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「オモロナイ」ことと距離を置く人。「ミスターラグビー」こと平尾誠二、逝去。【ラグビー雑記帳】

向風見也ラグビーライター
2019年のワールドカップ日本大会の組織委員会理事も務めた。(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

日本代表の司令塔や監督を務め、所属する神戸製鋼の主軸として7年連続での日本一を達成した「ミスターラグビー」こと平尾誠二さんが、20日、亡くなった。53歳だった。

かねて「体調不良」とされてきた。日本ラグビー協会での立場上、本来は出席が義務付けられていたトップリーグの代表者会議にも、あるタイミングから姿を見せないことが増えていたという。

ゼネラルマネージャーを務める神戸製鋼でも、今季は練習や試合を視察する回数が限られた。いまの時代、映像データをタブレット上でチェックできる。本人の体調を鑑みた旧知のスタッフが、「あまり無理をして出てこられなくても、いいですよ」と気遣っていた。

20日に訃報が報じられた直後の取材を通しても、チーム内で詳しい事情を知る人は少なそうだった。そもそも当の本人が、病状などをオープンにしてこなかった。生来のものかもしれないシャイネスは、最後の最後まで貫かれた。

「赤面症でね」

京都市生まれ。伏見工業高校のキャプテンとして全国高校ラグビー大会を制覇した姿は、人気ドラマの『スクール☆ウォーズ』でも描かれた。19歳4か月と当時最年少で日本代表入りした頃は、同志社大学に在籍。1982年からの大学選手権3連覇はいまでも語り草となっている。

日本代表としての平尾さんは、4年に1度のワールドカップに1987年の第1回大会から3大会連続で出場。第2回大会時はキャプテンを務め、ジンバブエ代表戦ではジャパンの初勝利を掴んだ。ちなみに2勝目は、昨秋にあった第8回大会の南アフリカ代表戦である。

積み上げられたキャリアや執筆された著書からは「溌剌としたリーダー」というイメージが定着している。しかし、当の本人の実感は違った。

「僕、子どもの頃は赤面症でね。皆の前で何かを話すとカーッと顔が赤くなってたんです」

楕円球の道を選んだのは、中学1年の頃だ。春の仮入部期間に校庭を歩き回っていると、「1年生の球拾い」がなかったほぼ唯一の部活がラグビー部だったからだ。以後、球技性と格闘技性がないまぜになったこの競技にはまった。

ラグビーで名を上げたかったというより、ただただラグビーのプレーが好きな少年だった。

「僕は思いが強かったから、(ラグビーを)ちょっとは頑張ったんですよ。だから大学でも社会人でも思うようになった。ただ、思ってもないのになってしまった…ということがある。それが、有名になるということなんです。僕は、有名になりたいなんて思ったことはなかったです。有名になると制約されますわな、自分の動きが」

この言葉が真実かどうかは、いまとなっては誰もわからない。ただ、イメージに基づく質問を何度もされてきたからだろう。平尾さんはいつでも、この自己分析を強調していた。 

距離を置いた「オモロナイ」こと

同志社大学の監督だった岡仁詩さんとの逸話を、平尾さんはこう語ったことがある。

「大学に入って最初の試合の後だったかな。あの人に言われたんです。『お前のラグビーはオモロナイ』と。その言葉に敏感になってしまうのは、関西人特有の気質なのかもねぇ…。でも、そう言われたのがひと皮むけた瞬間です。『どっちみちやるのだったら、面白くやれよ』と」

情報が伝わるスピードは、どんどん速まっている。いつしかラグビー界でも、同じ戦術用語が世界に拡散されるようになった。日本のラグビーチームも、どこかの国の哲学をもとに構築されるようになっていった。

そんな流れに逆らうかのように、引退後の平尾さんは、万事に意外性や粋な部分を残そうとしていた。逆に、自分が「オモロナイ」と判断したことには、手を出さなくなった。

平尾が「オモロナイ」と感じても不思議ではなかったことのひとつが、自分の提案に対する日本ラグビー界全体の反応だろう。日本代表監督などの立場で選手の育成プランを提示した時のことを、自らこう話したことがあった。

