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テクノポップを蘇生させる100の方法 エレクトリックリボン主催イベントレポート

宗像明将音楽評論家
エレクトリックリボン(写真:sorita takeru)

東京のテクノポップ・シーンは焼け野原のようだった

かつて東京のテクノポップ・シーンが異様な輝きを放っていた時代があった。Perfumeが「Baby cruising Love / マカロニ」で大ブレイクした2008年以降しばらくの時期ことだ。メジャーからはPerfumeのサウンドを模したアーティストが次々に送り出され、インディーズで活動していたテクノポップ~エレクトロポップ系アーティストもまた次々とメジャーからデビューしていたった。その狂騒は数年で落ち着き、メジャーはそうしたアーティストのほとんどを手放していく。気付くと東京のテクノポップ・シーンはまるで焼け野原のようだった。

そんな状況の中でも心強かったのは、メジャーの動向に左右されずに活動し続けていたインディーズのアーティストたちの存在だった。コミュニティを作れば内輪になってしまうかもしれないが、それを作らなければシーンを維持するのが難しい。彼らはそうした難しい綱渡りをしてきたはずだ。

2013年7月21日に自主企画「リボンを浮かべる100の方法」を渋谷スターラウンジで主催したエレクトリックリボンもそうしたアーティストの一組だ。ソングライター、トラックメイカーであるasCaを中心にしたこのユニットを私が初めて見たのは2009年のことだった。当時は「エレクトリックりぼん」表記。「リボンを浮かべる100の方法」は、幾度かのメンバーチェンジをしながらも地道な活動を続けてきた彼女たちによる、現在のテクノポップ・シーンからの鮮やかな回答のようなイベントだった。

16歳、黒髪のクルミクロニクルとEDM

オープニングを務めたのは、クルミクロニクル。大阪のまだ16歳の高校生だ。2013年に登場したばかりで、リリースされているのはCD-Rのみ。それでもシーンへの登場とともにテクノポップのファンから局地的ながら異常なほどの注目を浴びることになった。カフェで打ち合わせをし、公園で歌を練習し、路上でライヴするまでの過程は随時YouTubeで公開されてきた。そして、長い黒髪で決して派手な声質でもない彼女の楽曲が初めて公開されたとき、そのサウンドがEDMさえ吸収したテクノポップであることが明かされ、一気にクルミクロニクルの名はテクノポップのファンに知れ渡ることになった。

クルミクロニクルは、2013年7月12日に新宿LOFTで開催された「EXTRAVE!!! vol.2」で東京デビューしたばかりだった。彼女を迎えた東京のファンの熱狂と、それを受けての彼女の涙は動画を見てもらったほうが早いかもしれない。

「リボンを浮かべる100の方法」でのクルミクロニクルは、歌い終わると緊張した表情に戻る普通の女の子だった。熱気のせいで自分自身を手でパタパタと扇ぎ、ひとりステージ後方へ水を飲みにいく。ステージングがこなれてるとは決して言えないが、ファンを魅了するこの初々しさはひょっとすると彼女自身の資質なのかもしれない。今後の可能性に満ちた存在だ。

(M)otocompoが繰り出すユーモアと批評性

2番手は(M)otocompo。もともとMotocompoで活動していたDr.Usuiが、2010年のMOTOCOMPO活動休止後にスタートさせたスピンオフユニットだ。Dr.Usuiは、最近では「ドキドキ!プリキュア」のエンディング・テーマである吉田仁美の「この空の向こう」、でんぱ組.incの「少女アンドロイドA」を作曲したことでも知られる作家である。

私は、2011年9月24日に埼玉スタジアムで開催された「ぐるぐる回る」で初めて彼らのライヴを見たが、ヘッドバンギングしながら「笑点のテーマ」を演奏する光景は衝撃的だった。それ以降、頻繁に彼らのステージを見ることになったのだが、それは彼らのライヴの本数が非常に多いことも関係している。少女時代の「Gee」の韓国語カヴァーは彼らのステージの定番だった。クラフトワーク(Kraftwerk)が「NO NUKES 2012」のために来日し、「Radioactivity(放射能)」を日本語で歌ったことは大きな話題になったが、その前にもよく私は「Radioactivity」をライヴで聴いていた。東日本大震災以降の(M)otocompoのライヴで、だ。ユーモアと批評性は(M)otocompoの重要な要素だ。

