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追悼 J・コリンズ

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

少なくないラグビーファンがショックを受けたことだろう。「まさか、こんなことが起こるとは」と。昨夜、酒場でラグビー仲間と献杯した。元ニュージーランド代表「オールブラックス」の元主将、ジェリー・コリンズ氏が交通事故で天に召された。34歳だった。

コリンズ氏は1980年にサモアで生まれ、ニュージーランドに移住した。1999年、ウェリントン州代表デビューし、スーパーラグビーの強豪ハリケーンズでプレーした。2001年、オールブラックス入りし、恵まれたからだを活かしたハードタックルを武器にワールドカップ(W杯)の2003年、2007年大会でもFWとして活躍した。テストマッチは48試合出場。主将も務めた。

2008年、国際舞台から離れ、フランスのトゥーロン、英国ウェールズのオスプリーズでプレーした後、2011年から2年間はトップリーグのヤマハ発動機ジュビロに所属した。

日本ではつらい日々だったと思う。ハードワークの積み重ねの結果か、頑丈そうに見えてもからだは満身創痍で、痛みをおして練習に打ち込んでいた。けがもあって出場機会にはさほど恵まれず、オールブラックス元主将のプライドは傷つけられていたかもしれない。

ヤマハ発動機のグラウンドをのぞいた時、別メニューで黙々と練習していたコリンズ氏の姿が忘れられない。ヤマハを退団した後、浜松市内で銃刀法違反の疑いで逮捕された。周りに誤解をされやすいタイプで、生き方は不器用だったと思う。ヤマハ関係者は「ハードワークの男」「プロフェッショナルの男だった」と悼んだ。

外電によると、周りのサポートを受けて社会復帰し、カナダにある鉱山の警備会社で働きながら、ラグビーを続けていた。ことし1月、フランス2部リーグのナルボンヌと契約を結び、チームの勝利のためにプレーしていた。5月3日の試合が「ラストゲーム」となった。

再婚し、やっと平和な生活が始まったところだったに違いない。6月5日。家族が乗った自動車を運転中にバスと衝突、妻とともに死亡した。生後4か月の娘は重体。

不幸は突然、やってくる。だから、ぼくらは今を一生懸命、生きるしかないのか。ヤマハ発動機のラグビー部員は練習再開の6月8日、練習前に偉大なラガーの死を悼み、黙とうをささげた。

ヤマハのHPには、清宮克幸監督の追悼メッセージが載せられている。コリンズ氏の人柄がよく偲ばれるため、ここに転載させてもらう。合掌。

【~ヤマハ発動機ジュビロ・清宮監督よりコメント~

ジェリーへ。

自由奔放で優しくて。

試合になると、一番きつい所でからだを張り、チームを鼓舞する。頼もしくて。

乱暴者に見えて実は寂しがり屋でシャイで冗談が大好きなジェリー。

あまりにも速いスピードで走り抜けてしまったね。

俺たちは忘れないよ、ここで過ごした2年間を。

ありがとう、さようなら。      監督 清宮克幸】(ヤマハ発動機HPより)

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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