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さよなら、ラグビーを愛した平尾誠二さん

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
2019年ラグビーW杯を楽しみにしていた平尾さん(撮影2015年7月)(写真:アフロスポーツ)

この喪失感は何だろう。「ミスター・ラグビー」と呼ばれた平尾誠二さんが亡くなった。平尾さんの最大の功績は、ラグビーの人気と価値を、さらには社会におけるスポーツの価値を高めたことだろう。まだ53歳。スポーツ界にとっては大きな損失だと思う。

20日。六本木では国際会議「スポーツ・文化・ワールドフォーラム」が開かれた。「ラグビーの魅力・ラグビーワールドカップの力」というセッションもあり、ラグビー関係者が大勢、詰めかけていた。その会場で流れた突然の訃報。同じ同志社大学出身の往年の名選手、坂田好弘・日本ラグビー協会副会長は「ほんと残念です」と漏らした。

「元気だったら、この場所にもいたはずですよね。体調が悪いとは聞いていたけど…。奇跡が起こればいいとずっと思っていました。これから日本ラグビーを変えていく人材として、期待していたのに…」

平尾さんの輝きはスペシャルだった。坂田さんはつづけた。

「彼はまさに星です、スターでした。すべての面で輝いていました。グラウンドで輝き、引退しても輝き、話をしても、どこにいっても輝いていました」

平尾さんを取材して、30年余となる。甘いマスクはともかく、生き様がカッコよかった。現場で会えば、いつも気さくに言葉を交わしてくれた。ラグビーへのまなざしはあたたかく、コトバはスポーツの本質をついていた。なによりスポーツのオモシロさを大事にしていた。

もう4、5年前か。テレビの番組でMC役の筆者に対し、平尾さんは「ラグビー選手は、駆け引きを楽しめるタイプじゃないとダメでしょ」と言った。

「ぼくは相手のプレーの特徴を見て、自分たちのプレーを選択していました。状況を見るのが得意というか、楽しかったんです。やるか、やられるか。相手が“アレ”っというプレーをしたかった。それがラグビーの醍醐味じゃないですか」

平尾さんのプレーは華麗だった。精度が高かった。その番組で話題が1991年ワールドカップの日本代表のジンバブエ戦の勝利におよんだ時、日本代表のバックスを「匠(たくみ)」のようなラインだったと振り返った。

「互いの呼吸の“吸う”“吐く”を意識し合うような、匠的なバックスラインでした。相手のちょっとした呼吸も読んでいました。それがオモロかった」

平尾さんは同大で大学選手権3連覇、神戸製鋼では日本選手権7連覇に貢献した。W杯に3度出場し、1997年には日本代表監督に就任し、神戸製鋼のゼネラルマネジャー、総監督などもつとめた。平尾さんはデータを重視した。一見クールで知性的なイメージが強いが、じつはパッション(情熱)を大事にしていた。

平尾さんの代表監督時代、選手だった廣瀬佳司さん(前トヨタ自動車監督)は「えらい根性論でした」と教えてくれた。

99年のパシフィック・リム選手権で日本代表が初優勝した際、こんなことがあった。遠征先のフィジーでは黒星を喫した。SOの廣瀬さんのリードはよくなかった。1週間後には米国代表との最終戦が予定されていた。

フィジー戦の夜、ホテルの部屋に呼ばれ、平尾さんから、「次の試合はお前にとってもすごく重要な試合だから、選手生命をかけるぐらいの気持ちで全身全霊をかけて戦ってくれ」と檄を飛ばされた。さらに廣瀬さんは、平尾さんから真顔でこう言われたそうだ。

「もう、ずっと寝んでいいから。次の試合のことを考えて、考えて、考え尽くせ」

結果、日本代表は米国に快勝し、パシフィック優勝を果たすことになった。

指導者としての平尾さんは、選手をよく、みていた。選手の状態、長所、短所を見極め、成長させようと努力していた。スターでありながら、「弱い選手も、いろいろあるから」って、愛情をもって人と接していた。

平尾さんはラグビー文化を尊んでいた。献身、犠牲的精神を好んでいた。2013年、社会人のトップリーグの神戸製鋼×サントリーの試合に際し、大学生たちがラグビー場の雪かきをしたことがある。神鋼は負けた。なのに、神鋼の総監督の平尾さんはうれしそうだった。どうしたの? と聞けば、たしか、こんな言葉が返ってきた。

「雪かきですよ、雪かき。古き良きボランティア精神だな、これは。ラグビー的ですごくいいと思います」

平尾さんはラグビーをラブしていた。そのラグビーの人気、価値を高めるためには、新しいことにもチャレンジした。日本代表監督となって、初めて外国籍選手のアンドリュー・マコーミックを主将に指名した。また『平尾プロジェクト』なるものを立ち上げ、埋もれたラグビーの素材の発掘や、他のスポーツからの好素材の転向をも勧めた。

ラグビー界にとらわれず、他競技やビジネス界の人々との交流もあった。日本ラグビー協会だけではなく、日本サッカー協会の理事にも就任していたこともあったし、「誰もがスポーツを楽しめるコミュニティの創造」を理念とし、2000年、地元神戸にスポーツNPO「SCIX(シックス)」を立ち上げた。時代の先端を駆け抜けたと思う。

平尾さんは2019年の日本でのW杯開催を楽しみにしていた。W杯日本大会組織委の事務総長特別補佐にも就いていた。平尾さんは昨年5月、就任の際、「(W杯は)新しいラグビー文化の構築にもつながっていく」と強調し、こう話していた。

「ワールドカップが最終地点ではない。これは日本のラグビー関係者に与えられた、もしかしたら、最後のもっとも大きなチャンスかもしれない。これをビッグステップと思って、さらなる発展につなげていくための大会にしないといけない」

同感である。ぼくらは平尾さんの遺志を引き継いでいかないといけない。そう思う。

それにしても、である。宿澤広朗さん(2006年6月没、享年55)、石塚武生さん(2009年8月没、享年57)、上田昭夫さん(2015年7月没、享年62)、そして平尾さんと、日本ラグビー界は社会のリーダーとなりうる人を相次いで喪った。残念で、残念で、残念で。

さよなら、ラグビーを愛した平尾誠二さん。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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