Yahoo!ニュース

改めて考えるモハメド・アリの偉大さとは・・・

三浦勝夫ボクシング・ビート米国通信員
沿道には多くの人々が詰めかけザ・グレーテストに別れを告げた

革命児アリ

6月10日(日本時間11日)米国ケンタッキー州ルイビル。この町の看板製造屋の息子として生まれ、やがて歴史に名を刻む人物となるモハメド・アリの遺体を乗せた霊柩車がゆっくりと周遊し墓地へと向かった。沿道に集まった市民や世界中からアリを追悼するために訪れたファンは霊柩車が通ると花を投げかけ、「アリ!アリ!」と合唱して故人を悼んだ。“アリ・シャフル”の真似をする子供や霊柩車の一団といっしょに並走するファンもいて、悲しみとともにフィーバーする様子が感じ取れた。

私はこの映像をローカルテレビのニュースで見たのだが、そんな比較的マイナーなメディアまで現地に記者とカメラマンを派遣していたことが、ザ・グレーテスト、モハメド・アリの死の大きさを物語っていた。

世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリが逝った。この際、WBCとかWBAとかタイトル承認団体の名称は不要だろう。アリが王者に君臨した頃までヘビー級世界王者は実質一人と認識されていた。死去からすでに10日経ち、葬儀も終了しているが、いまだに「巨星墜つ」の雰囲気から抜け出せない。リングに残した偉大な軌跡と同時に「モハメド・アリはこの国を変革し世界にインパクトを与えた。彼の伝説は人類の歴史の一部となるだろう」(ボブ・アラム・プロモーター)というコメントのように戦争反対、公民権運動など影響力は多岐にわたった。

そして、あの話術である。機関銃トークで対戦相手を愚弄し、KO予告などで前宣伝を打った。現役当時があまりにも華々しく、騒々しかっただけに、引退後パーキンソン病を患い、闘病生活を送る姿は悲哀を増幅させた。それでもアリが活躍しなかったら、ボクシングは今日のような状況を呈することはなかったかもしれない。

アリは、そのスタイルでボクシングに革命を起こした。アリ以前にも端正なアウトボクサーは存在した。歴代最強ボクサーとも賞賛されるシュガー・レイ・ロビンソンが該当するだろう。ロビンソンはカリスマ性も兼備していた。だが重量級でありながら自由自在にフットワークを使い、まさに「蝶のように舞い、蜂のように刺す」アリの左ジャブから右ストレート、コンビネーションブローへつなげるスタイルは独創的で画期的であった。両腕をダラリと下げ、相手を誘う仕種もアリ独特だった。当初は邪道とも批判された戦法がアリが勝利を重ねるとともにボクシングの主流へと向かったのだ。現在のジャブのヒット数とクリーンパンチを優先するスコアリングは、発端を探せばアリのスタイルにたどり着くのではないか。米国でも日本でも、そして世界でもコピーした者は数多いが、オリジナリティーは彼が所有する。

時の最強選手に挑む

1981年12月、バハマのナッソーで後のWBC王者トレバー・バービック(ジャマイカ)に10ラウンド3-0判定負け。このラストファイトを戦った時、アリは39歳だった。マイク・タイソンが世界ヘビー級王座奪取最年少記録をつくった時の王者がバービックというのも何かの因縁だろう。アリはその3年後、42歳でパーキンソン病の兆候が見られたという。逆算すると32年にわたり難病に侵されたことになる。もしアリが引退後も健康であったならば、あのビッグマウスからどんな発言が飛び出したことだろう。あるいは自由に行動し、世界情勢にインパクトを与えたかもしれない。

そう思うと、またもや悲嘆にくれてしまうが、ボクサー・アリを評価する時、彼がもっとも称賛されるのは、時の最強の敵と率先して勝負を挑んだことである。初めて世界に挑戦したソニー・リストン戦、ベトナム戦争徴兵拒否による長いブランクから復帰して再度頂点を目指したジョー・フレージャー戦、フレージャーから王座を強奪し、ヘビー級史上最強の強打者と目されたジョージ・フォアマン戦の大逆転劇。どれもがボクシング史、スポーツ史を彩る名勝負だ。そんなリング内外の八面六臂の活躍がザ・グレーテストの称号を彼に授けたことは言うに及ばない。同時にアリが自己陶酔して自らそう呼んだという説もかなり正しい。他方でアリが経済的に困窮していたという話が聞かれた。引退後しばらくしてのことだ。

最後までスピリットはファイターだった
最後までスピリットはファイターだった

長者ランキングでは12位

14年の年末にセレブリティー・ネット・ワース(Net Worth)ドットコムというサイトが「リッチなボクサー・トップ5」を掲載した。

ネット・ワースとは純資産とある。現役、元選手を問わず、ボクシング以外での資産も含有。そのまま鵜呑みにしていいものか少し迷ったが、とりあえずボクサーの金持ちランキングと認識していいだろう。トップはこの時もフロイド・メイウェザーで純資産2億8千万ドル(約308億円。1ドル=110円で計算=以下同じ)。2位はアリの宿敵だったジョージ・フォアマンの2億5000万ドル(約275億円)。解説ではこのうち2億ドルは米国で爆発的に売れた、自身の名前を冠したハンバーカー・グリル器具によるものとある。3位オスカー・デラホーヤは2億ドル(約220億円)。4位は元世界ヘビー級王者レノックス・ルイスで1億4000万ドル(約154億円)。5位シュガー・レイ・レナードは1億2000万ドル(約132億円)の順。