「ラグビー界の人はね、総論賛成、各論反対なんですよ。僕が思いついたことを大勢のところで話してみると、『おお、平尾君、それはいいね』となる。ただ、少し時間を置くと『そうは言ってもね…』と、それぞれがそれぞれの立場で反対をしてくるんです」

思えば現役時代も、ファッション誌に出たことを強くとがめられるなど「オモロナイ」とされる仕打ちを受けてきた。ジャージィを脱いでからは、さらに思い通りにゆかぬ状況が増えたからだろうか。やがて平尾は、本人の美意識に反する「オモロナイ」世界とは一定の距離感を保つようになった。

筆者が最後に長時間のインタビューをさせていただいたのは、2013年秋。女性誌の取材で神戸市のクラブハウスに出向いた時だった。

話題が「ラグビー人気低迷のわけ」に転じると、澄んだ瞳をそのままにその考えを明かした。

「よく、『サッカーにお客さんを取られた』とか、それらしい理由を言う人がいるでしょう。でも、本当の理由はそこではないですよ。それが何かは、言えないけどね」

「ラグビー人気低迷のわけ」が「何か」。あの日は、取材の趣旨が「40代以上の女性にラグビー観戦を勧める」だったこと、何より平尾さん自身がその「理由」をクリアにしたいように映らなかったことなどから、深く掘り下げた質問はしなかった。

後に日本ラグビーの人気は、代表チームの南アフリカ代表戦勝利などで一気に膨れ上がった。しかし間もなく、元通りに近い形状に戻った。この時期、平尾さんは日本ラグビー協会の理事に名を連ねていた。

「勝負は時の運」?

国内外でひりひりする勝負を経験してきた平尾さんだが、その勝負に人生を賭す雰囲気を出そうとしてこなかった。

神戸製鋼の総監督として臨んだ記者会見で「勝負は時の運」といった内容の言葉を選び、一緒に出席していた当時の後藤翔太キャプテン(現追手門大学女子ラグビー部ヘッドコーチ)に「勝負事はすべて勝つんです!」と注意されたのだというエピソードを、面白おかしく話していたこともあった。

ラグビー界の「オモロナイ」ことと距離を置いていたかもしれない平尾さん、自らが「ラグビーで有名な平尾誠二」だとわかっている平尾さん、もちろん愛してきたラグビーを盛り上げたいと思っている平尾さん…。多面体のような立ち位置を保っていた。

平尾さんは「日本ラグビー界の至宝」であると同時に、いや、それ以上に、格好良くあることを貴しとするブラックスーツの似合う男性だった。

「ラグビー人気低迷のわけ」が「何か」をほのめかしていた件の女性誌取材の折も、「何だかね、自分の出番とちゃうなぁというところへは出ないんです」と話していた。要は、ライト層向けの情報発信であればラグビーの話をする、という意志だった。

ストレートパス

インタビュー前に写真撮影をした。カメラマンが「グラウンドでパスをするところを」とリクエストを出した。平尾さんの投げたボールを、画角の外で筆者が受け取ることになった。

両手の中指から小指にかけての3本でスナップを利かせる、ストレートパス。大きく腕を振って回転をつけるスクリューパスが主流となった現代にあって、古き良きスキル。構えた手元へ真っ直ぐ届き、ちょうど手のひらに当たる瞬間に球の勢いが静まった。捕りやすかった。合掌。

ラグビーライター

1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年に独立し、おもにラグビーのリポートやコラムを「ラグビーマガジン」「ラグビーリパブリック」「FRIDAY DIGITAL」などに寄稿。ラグビー技術本の構成やトークイベントの企画・司会もおこなう。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー――闘う狼たちの記録』(双葉社)。共著に『ラグビー・エクスプレス イングランド経由日本行き』(双葉社)など。

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