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いつかまた、女川で会いましょう。 BiS、大森靖子など出演「女川町復幸祭2014」レポート(前編)

宗像明将音楽評論家
「女川町復幸祭2014」で歌う大森靖子(写真:フチザキ)

2014年3月16日、宮城県女川町で「女川町復幸祭2014」が開催された。2013年3月24日の「女川町商店街復幸祭2013」と同様に、「復興祭」ではなく「複幸祭」だ。東日本大震災で10人にひとりが亡くなり、街の83%が倒壊し、町の人々が持っていたCDや楽器など、多くの音楽関連の物が津波で海に流された女川町。その女川町の若者たちが物理的な「復興」だけではなく、精神的な意味での「復幸」も願うイベントに、今回も何組ものアーティストが招かれた。音楽を鳴り響かせるために。

私が音楽に導かれて女川町を訪れるのは、これで4回目になる。そのレポートは以下の記事を参照してほしい。

2012年9月23日「おながわ秋刀魚収穫祭2012」

おながわ秋刀魚収穫祭@女川町総合運動公園第2多目的運動場

2013年3月24日「女川町復幸祭2013」

また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(前編)

また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(後編)

2013年9月22日「おながわ秋刀魚収穫祭2013」

「また、女川で会いましょう!」と彼女は言った BiS出演「おながわ秋刀魚収穫祭2013」レポート前編

「また、女川で会いましょう!」と彼女は言った BiS出演「おながわ秋刀魚収穫祭2013」レポート後編

今回も女川町側がコーディネートしてくれた研究員(BiSファンの総称)のためのバスツアーに参加して女川町へ向かった。3月15日深夜に集合し、バスの中で日付が16日に変わる。この3月16日は、1年前にBiSの両国国技館ワンマンライヴ「ROAD TO BUDOKAN KOKUGIKAN『WHO KiLLED IDOL?』」が開催され、ワキサカユリカが脱退した日でもある。そして女川町にとっては、それまで津波に流されて渡波駅までしか行けなかった石巻線が、浦宿駅まで復旧した日でもあった。あれから1年の歳月が流れた。

バスは約7時間をかけて新宿から女川町に到着。蒲鉾本舗高政に到着して、取締役にして今回の「女川町復幸祭2014」のスタッフでもある高橋正樹さんに再会する。

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蒲鉾本舗高政から少し歩くと、そこには浦宿駅がある。その浦宿駅から反対方向を振り返ると、そこにあるのはまだ復旧していない女川駅への線路だ。浦宿駅までの線路と比べるとまだ整備されていないが、現在2015年3月の復旧が予定されている。以前より内陸部に寄った場所だ。2012年9月23日の「おながわ秋刀魚収穫祭2012」のために初めて女川町に来たとき、ひとりで在来線を乗り継ぎ、渡波駅から代行バスに乗って女川町に向かったことを思い出す。しかし来年には、女川町の中心部に直接鉄道で来ることができるのだ。

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女川町を一望できる高台「輝望の丘」を半年ぶりに訪れる。そこから眺める女川町は一見あまり変わってないようだが、よく見ると各所に盛り土があり、整備が進んでいる。

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そして、私たち訪問者にとって大きい変化となるのは、今後予定されている一部の震災遺構の解体だろう。震災の記憶として残しておくべきだという意見と、記憶が呼び覚まされるから辛いという意見。震災犠牲者の遺族の心情が絡む繊細な問題だけに、部外者から口を出しにくい問題でもある。

結論として、現在残された3つの震災遺構のうち、旧女川交番のみが残されることになった。「輝望の丘」から間近に見える震災遺構、江島共済会館も解体が決定した。次に女川町に来るときは、江島共済会館はもうないかもしれない。改めて近くで見ると、建物が横倒しにされて内部が崩れたままの姿に言葉を失う。

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【震災遺構】宮城・女川、「交番」は残り「薬局」と「会館」は解体へ - MSN産経ニュース

すぐ横には、4人が亡くなり、8人が行方不明になった七十七銀行女川支店の跡地にたくさんの花が置かれていた。手を合わす。一部遺族が七十七銀行の安全配慮義務違反を主張した訴訟を起こしたが、2014年2月25日に遺族側の請求が棄却された。

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津波犠牲訴訟、企業の過失認めず 七十七銀行女川支店 「予見は困難」 - MSN産経ニュース