2013年7月6日にメンバーがひとり脱退したために、この日の(M)otocompoは3人組。現在の編成はギター、シンセ・ドラム、キーボードだ。それぞれが楽器につくまで1曲を費やすパフォーマンスで幕を開ける。途中の「出し物」と称した小芝居では、メンバー脱退も笑いに変えていた。スカとエレクトロを融合させたサウンドを聴かせていき、ルースターズの「ロージー」のカヴァーも。さらに男性が多かったフロアに負けじと、ステージ上にも「応援団」と称して男性4人を追加して男臭さを増すことに。彼らとともにMIXとオーイングを自ら楽曲に乗せるという大胆なステージを展開した。

アイドルと渋谷系のつながりを蘇らせるバニラビーンズ

今夜、テクノポップ色が最も薄かったのがバニラビーンズだ。2007年のデビュー以降、試行錯誤をしつつも現在はT-Palette Recordsに所属し、初期と同じく洒落た衣装でエレガントな雰囲気を醸し出す。彼女たちが「ポージング」と表現する動きは、たしかに近年のアイドルのような激しいダンスをしない点で時流とは異なるが、生バンドを従えたライヴ・シリーズ「風は吹くのか!?」の初回を2012年12月17日に見たときには、その「あまり踊らない」というスタイルゆえに意外にも80年代のアイドルっぽく見えて新鮮だったことも思い出す。そうした流行とあえて距離を置いたスタンスも彼女たちの魅力だ。

裏打ちの響く「マスカット・スロープ・ラブ」はカジヒデキの作詞作曲。さらに今夜は「ベイビィ・ポータブル・ロック」「東京は夜の七時」も歌い、披露された8曲中2曲はピチカート・ファイヴのカヴァーだった。2013年、渋谷系はそれが生まれた街でまだ生きている。

エレクトリックリボンのドリーミーなパフォーマンス

トリは主催者であるエレクトリックリボン。asCaとタレント活動もしているNAOMiに、異常なコミュニケーション能力を誇るericaを新メンバーに迎えた3人編成で2012年末から活動を再開した。2013年からは「エリボンちゃん」「星屑ハイランド」の全国流通、「TOKYO IDOL FESTIVAL 2013」「夏の魔物」への出演と破竹の勢いで、これまでのメンバーチェンジや活動休止が嘘のようだ。そして、活動再開とともにやっと正当な評価を受けられる状況になったことが嬉しい。エレクトリックリボンは、ポップなメロディーを生み出すasCaのソングライティング能力と、フロントのNAOMiとericaのパフォーマンスによって構成されるガーリーなユニットだ。

活動再開後のエレクトリックリボンは、ファンの側の受容がアイドルに振り切れているので、激しいMIXやケチャも起きる。それはアイドルブームの思わぬご利益でもあるが、とはいえエレクトリックリボンに何の魅力もなかったらこういう状況にはならなかっただろう。MCでは、土用の丑の日を前にしてericaが鰻のかば焼きを食べていた。自由すぎる。

エレクトリックリボンの楽曲でもっともポップにしてせつない名曲「レプリカプリコ」では、ケチャでヲタが最前列の柵に登りすぎてメンバーが見えなくなって笑った。メランコリックな「不安定オンライン」では、メンバーが傘をクルクルと回す。そして、この楽曲でNAOMiとericaがそれぞれ別のメロディーを歌う部分には、フリッパーズ・ギターの「SLIDE」を連想した。「バスルームでつかまえて」で、「溢れ出したファンキーディスコミュージック」と歌いながらメンバーがステージからシャボン玉をまくのも夢のような光景だった。楽曲、サウンド、歌、パフォーマンスが高いレベルで組み合わされているのがエレクトリックリボンのステージだ。

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(写真:aniota)

テクノポップが外部へ訴求力を持つために

メンバーのボーダーシャツが渋谷系の時代を連想させる(M)otocompo、ピチカート・ファイヴのカヴァーやカジヒデキのプロデュース楽曲を歌うバニラビーンズ、そしてフリッパーズ・ギターの影響をasCaが公言するエレクトリックリボンと、偶然か必然か現在まで脈々と受け継がれる渋谷系の系譜を感じたイベントだった。

そして冒頭に書いたように、コミュニティを作れば内輪になってしまうかもしれないが、それを作らなければシーンを維持するのは難しい。いまやテクノポップのアーティストが外部へ訴求力を持つには工夫が必要だ。コア層で話題のクルミクロニクル、スカの要素も強い(M)otocompo、あえてテクノポップ色の薄いバニラビーンズ、という顔ぶれを揃えた「リボンを浮かべる100の方法」は、現在のテクノポップが外野を巻き込むために必要な工夫が凝らされていたイベントだった。アイドルのていを借りてテクノポップは次の春まで根強く生き延びるのかもしれない。エレクトリックリボンはそんな可能性も私たちに提示したのだった。

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(写真:aniota)

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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