アリの死後、同サイトは50位まで拡張してランキングを掲載。今回はプロモーターや関係者も加えており、順位は多少変わったが先に挙げた5人の順列は変化していない。首位はやはりメイウェザーで、なんと純資産は4億ドル(約440億円)。今回のデータでは昨年5月のあのマニー・パッキアオ戦で2億5000万ドル(約275億円)稼いだと記される。2位に同じ4億ドルでリングアナウンサー、マイケル・バッファーが入ったのは意外。4位フォアマン、5位デラホーヤは前回と同じ額。3位ボブ・アラムはフォアマンと同額だが、おそらく多少、額が上なのだろう。6位は1億9000万ドル(約209億ドル)でパッキアオ。ちなみにパッキアオのメイウェザー戦の収入は1億5000万ドル(約165億円)とある。

以下10位ビタリ・クリチコ(6500万ドル)、11位実弟のウラジミル・クリチコ(6000万ドル)と元ヘビー級王者が占める。そして12位がモハメド・アリで5000万ドル(約55億円)。13位マービン・ハグラー(4500万ドル)、14位バーナード・ホプキンス(4000万ドル)と新旧ミドル級王者、15位リッキー・ハットン(4000万ドル)と続く。

アリの現役当時と今では貨幣価値が異なるとはいえ、地元英国での人気は絶大だったものの、メイウェザーやパッキアオの引立て役だったハットンとザ・グレーテストの順位、金額があまり変わらないのは正直、寂しい気持ちがする。もっともアリは恵まれている方かもしれない。アリの好敵手だったフレージャーの純資産は10万ドル(約1100万円)。同じくマイク・タイソンは300万ドル(約3億3000万円)、タイソンのライバル、イバンダー・ホリフィールドは50万ドル(約5500万円)。50歳近くになるまでホリフィールドが現役にこだわった理由がそこにある。

フォアマン戦がキャリア最高額

純資産だけでは実態がつかめにくいかもしれない。単純にファイトマネーをチェックしてみよう。フレージャーとの第1戦、アリの報酬は250万ドル。同サイトによると、この額は現在の貨幣価値で1500万ドル(約16億5000万円)に相当するという。“The Rumble in the Jungle”,「キンシャサの奇跡」のフォアマン戦は545万ドルで、今なら2600万ドル(約28億6000万円)に達するらしい。アリのキャリア最高報酬は80年10月のラリー・ホームズ挑戦試合の790万ドルだが、これは現在なら2200万ドル(約24億2000万円)と逆にフォアマン戦を下回るという。

“マネー”メイウェザーと比較すると、アリの最高額2600万ドルはメイウェザーのデラホーヤ戦(07年5月)、ハットン戦(同年12月)、フアン・マヌエル・マルケス戦(09年9月)の各報酬とほぼ同額。一方、メイウェザーのロバート・ゲレロ戦(13年5月)の5000万ドル(約55億円)、カネロ・アルバレス戦(同年9月)の7500万ドル(約82億5000万円)、続くマルコス・マイダナ2戦(14年5月と9月)の4000万ドルと3200万ドル(約44億円と約35億2000万円)に比べると低い。もちろんパッキアオ戦の2億5000万ドルとは雲泥の差がある。

ソニー・リストンを下して王者に就いたアリはベトナム戦争に反対、白人保守派の強い反感を買った。「アリが負けるところを見たい」というアンチファンが多く存在した。昨年9月のアンドレ・ベルト戦をひとまず終戦としたフロイド・メイウェザーも「負ける試合を見たい」と願うファンがPPVを購入する主流だった。2人には共通点はあるが、ファイトマネーはアトランタ・オリンピック銅メダリストのメイウェザーが断然上回っている。

人気者ゆえの悲劇

アリは最終回、左フックを食らって倒れ、プロ初黒星を喫したフレージャー第1戦後、コンスタントにリングに上がり、フォアマン挑戦のチャンスをつかんだ。またフォアマンに勝って2度目の王座に君臨した後、精力的に防衛戦をこなし3年で10度王座を守った。知名度抜群だっただけに米国のみならず世界中のプロモーターから声がかかった。同時に当時は現在に比べ1試合のファイトマネーが安価だったことも皆勤につながったと見る。

フォアマン戦で有名になったのが「ロープ・ア・ドープ」という戦法。自らロープを背にしてフォアマンの攻撃をブロックし、相手の体力の消耗を待って仕留めてみせた。その後の防衛戦でもこの戦法を多用したが、パンチを吸収し過ぎたためダメージを蓄積。脳への被弾が多く、パーキンソン病を誘発したと推測される。キャリア後年のアリはもう以前のように華麗に舞うことができなくなっていた。

