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また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(後編)

宗像明将音楽評論家
「女川町商店街復幸祭2013」でのBiS

「また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演の『女川町商店街復幸祭2013』レポート前編」から続く)

BiSのもたらした熱狂とささやかな魔法

※本記事のライヴの写真はINMUSICの山田秀樹編集長に提供していただいたものです。

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BiSは、3月16日の両国国技館ワンマンライヴを終えてからこの日が初のステージ。両国国技館でワッキーが脱退したため、プー・ルイ、のぞしゃん、ユッフィー、ミッチェルという4人のBiSとして初めてのライヴでもあった。しかし、それが女川町だったのは彼女たちにとって幸運だったのではないかとも思えるほどの盛り上がり。いつもメンバーの自己紹介ではファンがリフトされるのだが、この日はユッフィーの自己紹介の際に彼女のファンである女川町の須田善明町長がリフトされる事態となった。

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「BiS」では、ステージ上のBiSと同様に、ファンが体育館の通路を使って縦一列に並んだ。「nerve」では、ファンが数日前から女川町に入って製作した神輿が登場して体育館を練り歩く。

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「primal.」では「女川愛」という文字が入ったタオルをファンが客席に向けて掲げていたが、これは雨が降っていた「おながわ秋刀魚収穫祭」のときに会場で売っていたタオルを活用したことに端を発するものだ。そしてサークルモッシュが恒例の「レリビ」では、大サビを待たずに冒頭からファンが体育館を走り出し、さらにはメンバーがファンをステージに上げて自分たちは客席に降りた。唐突なファンのマラソン大会は楽曲が終わるまで続いた。

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そしてこの日、重要な意味を持っていたのは「太陽のじゅもん」という楽曲だ。昨年も「おながわ秋刀魚収穫祭」に出演したBiSだが、その出演のきっかけは女川さいがいエフエムに寄せられた一通のメールだった。津波で亡くなった友達が自分に言ってくれていたことを楽曲の歌詞で思い出して泣いてしまった、彼女は津波で亡くなって自分だけが高校生になった、友達にこの素敵な曲を聴かせてあげたいので曲名を教えてほしい、という内容のメール。その楽曲がBiSの「太陽のじゅもん」だった。

「おながわ秋刀魚収穫祭」でその手紙がユッフィーに読み上げられた後に歌われた「太陽のじゅもん」では、いつもの口上やコールをファンが一切せず、鎮魂歌として女川町の空に響いていった。雨の降り続ける野外ステージでの出来事だ。「女川町商店街復幸祭2013」でも同様に口上やコールはなく、ただサイリウムだけが灯された。

そしてBiSのライヴ中、私は気がかりなことがあった。BiSが女川町に来るきっかけを作ってくれたあの高校生の女の子は会場にいるのだろうか、と。この日は彼女の引っ越しと重なってしまい、BiSの時間だけ来ると言っていたのだが、高橋正樹さんも電話がつながらないと言う。

彼女がBiSのライヴに途中から間に合い、会場に着いたときまさに「太陽のじゅもん」が歌われていたと知ったのはイベント終了後のことだった。その事実を知ったとき、ポップミュージックの魔法のようなものを感じた。気恥ずかしいのだが、そう感じてしまったのだ。

BiSはこの日、「Hide out cut」という楽曲で、振り付けも歌も脱退したワッキーのパートを残したままの状態でライヴをした。つまりダンスも歌もワッキーのパートがステージ上で空いていたのだ。単に4人編成に直すのが間に合わなかっただけかもしれない。しかし、女川町へ再び行けないことをしきりに気にしていたワッキーの幻をそこに見せる演出のようにも感じられた。

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「被災地」でイベントを開催する困難を乗り越えて

メインステージでは、ライヴが終わった後も「水曜どうでしょう」の藤村忠寿、嬉野雅道によるディレクタートークが行われた。終了が近づくにつれて屋外では女川町の寒さが身体にこたえる。これ以上に寒い冬の日々を女川町の人々、そして被災した土地の人々は味わってきたのかと思い知った。

「女川町商店街復幸祭2013」の終了後、高橋正樹さんと別れバスの待つ駐車場に戻ったとき、ひとつのアクシデントが起きた。先にバスに向かったはずの女の子ふたりがいない。LINEに着信がきたので、私はバスを降りて現在地を聞こうとした。しかし、目印がないのだ。街の8割が流された後の女川町では、駐車場の灯りの向こうは深い夜の闇が広がるばかりだった。唯一煌々と光る女川町地域医療センターを目印に、なんとか位置を教えて合流することができた。

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正直なところ、前述したようなBiSでの盛り上げ方が女川町の皆さんにどう受け取られるのかは心配な部分もあった。しかし後日、好意的な声が多いと高橋正樹さんから聞いて安堵した。女川町で求められているのはあの熱なのだ、と。

そもそも、「女川町商店街復幸祭2013」のことを「楽しかった」と素直に言っていいのかという迷いさえ私にはあった。しかし、女川町の人々から感じたのは悲壮感ではなく前に向こうとするエネルギーだ。女川町については、大分合同新聞の「被災3県、震災後11万2千人減」などで人口の減少も報じられている。それでも女川町の人たちは言う。「遊びに来てください」と。

「女川町商店街復幸祭2013」の翌々日である3月26日、NHKで女川さいがいエフエムを舞台にしたドラマ「ラジオ」が放送された。一昨日見たばかりの女川さいがいエフエムが登場していたり(撮影は実際の場所と異なる)、高橋正樹さんを吉田栄作が演じていたりしたので、見はじめた当初は不思議な感覚を味わった。

そして、あれがリアルな女川町だと現地の人々は言う。現在、NHKオンデマンドでも視聴が可能なのでぜひ見てほしい。「ラジオ」では瓦礫の広域処理問題についても踏み込んで描かれていたが、まずは女川町に足を運んでほしいのだ。私もそうであったように、最初に女川町へ行ったときはショックを受けるかもしれない。しかし、その光景を目にすることで初めて考えられることもあるのだ。

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「女川町商店街復幸祭2013」の開催前には、「3月中に被災地で歌う映像を撮りたい」と執拗に出演を望むアーティストもいたと聞く。そんなことでスタッフの皆さんがエネルギーを消耗していく状況には胸が痛んだ。しかし、開催までに乗り越えなければならなかったものはそれだけではなかっただろう。あえて「復興祭」ではなく「復『幸』祭」と題していることにも、未来へ向かおうとする姿勢と覚悟が明確に示されていた。だからこそ、あれだけの規模のイベントを成功させた女川町のスタッフの皆さんに、感謝を表現するためにこの言葉を伝えたいのだ。

また、女川で会いましょう。

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音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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