昼食のために、女川町仮設庁舎の脇を通り、高台を下って徒歩でおかせいへ向かう。女川町は建物が少ないので一見すると狭く感じるのだが、実際に歩いてみるとかなり広い。当たり前だ、震災前はここは多くの人々の生活の場だったのだ。そう考えながら漁港のそばを歩くと、以前より漁船の数が驚くほど増えていた。その光景には、女川町の漁業の再興を目指して奮闘する人々の姿を思い浮かべながら、強い希望を覚えた。おかせいの特選女川丼大盛は、食べても食べても食べきれないほどのヴォリュームだ。女川町は海にときに苦しめられつつも、海とともに生きている。

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「女川町復幸祭2014」の会場である女川町立女川中学校に着くと、出店にいた中学生ぐらいの男の子がBiSと女川町のコラボTシャツを着ている姿がすぐ目に入った。無料の女川町のサンマには早くも長蛇の列ができている。

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(写真:フチザキ)

ライヴなどが開催される体育館に入ると、俳優の別所哲也と女川町の須田善明町長のトークショーの最中だった。女川町の外からの視点で語る別所哲也と、女川町の内からの視点で語る須田善明町長によるトーク。須田善明町長は仮設住宅で3回目の年越しをしたという。「震災から3年経ったがそれでまだまだ終わったわけではない」と須田善明町長は語る。

女川町には、中学生たちが津波の記録を残すために石碑を立てるプロジェクト「いのちの石碑」が進行中だ。この女川中学校をはじめ、すでに2カ所に建立されている。町長によると、津波到達点の21カ所に「いのちの石碑」を設置するそうだ。中学生たちは「1000年後の人が石碑で命が救われたときが目的を達成するときだ」と語っているという。

いのちの石碑プロジェクト

そしてライヴ。八神純子は「今日はヒット曲……歌うわよ!」と出し惜しみなしのステージだった。ハンドマイクからキーボードの弾き語りにスタイルを変えながら歌い、体育館の動員はみるみる増えていく。八神純子がキーボードを弾きながら歌うと、80年代AORの香りが漂うことにも気づかされた。「みずいろの雨」は、まさに八神純子によるフリーソウル。 そして「パープルタウン」での盛り上がりで、フロアというか体育館の気温が上がるかのようだった。

続いては大森靖子。今回大森靖子の女川町への出演は、彼女のサウンド・プロデュサーである直枝政広が希望したものだという。直枝政広は、昨年の「女川町商店街復幸祭」に出演したカーネーションのバンドマスターだ。

そして女川町のステージに初めて立った大森靖子は、まるで女川町という場に立ち向かい、飲み込まれまいと戦うかのような気迫を感じさせた。1曲目の「ミッドナイト清純異性交遊」で登場した大森靖子は、手に女川町のサンマを手にしていて、それをファンに餌付けするかのように食べさせて歓声と笑いが起きることに。大森靖子の出身地である愛媛県のゆるキャラ、みきゃんの着ぐるみも一緒に現れたのだが、中に入っているのは高校時代の同級生だという。こういう意表を突いたスタイルで現れたのは、実に大森靖子らしかった。

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(写真:フチザキ)

そしてアコースティック・ギターの弾き語り。「音楽を捨てよ、そして音楽へ」や「少女3号」、「Over The Party」では激しくアコースティック・ギターを掻き鳴らす。さらに「エンドレスダンス」の静謐さや、「あたし天使の堪忍袋」でのフロアを巻き込んでの合唱は、完全に場を自分のものとしてコントロールしていた。

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(写真:フチザキ)

壮絶だったのは「PINK」だ。アコースティック・ギターを掻き鳴らす轟音から歌いはじめ、そして途中ではマイクから離れて狂人のように絶叫する。「私ごときの人間が」と。そこからマイクに戻った瞬間の歓声は、彼女の圧倒的なステージへの讃辞のようだった。

その「PINK」で、「原発のこと」という歌詞が歌われた瞬間の衝撃は忘れがたい。ここは女川原子力発電所が存在する町なのだ。考えてみれば、「音楽を捨てよ、そして音楽へ」にも「放射能」という単語があった。とはいえ、そこに政治的なメッセージはないかもしれない。大森靖子は、女川町でも何ら臆することなく大森靖子だったのだ。私はこの日まで3日連続で大森靖子のライヴを見ていたのだが、女川町での彼女は神がかってすらいた。

女川町でのライヴ映像は以下の動画の「ミッドナイト清純異性交遊」にも挿入されている。

「いつかまた、女川で会いましょう。 BiS、大森靖子など出演「女川町復幸祭2014」レポート(後編)」に続く

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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