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内閣法制局の憲法解釈が時代の変遷により変わってきたという事実はあるのか?

南野森九州大学法学部教授

産経新聞は内閣法制局の解釈が時代の変遷で変わってきたと言うが・・・

2013年11月2日、産経新聞はつぎのように報道した。

小松一郎内閣法制局長官は1日の衆院国家安全保障特別委員会で、政府が過去に憲法解釈の変更を行った前例があると答弁した。内閣法制局は、これまで憲法解釈の変更自体に極めて慎重な姿勢を示してきたが、小松氏は時代の変遷で憲法解釈が変わってきた事実を指摘した。小松氏の答弁は、安倍晋三政権が目指す集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更への布石になる可能性がある。

出典:MSN産経ニュース

ここで小松長官が挙げた解釈変更の例は、いわゆる「文民条項」についてのそれであり、少なくとも憲法学界ではよく知られているものである。この機会に少し説明をしておこう。

日本国憲法の第66条2項には、

内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。

と定められており、日本国憲法制定後しばらくの間は、もちろん軍隊も軍隊類似組織も存在しないから、同項の政府解釈としては、旧憲法下で職業軍人の経歴を有し、かつ強い軍国主義思想の持ち主である者のみが「非文民」であって大臣になれない、とされていた。自衛隊の発足(1954年)後もこの解釈は直ちには変更されなかったが、それは、自衛隊は憲法9条によって保持が禁止されている戦力には該当しないという政府解釈との整合性を図るためであった。つまり、自衛隊発足当初は、理屈のうえでは現役自衛官といえども防衛庁長官のような閣僚に就任することが憲法66条2項違反になるとは考えられていなかったわけである。このことは、たとえば1961年2月24日の衆議院予算委員会における林修三法制局長官(当時は法制局という名称であった)の答弁にも明確に示されている(阪田雅裕『政府の憲法解釈』〔有斐閣・2013年〕162-164頁を参照)。

ところが、その後自衛隊の装備・実力が増大したため、現役の自衛官がそのまま閣僚になるということの妥当性が疑問視されることになる。1965年5月31日の衆議院予算委員会における高辻正己内閣法制局長官の答弁は、つぎのように言う。

その後自衛隊というものができまして、これまた憲法上の制約はございますが、やはりそれもまた武力組織であるという以上は、やはり憲法の趣旨をより以上徹して、文民というものは武力組織の中に職業上の地位を占めておらない者というふうに解するほうが、これは憲法の趣旨に一そう適合するんじゃないかという考えが当然出てまいります。結論的に申しまして、(…)平和に徹すると〔佐藤栄作〕総理がよくおっしゃいますそういう精神は日本国憲法の精神そのものでございますが、そのことから考えました場合に、自衛官はやはり制服のままで国務大臣になるというのは、これは憲法の精神から言うと好ましくないんではないか。さらに徹して言えば、自衛官は文民にあらずと解すべきだというふうに考えるわけでございます。

出典:国会会議録検索システム

このようにして、憲法66条2項の「文民」についての日本政府の解釈は、現役自衛官も含まれる(したがって大臣になれる)という解釈から、現役自衛官は含まれない(したがって大臣にはなれない)という解釈へと変更された。このことは、2004年6月18日付けの島聡衆議院議員提出の質問主意書に対する小泉内閣の答弁書(第159国会答弁第114号)でも確認されている。上記の産経新聞の報道には「平成16年の政府答弁書によると」との記載が登場するが、おそらくこの小泉内閣の答弁書のことを指しているのであろう。

ここまでは、産経新聞の上記報道にとくに誤りはない。しかし、同紙の書きぶりにはやや誤解をもたらしかねないところがあるように思われる。たとえば、冒頭に引用した部分には、つぎのように書かれていた。

内閣法制局は、これまで憲法解釈の変更自体に極めて慎重な姿勢を示してきたが、小松氏は時代の変遷で憲法解釈が変わってきた事実を指摘した。

こう書かれると、読者は、何やら重大な憲法問題に関してこれまでにいくつもの解釈変更例が存在するかのような印象をもたないだろうか。ところが、これほど明確に憲法の政府解釈を180度変更した事例は、実はこの文民条項についてのものが唯一なのである。しかもこの文民条項解釈の変更を、集団的自衛権解釈の変更と比べるのはあまりにも強引と言わざるをえない。その点をつぎに述べることにしよう。

