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また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(前編)

宗像明将音楽評論家
「女川町商店街復幸祭2013」で熱演するカーネーション

一度「音楽」が津波に流された町で音楽が鳴り響く

それは名前からすればただの「商店街のお祭り」だと思われるかもしれない。しかし、2013年3月24日に開催された「女川町商店街復幸祭2013」は、約2万5千人を集めた規模といい、女川町にアーティストが招かれて音楽が鳴り響いたことといい、特別な意味を持つイベントだった。女川町では、東日本大震災で10人にひとりが亡くなり、街の83%が倒壊した。町の人々が持っていたCDや楽器など、多くの音楽関連の物は津波で海に流された。

私が女川町を訪れたのは、2012年9月23日に開催された「おながわ秋刀魚収穫祭」以来2度目だ(初回の詳細は私のブログの「おながわ秋刀魚収穫祭@女川町総合運動公園第2多目的運動場」を読んでほしい)。「おながわ秋刀魚収穫祭」へ行ったきっかけは、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)×リクオとBiSという普通なら同じステージに立つことがないような2組のブッキングを、女川町のかまぼこ会社・蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんが成功させたことだった。彼の自宅もまた津波で流されたが、その家にあったターンテーブルを偶然見つけてTwitterに写真をアップロードしたのがソウル・フラワー・ユニオンの中川敬。かつて阪神・淡路大震災のボランティアの場にともにいたふたりの再会については、日本経済新聞の「DJターンテーブルがつなげた思い」に詳しい。そして、その出来事がソウル・フラワー・ユニオンの楽曲「キセキの渚」を生むことになる。

今回の「女川町商店街復幸祭2013」では、「おながわ秋刀魚収穫祭」に出演したBiSに加えて、カーネーションが出演することになった。カーネーションは2011年にリリースされたミニ・アルバム「UTOPIA」に「女川」という楽曲を収録していたバンドだ。私はカーネーションの直枝政広のインタビュー取材の中で初めて「おながわ」という地名を口にした。

前回はひとりで新幹線と在来線、そして代行バスを乗り継いで女川町へと向かったが、今回はBiSのファン(研究員と呼ばれる)向けのバスツアーが組まれたこともあり、迷わず女川町へ行くことを決めた。

浦宿駅まで復旧した石巻線

慣れない長距離バスの中ではほとんど眠れなかった。バスがサービスエリアに止まるたびに、東京ではもう桜が咲いていることが嘘のように寒さを増していく。福島第一原子力発電所の西を通過する。約7時間の旅を経て、視界に入ってきたのは朝日に輝く女川町の海だった。

バスは蒲鉾本舗高政に停車。蒲鉾本舗高政は震災以降も積極的な雇用支援をしており、最近は中国人実習生が周囲の反日感情を押してまで働きに戻ったことが日刊スポーツで「中国人実習生 女川に帰ってきた」と記事になった。高橋正樹さんはこの会社の取締役であり、「おながわ秋刀魚収穫祭」や「女川町商店街復幸祭2013」のステージ担当者、そして女川町に活気を取り戻そうとするひとりだ。朝早くから蒲鉾本舗高政の工場はすでに操業していた。

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この1週間ほど前の3月16日、石巻線の浦宿駅が復旧したというニュースが報じられた。蒲鉾本舗高政のすぐ裏手だというので、徒歩で駅に向かうとちょうど車両が停車しており、私の前を歩いていた制服の女の子がそのまま車両に乗り込んだ。昨年女川町に来たときは渡波駅までしか運行しておらず、そこから代行バスに乗り換えて女川町へ向かったので、まだ女川駅が復旧していないとはいえ、大きく変化した印象を受けた。もうここまでは電車で来られるのだ、と。

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とはいえ、「輝望の丘」へ行くと、そこから見える女川町は瓦礫(女川町では『我歴』とも綴られる)が片づけられた広大な土地に、倒壊したビルがある以外はほぼ何もない状態のままだった。漁船の泊まる港で動く人たちの姿にいくらか安心する。この丘に建つ女川町立病院(現・女川町地域医療センター)へも17メートルを超える津波が襲ったという。

