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これからも女川に来て歌いたい 寺嶋由芙ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2015」レポート(後編)

宗像明将音楽評論家
女川魚市場東荷捌き所での寺嶋由芙(写真:ばくもん)

(『これからも女川に来て歌いたい 寺嶋由芙ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2015」レポート(前編)』から続く)

あがいんステーションに寺嶋由芙が招かれた重み

あがいんステーションの外観は、東日本大震災の津波で流された旧女川駅の駅舎を模したものだ。

そして、あがいんステーションの名は、復幸まちづくり女川合同会社が作った水産加工品の独自ブランド「AGAIN(あがいん)女川」に由来する。復幸まちづくり女川合同会社の役員には、青木やの青木久幸さん、おかせいの運営会社である岡清の岡明彦さんらが名を連ね、アドバイザリーボードには蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんの名もある。いわば、女川町の若手が立ち上げた会社だ。その設立趣旨には以下のように書かれている。

津波被災前、女川町の商工業は郊外型大型店等の急増により大きな打撃を受けていました。この一因は、女川町の産業が海から発展してきたために、車社会への変化に対応しきれなかったことと、原発工事関連産業へ依存することで、実店舗へ集客せずとも生計が成り立ってきたことにあります。

(中略)

被災から1年半がたち、女川町は仮設建造物により産業界は何とか再開を果たしました。しかし、被災前の産業の状況が好転しているわけではありません。益々状況は悪化しているとも言えます。このままでは町の復興事業が完了する8年後には産業が成り立っていけなくなる危険性を伴っています。

正の遺産とともに負の遺産も失った今こそ、真の復幸へ向け、女川町の産業の付加価値を向上させることで、最終消費者に目を向け、顧客の購買意欲喚起に繋がるような魅力ある「女川ブランド」を確立するための事業を独自に実施していく必要があります。

出典:復幸まちづくり女川合同会社:設立趣旨

そして、キリンビールと日本財団による「復興応援 キリン絆プロジェクト」の支援を受けてオープンしたのがあがいんステーションだ。そうした経緯を知っていると、この場所に寺嶋由芙が招かれたことの重みを感じずにはいられなかった。あがいんステーションと海の間に存在する旧女川交番の姿とともに。

復幸まちづくり女川合同会社

日本財団×キリン株式会社 復興応援キリン絆プロジェクト - 女川水産業体験館「あがいんステーション」落成記念式典レポート

魚市場での祭りの意味

そして、いよいよ「おながわ秋刀魚収獲祭2015」の会場へ向かうことになった。今年の会場は、女川魚市場東荷捌き所。つまり、女川港の魚市場である。

かつて、女川町の祭りは高台で開催されていた。私が初めて女川町を訪れた3年前の「おながわ秋刀魚収穫祭2012」の会場は、高台にある女川町総合運動公園第2多目的運動場だった。しかし、1年前の「おながわ秋刀魚収獲祭2014」は遂に女川町の旧市街地で開催された。津波の甚大な被害を受けた平地であり、蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんの言葉を借りるなら「かつて1,000人が死んだ場所」だ。そこから今回はさらに海へと近づいたことになる。復興に比例して、祭りの場は海に近づいてきたのだ。海とともに生きる町として。

女川魚市場東荷捌き所へ着くと、もうもうと煙が上がっていた。さんまを炭火焼きしている香ばしい煙だ。なお、昨年は5,000尾のさんまが無料で振る舞われたが、今年は「10トン以上」とのこと。もはや何尾という単位ですらなかった。

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人混みのなかやっとステージに着くと、ステージは女川港の海をバックにした位置だった。タイムテーブルを見ると演歌の山口ひろみのはずだし、歌も流れているのに、ステージに彼女の姿がない。客席を見ると、観客と握手をしながら歌う山口ひろみの姿があった。かもめが飛び交う海に合わせて、渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」や研ナオコの「かもめはかもめ」をカヴァーしていたのも気が利いていた。

しーなとシュウというユニットのステージを経て、寺嶋由芙のリハーサルが始まった。海と漁船をバックにしての魚市場でのリハーサル、という光景は初めて見るものだった。

寺嶋由芙と女川町のために振られた大漁旗

そして本番。ステージに立つ寺嶋由芙のバックには青空と海が広がり、かもめが飛んでいた。1曲目の「好きがはじまる」から、「ゆっふぃー!」と彼女の愛称がコールとして魚市場に響き、荷捌き所の屋根に反響していた。「カンパニュラの憂鬱」でファンが腰をかがめながらサークルモッシュをしていたのは、最後の楽曲まではステージ前で立たないように要請されていたからだ。「ふへへへへへへへ大作戦」に続いて、そのカップリングだったシーナ&ロケッツのカヴァー「YOU MAY DREAM」も歌われたが、寺嶋由芙がBメロのセリフを言っている間にファンが「らららららー!」と大合唱し、また荷捌き所の屋根に反響しているのもおかしかった。反響は「#ゆーふらいと」のMIXやコールでも起きることになる。

