう38歳となった。サッカーとは違う劣悪な環境のもと、セパタクローの普及に貢献してきた。遠征などは自腹で、経済的には厳しい状況がつづく。3年前には子どもも生まれた。国際舞台からの引退を決意した。

「セパタクローを続けるためには、アルバイトを続けるしかないのです。僕に限らず、みんな金銭的には家族に迷惑をかけています。世界で戦っているといっても、家族に迷惑をかけているなら、カッコよくもなんともない。(妻は)迷惑と思ってないでしょうが、モヤモヤしたものがあるのです」

年齢的な限界、体力の衰えは特に感じない。だが、これ以上、家族に迷惑をかけたくない。

「僕らは、すごく大変な環境で、アルバイトしながら、限られた時間で練習をしています。いろんなことを犠牲にして、競技に関して100%でないと世界では結果が出ないと思います。80%ではダメなのです」

先のアジア大会代表最終選考会となった全日本オープン選手権には、両親も応援に駆け付けた。「最後の挑戦」と知っていたからだ。優勝した際、チームメイトの手で胴上げされた。初めてのことだった。

「うれしかったですね。久しぶりにみんなに喜んでもらえる優勝だったのかな」

この20年間で、セパタクローの知名度は上がった。競技人口は「2千人ぐらい」という。企業チームがないため、大学を卒業すると、ほとんどの選手が競技から離れてしまう。寺本は亜細亜大学を卒業後、アルバイトをする傍ら、亜大のコーチをしながら、自分の練習にも取り組んできた。

「サッカーのトップリーガーの人と話をしていると、向こうは当たり前にフィールドがあって、当たり前にウエアがあって、競技だけをやっていればいいようです。でも僕らは代表選手が自分たちでコートを探して、やっと確保したコートでも練習を自由にできなかったりします。ただ、だからこそ、練習できる喜びを感じるのです」

サッカーの環境を羨ましいと思うけれど、セパタクローの道を選んだことを後悔はしていない。「自分をずっと奮い立たせてくれた」「自分を成長させてくれた」からである。「フツーの人間を、世界の舞台に引き上げてくれました」と言葉に実感を込める。

176センチ、65キロ。モットーが『今しか、自分にしか、できないことがある』である。

「そりゃマイナースポーツですし、環境も大変です。世界一になっても、日本で脚光を浴びるわけじゃない。自分でも、なんでここまでやっているんだろう、と思うことがあります。でも、今しか、自分にしか、できないことだと自分に言い聞かせることで前進していけるのです」

これぞ、『オンリー・ワン』の人生か。こんなアスリートがいてもいい。最後のアジア大会。“ミスター・セパタクロー”がメダルをかけ、仁川で跳び、ボールを蹴る。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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