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当たり前の日常を取り戻すんだ 水木一郎、クミコ、ルイフロ出演「女川町復幸祭2016」レポート(前編)

宗像明将音楽評論家
LUI FRONTiC 赤羽JAPAN(写真:きんたろう)

8度目の女川町訪問

2016年3月26日、宮城県女川町で「女川町復幸祭2016」が開催された。東日本大震災の発生から5年を経て、ときにマスメディアに復興の方法が懐疑的に報道されることもあった女川町。しかし、半年ぶりに訪れた女川町は、前回はまだ建設中だった商業施設群が完成しており、その変化に興奮を覚えるほどであった。それが私の目で見た事実だ。

東日本大震災による津波で、住民の10人に1人が亡くなり、街の83%が倒壊した女川町。女川町は、UR都市機構とパートナーシップ協定を結び、UR都市機構がまち全体の復興を包括的にサポートしている。UR都市機構が手がける同規模の開発事業は通常10~20年を要するが、女川町はその半分の時間で成し遂げる計画で復興を進めている。

初めて私が女川町の地を踏んだ2012年以来、今回で8回目の女川町訪問となった。これまで過去7回の女川町レポートは以下の記事を参照してほしい。

2012年9月23日「おながわ秋刀魚収穫祭2012」

おながわ秋刀魚収穫祭@女川町総合運動公園第2多目的運動場

2013年3月24日「女川町復幸祭2013」

また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(前編)

また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(後編)

2013年9月22日「おながわ秋刀魚収穫祭2013」

「また、女川で会いましょう!」と彼女は言った BiS出演「おながわ秋刀魚収穫祭2013」レポート前編

「また、女川で会いましょう!」と彼女は言った BiS出演「おながわ秋刀魚収穫祭2013」レポート後編

2014年3月16日「女川町復幸祭2014」

いつかまた、女川で会いましょう。 BiS、大森靖子など出演「女川町復幸祭2014」レポート(前編)

いつかまた、女川で会いましょう。 BiS、大森靖子など出演「女川町復幸祭2014」レポート(後編)

2014年9月21日「おながわ秋刀魚収獲祭2014」

縁はつながり、そして続く。 寺嶋由芙、八神純子ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2014」レポート(前編)

縁はつながり、そして続く。 寺嶋由芙、八神純子ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2014」レポート(後編)

2015年3月22日「女川町復幸祭2015」

面白い人が作る街って面白い プラニメなど出演「女川町復幸祭2015」レポート(前編)

面白い人が作る街って面白い プラニメなど出演「女川町復幸祭2015」レポート(後編)

2015年9月20日「おながわ秋刀魚収獲祭2015」

これからも女川に来て歌いたい 寺嶋由芙ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2015」レポート(前編)

これからも女川に来て歌いたい 寺嶋由芙ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2015」レポート(後編)

プロムナードが完成した女川町

例年、「おながわ秋刀魚収獲祭」や「女川町復幸祭」といった女川町の祭りは日曜日に開催されるのだが、今回の「女川町復幸祭2016」は土曜日開催。一週間の仕事を終えた足で、そのまま友人たちと自動車で女川町へ向かうことになった。

2016年3月26日午前1時、新宿から出発するとTwitterに投稿したところ、女川町の臨時災害放送局・女川さいがいエフエムから温かい返信をいただいた。

@munekata お気を付けて

出典:twitter.com/onagawaFM

女川さいがいエフエムは、2016年3月29日で放送を終了することが決定していた。そして、私たちが出発する前、女川さいがいエフエムではひとつの「事件」が起きていた。女川第一中学校(現・女川中学校)の元国語教諭である佐藤敏郎さんがパーソナリティーを務める「佐藤敏郎の大人のたまり場」の最終回で、津波で被害を受けた人々への配慮から長らく放送が自粛されてきたサザンオールスターズの「TSUNAMI」が流され、歌われたのだ。佐藤敏郎さん自身、東日本大震災の津波で、当時石巻市の大川小学校にいた娘を亡くしている。

午前1時過ぎから、「TSUNAMI」のオンエアに関する思いが連続して女川さいがいエフエムのTwitterアカウントに投稿された。番組に寄せられた「TSUNAMI」のリクエストから1年が経っていたという。