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(写真:がすぴ~)

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(写真:がすぴ~)

それにしても寺嶋由芙は、1年前の「おながわ秋刀魚収獲祭2014」で歌ったBiSの「太陽のじゅもん」を再び歌うのだろうか。そんな疑問が、ライヴが始まってから私の頭の中にはあった。一度歌ったとはいえ、自ら脱退したグループの楽曲である。すると彼女はMCで以下のように語りはじめた。

「私が女川にお邪魔できるようになった最初のきっかけは、3年前にBiSというグループにいたときに、『太陽のじゅもん』という曲を女川の当時女子高生だった方が聴いてくださって、歌詞にすごく励まされたというメッセージをいただいたことでした。」

私が想像したような気負いもなく、寺嶋由芙は自身と女川町の縁について語りだした。

「女川に感謝をこめて次の曲を歌いたいと思います。この曲がつないでくれた縁なので、何度もこれからも女川に来て歌いたいなと思う曲です。聴いてください、『太陽のじゅもん』。」

去年のように、思わず誰かが叫ぶということもなく、ごく自然に「太陽のじゅもん」は歌われた。青空と海の間で歌う寺嶋由芙の周囲を、ファンが吹くシャボン玉が通りすぎていく。BiSの時代から、女川町での「太陽のじゅもん」にコールが入ることはない。女川町における「太陽のじゅもん」は、女川さいがいエフエムにメッセージを寄せた女の子の、津波で亡くなった友達への鎮魂歌であるからだ。

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(写真:アーカーゲー)

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(写真:アーカーゲー)

「太陽のじゅもん」に続いて歌われた「好きがこぼれる」では、ファンの声が熱を帯びて大きくなった気がした。最後の「ぜんぜん」では、シーパルちゃん、そして愛媛県のゆるキャラの「にゃんよ」もステージに登場。寺嶋由芙は、「寺嶋由芙 with ゆるっふぃ~ず」名義でゆるキャラ10体とのシングル「いやはや ふぃ~りんぐ」を2015年11月11日にリリースするが、そんなゆるキャラ好きの彼女らしいステージだ。

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(写真:がすぴ~)

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(写真:がすぴ~)

ファンは大漁旗、小旗、そして巨大な手を振りながら、MIXやコールで声を張りあげた。驚くべきことに、これらのすべての道具は、何度も女川町に足を運んできたあるひとりの寺嶋由芙ファンによって作成されたものなのだ。落ちサビで、巨大な手を装着したファンたちがリフトされるという馬鹿馬鹿しさも含め、混沌と熱狂が渦巻くなか、寺嶋由芙のステージは終わった。振り返ると、女友達のひとりは号泣していた。

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(写真:がすぴ~)

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(写真:アーカーゲー)

3回繰り返された「さんま DEサンバ」とは

続く電撃ネットワークでは、彼らの登場前からブルーシートでステージが養生されていた。電撃ネットワークのテーマ曲(ザ・サファリーズの『ワイプ・アウト』のカヴァーである)が流れた瞬間、家族連れがステージ前にどんどん集まってきたのは、知名度の高さゆえの光景だ。その何の罪もない観客のなかを、電撃ネットワークのギュウゾウはサソリを持って突入していったのだが……。

例年「おながわ秋刀魚収獲祭」を締めくくる「さんま DEサンバ」が鳴りはじまると、特典会中だった寺嶋由芙もステージに走っていき、それを追って私たちもステージに向かった。「さんま DEサンバ」は3回も繰り返されたのだが、1回目は「練習」とのこと。2回目は、ステージ上に女川町の中学生や須田善明町長、そして寺嶋由芙や大漁旗を持ったファンもいるという光景だった。

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さらに3回目は、みんながステージから降りたタイミングでアンコールとして始まったので、中学生たちと寺嶋由芙のファンたちが一緒に踊り、そこで発生したサークルモッシュに寺嶋由芙も加わっていくというカオスな状況になった。ファンと一緒にさんまMIX(『さんま』を連呼するだけである)や「らいおん。ブレード」(沖縄発祥のヲタ芸である)をする寺嶋由芙の姿は初めて見るものだった。また、サークルモッシュに女川町の人々がどんどん加わっていく光景も圧巻で、女川町という土地のエネルギーを感じさせる「さんま DEサンバ」だった。

東日本大震災の発生から約7か月後の2011年10月2日にも「おながわ秋刀魚収穫祭2011」は女川町総合運動公園第2多目的運動場で開催されていた。「さんま DEサンバ」はそこでも踊られたものの、この楽曲を作詞作曲した佐藤水産の佐藤充さんは津波で亡くなっていた。須田善明町長が「女川のソウル」と呼ぶこの「さんま DEサンバ」が長く踊り続けられていくことを願いたい。

女川さいがいエフエム:おながわ秋刀魚収穫祭開催!!さんまDEサンバ動画公開

東北復興新聞:[宮城県女川町]踊って伝える「ふるさと」町民参加のダンス動画を世界へ発信!

