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追悼:岡野さんから学んだこと。

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
スポーツへの思いを語る岡野さん(2014年=JOC25周年記念の集いで)(写真:伊藤真吾/アフロスポーツ)

「オリンピックの宿命は…」。2日に85歳で亡くなった岡野俊一郎さんは生前、こう、筆者に語り掛けた。もう9年も前の2月の寒い日のことだった。「4年に一度、必ず、アメリカの大統領選の年だということです」

JR上野駅前の和菓子の老舗「岡埜栄泉(おかのえいせん)」のビルの最上八階の部屋だった。社長室の大きな窓からは、上野界隈が一望できた。青く澄んだ空と、こげ茶色のJR上野駅、緑色の上野公園…。たしか名物の豆大福をほおばり、お茶を一緒にいただいた。

日本オリンピック委員会(JOC)などを取材していたこともあって、岡野さんからは何度か、お話をうかがったことがあった。その時の話題は、「日本代表選手団の1980年のモスクワ五輪不参加」だった。岡野さんは1980年当時、JOCの総務主事(現・専務理事)を務めていた。

日本政府は米国の不参加に同調し、結局は日本体育協会の判断もあってか、その下部組織だったJOCはモスクワ五輪不参加を決めることになった。岡野さんはこう、言っていた。「モスクワのとき、おそらくカーター大統領(1980年当時)は大統領選挙のキャンペーンとしてボイコットを世界中に働きかけたんですよ」

政治とスポーツは別である。五輪憲章にはそう、明記されている。でも理想と現実はちがう。政治とスポーツが無縁でないことも理解できる。だから、スポーツ界の若きリーダーだった岡野さん(当時48歳)は苦悩することになった。

岡野さんには当時、体協理事とJOC総務主事というふたつの立場があった。JOCは採決でモスクワ五輪不参加を決めた。岡野さんは、JOC委員長だった故・柴田勝治さんとともに採決には参加しなかった。筆者は懇談の際、「もしも採決に参加していたならば?」と聞いた。

いつも柔和な岡野さんの顔が刹那、ゆがんだことを覚えている。はっきり言った。

「そりゃ反対ですよ。モスクワ参加です」

岡野さんは誰からも愛された。あの人に対する寛容さ、やさしさ、フェアネスさは何だったのだろう。サッカーの価値、いやスポーツの価値を信じていた。岡野さんは、「スポーツは仲間づくり」「オリンピックは一種の平和運動」とおっしゃっていた。

岡野さんは、モスクワ五輪の参加の機会を失った選手たちに申し訳なく思っていたはずである。オリンピック運動に携わる者として、オリンピック憲章を遵守する義務がある。選手たちが、オリンピックという国際舞台で、海外の選手たちと共に汗を流し、戦いのあとには友情を育くむ。絆が深まる。その尊さをよく、口にされていた。

岡野さんはモスクワ五輪不参加を糧とし、JOCの日本体協からの独立にまい進した。JOCは1989年8月、やっとで独立した。法人格取得を、病床の柴田さんに報告したときのことを、岡野さんはこう、教えてくれた。

「僕はね、もう涙が出てね」

岡野さんはその後、日本サッカー協会の会長(1998~2002年)となり、国際オリンピック委員会委員(1990~2011年)も務めた。2002年サッカーワールドカップ(W杯)日韓大会や1998年長野冬季五輪の開催実現などに力を注いだ。

スポーツ仲間を世界中にたくさん、たくさん、つくった。お酒をこよなく愛し、友との語らいを好まれた。語学が堪能だったこともあるが、なによりスポーツの根幹、あるいは人との絆を大事にされていたからだろう。

そうなのだ。スポーツは仲間づくりなのだ。某日某夜、年輩のスポーツ仲間と上野駅界隈で岡野さんを偲びながら飲むことになった。

岡野さん、ありがとうございました。

献杯。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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