このいい歌をいつまでも悲しい想い出や記憶と結びつけて閉じ込めてしまうのはよくない。それが今の私達が出した結論でした。飛び出してみるまではやっぱり悩みましたが、それを認められたことで一歩を踏み出した気がします。

出典:twitter.com/onagawaFM

もちろん全ての被災者と呼ばれた人たちが同じように思えるかどうかといえば、そんなわけはありません。でも少なくとも5年が経って、ここにいたメンバーみんながそういう気持ちになれたという事実をお伝えしたかったのです。時間の流れは人それぞれですが、ドアは開けられるよと

出典:twitter.com/onagawaFM

そのツイートを読みながら私たちは北上する。家まで迎えに行った友人が寝ていたために時間をロスするというとんだアクシデントを経て、私たちが女川町の蒲鉾本舗高政に到着したのは、午前7時過ぎのことだった。

そして、女川町の旧市街地に向かって驚いたのは、女川町地域医療センターが建つ「輝望の丘」が、以前より低い位置になったかのように見えたことだ。つまり、輝望の丘の周囲が高く盛り土されていたのだ。

さらに、半年ぶりに訪れた女川駅では、駅前のプロムナードが完成していた。女川町まちなか交流館やテナント型商店街 シーパルピア女川が完成しており、たった半年の間に新しい建物が増えぎて脳の処理が追いつかないほどだ。花屋、薬局、理容店、果物屋、日本茶専門店、カフェ、バー、飲み屋、焼肉屋、中華料理店、レンターカー店……。さらには、まだ工事中ではあったがコンビニもあり、日常生活を送るために必要なものの多くが女川町に再建されているのを実感した。半年前とは別世界にいるような感覚に陥るほどだった。

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その途中、廻船問屋青木やの青木久幸さんに会った。彼は、「女川町復幸祭2016」に出演するLUI FRONTiC 赤羽JAPANのプールイの大ファンなのに、仕事で見に行けないと悔しそうに言うのだ。そんな……と絶句しつつ一旦別れた。

プロムナードを歩いている間にも、目の前の丘では重機が造成作業を続けている。プロムナードの建物の間からは、輝望の丘に以前から掲げられているメッセージが見えた。「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ」。そう、今の女川町はそのメッセージを地で行く復興を行っていた。

プロムナードを歩いていると、須田善明町長にも会った。その日の深夜、私はテレビに出演する予定があったのだが、町長は私のその予定を把握していて「録画なんですか?」と聞いてきたので驚いてしまった。初めて女川町を訪れた2012年9月23日からの私たちの縁は、こんな風に続いているのだ。

シーパルピア女川が短工期で完成した理由

これは後日、一緒に女川町への車に乗った、一級建築士の資格を持つ友人から聞いて知ったことだが、「新建築」4月号の表紙は、女川駅舎からシーパルピア女川を撮影したものだ。購入して読んでみると、シーパルピア女川の設計を担当した建築家・東利恵(東環境・建築研究所)が寄稿しており、シーパルピア女川が木造平屋である理由が記されていた。

その最大の理由は工期の短縮だ。同誌に掲載されている、設計開始から竣工までの1年4カ月の流れにも驚かされた。東日本大震災による津波や原子力災害で被害を受けた地域の中心市街地の商業施設の整備を進める「まちなか再生計画」において、復興庁による認定第一号が女川町なのだ。

復興庁 - 女川町まちなか再生計画の認定について(平成26年12月19日)

シーパルピア女川の施主は、中心市街地の商業施設エリアのマネジメントを行う「女川みらい創造」。女川町と民間事業者の出資により設立された株式会社だ。この公民連携が短工期を実現したという。

新・公民連携最前線 - 「町有地+テナント店舗」をまちづくり会社が運営、女川町

黒と茶色のトーンで統一された美しいシーパルピア女川の建築は、こうした経緯で短期間で生み出されたものだ。

最後に初めて女川さいがいエフエムの中に入る

女川さいがいエフエムは、輝望の丘から女川小学校の近くに移転していた。外に置かれたラジカセからは、その放送が流れている。初めて中に入れていただくと、テレビの取材班がおり、そして女川さいがいエフエムのトトロ大嶋。さんや阿部こころさんに会うことができた。