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同じ丘の上にある臨時災害放送局・女川さいがいエフエムでは、「女川町商店街復幸祭2013」の生中継に向けて打ち合わせ中だった。バスに戻ってから気づいたのだが、女川さいがいエフエムにいたアナウンサーの「真奈さん」は、3月11日の「女川町追悼式」で遺族代表を務めていた阿部真奈さん(彼女についてはNHK NEWS WEBの「被災地を発信する女子高校生アナ」に詳しい)だったのだ。その日、私はiPhoneアプリの「TuneIn Radio」を通して彼女による慰霊の言葉を聞いていた。

バスに乗って「お魚いちば・寿司 おかせい」へ移動して、女川町の海の幸を大量に使った「特撰女川丼」を注文する。あら汁も含め、「舌鼓を打つ」という言葉はこういうときに使べきだな、と感じるほどの豪華さとうまさ。女川町は津波によりあまりにも甚大な被害を受けたが、一方で今も海とともに生きている。

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「おかせい」から「女川町商店街復幸祭2013」の会場である女川第一中学校へと着くと、その規模の大きさに度肝を抜かれた。「2万人来る」とは聞いていたが、人も出店も多く、とてもカメラのフレームに収まりきらないほど。カーネーションとBiSの出演する本日のメインステージは体育館。セカンドステージは校庭の片隅に設けられていた。ちょうどアニソンズというバンドの演奏中で、続く「ケロロ軍曹撮影会」のためケロロ軍曹の着ぐるみが登場。BiSのコピーユニットのナグリアイのライヴは、シャチが飛び交い、砂煙が上がり、本物のBiSのメンバーも観客に混ざって見ているという馬鹿馬鹿しい盛り上がりの中で終わり、その後いよいよ体育館のメインステージへと移動した。

カーネーションが女川町で「女川」を演奏した日

この日のカーネーションは、メンバーの直枝政広と大田譲に加えて、サポートの張替智広とブラウンノーズ1号を迎えた4人編成。「これからのことは想像できない」という歌詞で始まる「REAL MAN」を女川町で聴いて異様な高揚感を味わったのは、カーネーションがこの土地で自分たちのロックンロールを響かせようとする強い意志を感じたからだった。

※本記事のライヴの写真はINMUSICの山田秀樹編集長に提供していただいたものです。

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そのカーネーションの演奏が表情を変えたのは、遂に女川町で「女川」を演奏する瞬間を迎えたときだった。直枝政広はMCでこの楽曲について多くを語らなかったが、この楽曲は彼が学生時代に訪れた女川の記憶に捧げたものだ。女川の海の記憶に。悲しみや苦しみ、やるせなさを飲み込んだかのような熱演に胸が苦しくなる。東日本大震災後の2011年3月26日に開催されたソウル・フラワー・ユニオン主催の「闇鍋音楽祭」にカーネーションが出演した際、終演後の直枝政広が「なんでみんなこんな目に遭わなくちゃならないんだ」と涙していた姿を思い出した。言葉にしがたいものゆえに音楽として表現されるもの。それがこの日の「女川」だった。だからこそ、続く「Garden City Life」「ANGEL」といった美しいメロディーの楽曲たちは、強烈な解放感とカタルシスをもたらした。

1992年の名盤「天国と地獄」に収録された島倉千代子の「愛のさざなみ」のカヴァーはライヴでもおなじみの楽曲だ。ただ、この日はブラウンノーズ1号の吹くハープを聴きながら、前述の「闇鍋音楽祭」の終演後に直枝政広が南相馬市で暮らすブラウンノーズ1号を心配していたことを思い出さずにはいられなかった。そして、2011年9月17日にカーネーションが開催した「Eternal September 2011」にブラウンノーズ(ブラウンノーズ1号と2号による兄弟ユニットだ)が出演したとき、直枝政広が「一緒に音楽ができる喜び」と語っていたことを思い出す。今も南相馬市に住むブラウンノーズ1号と女川町のステージに立つカーネーションの演奏は、複雑な社会背景を抱えながらも、それでも鳴り響くロックンロールとして鮮烈に響いた。

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最後の「夜の煙突」では、BiSが共演。かつて森高千里もカヴァーした、カーネーションのライヴでのアンコールの定番曲だ。そしてBiSのプー・ルイが客席にマイクを向けた瞬間、「はしごをのぼる途中で / ふりかえると僕の家の灯りが見える」という歌詞を一緒に歌ったのだが、その日だけは違った重みを感じていた。私はつい、叫ぶように歌った。

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「また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演の『女川町商店街復幸祭2013』レポート後編」へ続く)

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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