おそらくレオン・スピンクスに雪辱して王座(WBA)に復帰した時点でグローブを吊るしていれば、美しい引き際だったろう。しかしアリは2年後、彼のスパーリングパートナーとして腕を磨きWBC王者に就いたラリー・ホームズに挑戦し惨敗する。アリのストップ負けは後にも先にもこの一戦だけだ。最後のバービック戦を含め、2試合多くやり過ぎたと揶揄されても仕方ないだろう。

だが、49戦全勝のパーフェクトレコードで去ったメイウェザーに比べ、アリが引き際を誤ったとは思えない。生活のためにリングに掻き立てられたのは間違いところが、自分を支持してくれるファンに1試合でも多く勇姿を披露したい願望を常に持っていた。何年もファンを待たせた末、最高に儲かるタイミングで金満ファイトを実現させたメイウェザーとパッキアオに比べ、ビッグマネーだけに傾倒することなく、自身のスローガンを貫いたアリは男気を感じさせる“マッチョ”だったように思う。

フォアマンをはさんでアリとフレージャー。ヘビー級黄金時代を彩る3人
フォアマンをはさんでアリとフレージャー。ヘビー級黄金時代を彩る3人

アリvsフォアマンの第2幕

一方アリに屈したフォアマンはフレージャーとの再戦を含めた強敵との激戦を勝ち抜いていたが、伏兵ジミー・ヤングに判定負けするとキリスト教の牧師に転身。10年ものブランクを経てカムバック。45歳10ヵ月で世界王者に返り咲くミラクルを演じた。アリのライバル当時のフォアマンは口数が少なく、無愛想で完全なヒール役だった。ところがアフロヘアがスキンヘッドになると人格がガラリと変わり、雄弁になり、愛嬌を振りまいてグリル器具を宣伝するセールスマンに変身した。「ジョージ・フォアマンは2人いる」とジョークが飛ぶ所以である。そこにはビジネスマンとしての冷徹なしたたかがあった。カムバック前は「ホームレスに転落する寸前だった」(フォアマン)というアゲンストの境遇も怪物パンチャーのモチベーションを刺激したことだろう。

ヘビー級黄金時代の四銃士とかカルテットと呼ばれた4人のうちフレージャー、ケン・ノートンそしてアリが鬼籍に入った。一人残ったフォアマンは広大なテキサスの牧場で5人目の妻ジョアンと10人の子供たちに囲まれ安楽な暮らしを送る。宿敵の死に「みんな、アリ、フレージャー、フォアマン、ノートンそしてホームズがオールタイム・グレートたちで“ヘビー級の黄金時代”だと言う。でも間違いなくアリが我々の中のザ・グレーテストだった」と追悼の言葉を送っている。

私はアリvsフォアマンの再戦を見たかった一人だが、これは実現しなかった。もしかして今の商業主義が幅を利かすリングシーンに2人がいたばらば、再度グローブを交えていたかもしれない。だが、このカードはあの結果だけでよかった――と最近思い始めた。

2度と2人はリングで対決することはなかったが、実社会のリマッチではフォアマンが大差の判定勝ちを収めたような印象がする。アリは引退後まもなく健康を害したハンディが大きい。とはいえ第2の人生を金儲けに徹し、どこまでも俗っぽく生きたフォアマンに対して、アリには最後までピュアな清廉なイメージが付きまとった。ルイビルの住民が彼の名前を連呼する声を聞いた時、悲しみの中にも爽快感を感じたのは気のせいだろうか。

アリの純資産55億円は06年に法的肖像権の80%を売却した価格だと報じられる。残りの20%が今後ロリー夫人や子息たちの生活費にあてがわれるという。アリの74歳の生涯の価値が55億円プラスというのが道理に適っているかどうかは別にして、リングで6億9500万ドル(約704億5000千万円)稼いだメイウェザーや“ビジネスマン”フォアマンと比べると彼の偉大さにそぐわない感情に捉われる。しかしアリの生き様を振り返ると、地球規模でどちらが重いかは一目瞭然である。

(敬称略)

ボクシング・ビート米国通信員

岩手県奥州市出身。近所にアマチュアの名将、佐々木達彦氏が住んでいたためボクシングの魅力と凄さにハマる。上京後、学生時代から外国人の草サッカーチーム「スペインクラブ」でプレー。81年メキシコへ渡り現地レポートをボクシング・ビートの前身ワールドボクシングへ寄稿。90年代に入り拠点を米国カリフォルニアへ移し、フロイド・メイウェザー、ロイ・ジョーンズなどを取材。メジャーリーグもペドロ・マルティネス、アルバート・プホルスら主にラテン系選手をスポーツ紙向けにインタビュー。好物はカツ丼。愛読書は佐伯泰英氏の現代もの。

三浦勝夫の最近の記事