「さんま DEサンバ」が終わると「おながわ秋刀魚収獲祭2015」も終了したが、寺嶋由芙の特典会はまだ続いていた。会場は猛スピードで撤収され、あっという間に「寺嶋由芙が魚市場で特典会をしている」という状態に。そして、昨日に続いて女川町の夕暮れを眺めることになった。

帰路は、18時前に女川駅を出発すると、22時過ぎには東京駅に到着。復旧した女川駅からの鉄道を使った快適な旅だった。

「女川ポスター展全集」が気づかせたもの

帰宅後、あがいんステーションで買った「女川ポスター展全集」を軽い気持ちで読みはじめたところ、思いがけないほど胸を揺さぶられてしまった。「女川ポスター展」は、東日本大震災が風化していくなかで河北新報社が行っている「今できることプロジェクト」の一環として行われた企画だ。電通関西支社の日下慶太をプロデューサーに迎え、宮城県を中心とするクリエーターたちが、ボランティアで女川町の商店のポスターを制作した。87人のクリエーターが、42の店舗、企業、団体のポスターを制作し、その作品数は200以上に及ぶ。そのポスターは、きぼうのかね商店街でも見かけた。それらをまとめた書籍が「女川ポスター展全集」だ。

そして、廻船問屋青木や(ポスターでの表記は『三陸女川港 海鮮問屋 青木や』になっている)のポスターを目にした瞬間、嗚咽と笑いが一度に押し寄せてきて、軽い痙攣でもしているかのようになってしまった。ディレクターはグラフック・トイの久保桂之。魚を手にした青木やの青木久幸さんは、カメラに撮られているのに目を閉じており、その写真の横に「カメラの目線は外すけど、魚の目利きは外しません。」というコピーが添えられている。友人が登場しているというリアリティと、写真やコピーのユーモアを目にした瞬間、涙が溢れだして止まらなくなってしまった。もうひとりの自分が「なぜ泣くのだ」と問いかけてきたものの、後は何ページめくっても涙が止まらなくなってしまった。

Facebook:今できることプロジェクト

「女川ポスター展全集」を読んだことによって、7回女川町へ行った結果、センチメンタリズムよりも根深い何かが自分の中に根を下ろしていることに気づかされた。これは何なのだろうか。何度女川町へ行っても、現地で被災していない外部の人間が、当事者に完全に寄り添うことはできないことも知っている。それでもまた女川町に行きたいと感じる理由は何なのだろうか。音楽を通じて、それを解き明かす機会を今後も持つことができれば嬉しい。そしてふと、寺嶋由芙が「これからも女川に来て歌いたい」とMCで言っていたことを思い出した。

女川町のスピードに遅れないために

2015年10月13日に、女川さいがいエフエムのTwitterアカウントが、完成が近づいてきた女川町まちなか交流館の写真を載せていて、工事のスピードの早さに驚いた。また、2015年10月15日には「おながわ秋刀魚収獲祭2015」の会場でもあった魚市場の中央荷捌き場屋根の解体の様子の動画を載せていて、解体作業そのものにも驚いた。女川町の変化のスピードは早い。

UR都市機構の情報誌である季刊「UR PRESS」Vol.41によると、UR都市機構が復興支援に取り組む22の公共団体のなかでも、まち全体の復興を包括的にサポートするパートナーシップ協定を結んでいるのは女川町だけだそうだ。UR都市機構が手がける同規模の開発事業は通常10~20年を要するが、女川町はその半分の時間で成し遂げる計画だという。また半年後に女川町の祭りを訪れたら、今度はどんな女川町の姿を見られるのだろうか。

WEB UR PRESS vol.41 - 宮城県牡鹿郡女川町 生まれたばかりの新しい「まち」に希望の一歩がしるされた日

2015年10月16日には、須田善明町長が無投票で再選された。これによって、女川町は現在のスピード感を今後4年維持することになるだろう。

河北新報:<女川町長選>無投票で須田氏が再選

復興に向けてスピードを上げていく女川町。それに遅れをとることなくついていきたいと感じた「おながわ秋刀魚収獲祭2015」への旅だった。

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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