文民条項の解釈変更と集団的自衛権の解釈変更は比べものにならない

自衛官をめぐる文民条項解釈は、最大限見積もっても1954年から1965年までの約10年間しか維持されていないものであったのに対し、集団的自衛権についての政府解釈は、後に(本稿の続編〔その2〕で)みるように、1960年頃から現在に至るまでの半世紀以上維持されているものである。また、論点の重要度(したがって議論の蓄積度)という意味でも、両者は比較にならない。集団的自衛権についての解釈は、それこそ日米安保条約をめぐり、湾岸戦争をめぐり、「国際協力」をめぐり、安保再定義をめぐり、「テロとの戦い」やイラク戦争をめぐり、繰り返し繰り返し国会で論戦の対象となり、その結果、政府が半世紀を超えて維持してきた憲法解釈なのである。

産経新聞は同記事の最後の部分で、小松長官がつぎのように答弁したと伝える。

従前の解釈を変更することが至当であるとの結論が得られた場合には、変更がおそよ許されないことはないと考えられる。

この言明自体は、抽象的にはまったく正しい(ほとんど同一の表現が上記の小泉内閣の答弁書にも登場する)。およそ法の解釈である以上、窮極的には、また理論的には、変更が不可能ということはない。しかし現実にそれが可能であるか否かはまた別問題であるし、ましてやそれが適当であるか否かはなおさら別の議論が必要である。その点について本稿では立ち入らない(筆者の立場については雑誌「世界」2013年10月号の拙稿「集団的自衛権と内閣法制局ーー禁じ手を用いすぎではないか」を参照されたい)が、ここでは、少なくとも、文民条項の解釈変更が過去にあったからといって、集団的自衛権の解釈変更が同じように可能であるとはとうてい言えないということを指摘しておきたい。

1965年の文民条項の解釈変更は、(1)現役自衛官が総理大臣・国務大臣に任命される現実的可能性がどれほどあるかもわからないような、そういう意味では当時の日本の憲政上マイナーと言ってよい論点に関わるものであったのであり(だからこそ国会でも繰り返し華々しい論戦が繰り広げられたというわけではない)、しかも(2)それはせいぜい10年ほど維持されてきたにすぎない解釈についてのもので(そしてその間にその解釈に基づいて現役自衛官が大臣になったことはなかったから、解釈変更により混乱が生じることもない)、さらに(3)その変更は、総理大臣・閣僚という国家権力を行使する者に就任しうる人間の範囲を限定する方向のものであった(つまり権力制限の方向での解釈変更であったと言える)。

それに対して、いま議論が進められている集団的自衛権の解釈変更は、(1)それこそ日本という国家の命運を直接左右するような、憲法上最大と言ってもよい「軍隊」・「戦争」をめぐる論点についてのものであり(だからこそ国会でも繰り返し華々しい論戦が繰り広げられてきた)、しかも(2)それは半世紀以上維持されてきた解釈についてのもので(そしてその間それに基づいて日本の軍事・安全保障に関するすべての重要判断がなされてきた)、さらに(3)目指されている変更は、自衛隊という実力組織がこれまで「できない」とされてきたものを「できる」とするものなのである(つまり権力制限とは反対方向での解釈変更である)。

文民条項の解釈変更という戦後日本の憲政にとってトリビアルな例外的エピソードは、集団的自衛権の解釈変更は可能であると主張するうえでの説得的な論拠(産経新聞の表現を用いるならば「憲法解釈変更への布石」)にはなりえないと言うべきである。

九州大学法学部教授

京都市生まれ。洛星中・高等学校、東京大学法学部を卒業後、同大学大学院、パリ第十大学大学院で憲法学を専攻。2002年より九州大学法学部准教授、2014年より教授。主な著作に、『憲法学の現代的論点』(共著、有斐閣、初版2006年・第2版2009年)、『ブリッジブック法学入門』(編著、信山社、初版2009年・第3版2022年)、『法学の世界』(編著、日本評論社、初版2013年・新版2019年)、『憲法学の世界』(編著、日本評論社、2013年)、『リアリズムの法解釈理論――ミシェル・トロペール論文撰』(編訳、勁草書房、2013年)、『憲法主義』(共著、PHP研究所、初版2014年・文庫版2015年)。

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