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女川さいがいエフエムの中は、放送機器が並ぶ一方で、冷蔵庫やレンジもあって生活感も漂う不思議な空間だった。その中に、女川町と縁の深い「ケロロ軍曹」のぬいぐるみも置かれている。私がいる間にも女川町の人々が出入りして、3日後に放送が終わるとは思えない雰囲気だ。2011年4月21日の放送開始から5年の歳月をかけて作られてきた、「みんなの居間」のような空間だった。

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「津波伝承 女川復幸男」と「女川町復興祭2016」開会

午前9時過ぎ、「津波伝承 女川復幸男」が始まろうとしていた。「津波が来たら高台へ逃げる」という津波避難の基本を後世へ伝えるための行事だ。私の友人である研究員(BiSファンの総称)も何人か参加することになった。

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「逃げろ!」という声とともに、中学生以上の男女が一斉にスタート。1位の「復幸男」となったのは、なんと昨年に続き、千葉県の中学校の教師である高田将さんだった。

「女川町復興祭2016」開会式では、実行委員長の阿部淳さんが開会宣言。須田善明町長はユーモアとともに「どうか帰りの交通費を残して1円でも多く使ってください!」と呼びかけていた。そう、今の女川町は、お金を落とせる場所が一気に増えたのだ。

復幸男の高田将さんが、瓦礫の中から見つかった「希望の鐘」を鳴らして、女川潮騒太鼓轟会の演奏や女川実業団による伝統芸能が始まった。また、今年はメインステージのほかに、若手発表の場として「チャレンジステージ」もあり、その司会は女川さいがいエフエムの阿部真奈さんらが担当していた。

2016年3月26日に女川町で最後に歌ったアーティスト

クミコは、石巻市民会館でのコンサートのリハーサル直前に東日本大震災に遭遇した歌手だ。その体験から生まれた楽曲「きっとツナガル」も歌われた。クミコは初めて来たという女川町で、湯川れい子作詞、つんく♂作曲の「うまれてきてくれて ありがとう」や、島倉千代子のカヴァー「からたち日記」も披露した。

LUI FRONTiC 赤羽JAPANのライヴが始まるとき、仕事で来れないと言っていた青木久幸さんが客席にやってきた。なんとか仕事を終えて駆けつけたという。

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(写真:かじ)

この日のLUI FRONTiC 赤羽JAPANは、1曲だけカヴァー曲を演奏した。ヴォーカルであるプールイのBiS時代の楽曲「太陽のじゅもん」だ。BiSのこの楽曲が、女川さいがいエフエムで流され、その歌詞に津波で亡くなった友達を重ねた女の子が曲名を問い合わせてきたことから、BiSは女川町の祭りに招かれるようになり、今日に至るまでの縁が続いている。そして、その女川さいがいエフエムもあと3日で放送を終えるのだ。LUI FRONTiC 赤羽JAPANのヴァージョンによる新しい「太陽のじゅもん」が女川町の青空の下に響いた。

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(写真:HY)

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(写真:HY)

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(写真:きんたろう)

水木一郎は圧倒的な風格を見せつけた。たとえ知らないアニメソングであっても聴かせてしまう。今回出演したのは、東日本大震災前の石巻市で、現在の「女川町復幸祭」の実行委員会の人々と食事をしたことがきっかけだという。「今日はたくさん歌うためにあまり話さない」という主旨のことを語り、短時間にメッセージを込めるMCも素晴らしかった。アンコールで客席の観客たちと握手をして回っていたのも熱い姿だ。

恒例となる、「水曜どうでしょう」のディレクターの藤村忠寿と嬉野雅道によるトークショーも行われた。

ONAGAWA DAYS - 女川町復幸祭2016振り返り号

15時前に女川駅を出発。石巻駅、仙台駅と乗り継ぎ、19時前にはもう東京駅に着いていた。

そして帰宅後は、パソコンのサイマルラジオで女川さいがいエフエムを聴いていた。23時から、女川駅併設の「女川温泉ゆぽっぽ」を貸し切りにして、特別番組の生放送があることがアナウンスされていたからだ。

そして、その番組でライヴを始めたのは、サザンオールスターズの桑田佳祐だった。

(『当たり前の日常を取り戻すんだ 水木一郎、クミコ、ルイフロ出演「女川町復幸祭2016」レポート(後編)』へ続く)

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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