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マリ動乱のスケッチ

六辻彰二国際政治学者

安定から混乱へ

民間人が虐殺され、イスラームの純粋性にそぐわない文化財が破壊される。これはシリアでもアフガニスタンでもなく、西アフリカ、マリ共和国での出来事です。サハラ砂漠に広がるマリでは今年の春から、反政府組織アザワド民族解放運動(MNLA)による武装蜂起、これの鎮圧に当たっていたはずの軍部によるクーデタ、北東部でのアザワド共和国独立宣言、そしてイスラーム系武装組織アンサル・ディーンによるとみられる虐殺行為や、世界遺産に登録されているイスラーム聖廟の破壊などが相次いでいます。

1990年に一党制から複数政党制に転換して以来、マリは一人当たり所得が世界最低レベルであるものの、政情は安定し、民主化が着実に進んでいる国とみなされてきました。にもかかわらず、わずか半年ほどで、その安定と評判は失われ、いまやマリは大陸有数の混乱状態にあるのです。この混乱は、周辺国の関与や国際情勢の変化によって、非常に錯綜したものになっています。

内戦からクーデタ、そして分離独立宣言へ

今回の動乱の直接の発端は、昨年の末からMNLAが北東部一帯の独立を求めて、マリ政府に対する武装活動を活発化させたことにありました。MNLAを主に構成するトゥアレグ人は、アルジェリアからニジェールにまたがる広範な地域で、昔から遊牧を生業として暮らしてきた人たちで、そのほとんどがムスリムです。時には他のラクダ隊商を襲撃するなど、その戦闘的な性格と能力で、地域で恐れられる存在でもありました。

1960年にマリがフランスから独立して以来、トゥアレグ人たちはその文化的、歴史的な独自性を強調し、マリ政府とたびたび武力衝突を繰り返してきました。しかし、マリ軍による鎮圧で、その一部は隣国リビアに逃れ、カダフィ体制のもとでリビア軍に組み込まれていたのです。1980年代以降、カダフィは周辺一帯に自らの勢力圏を広げるため、近隣諸国の反体制派に軍事訓練や物資を提供し続けました。その一つが、トゥアレグ人のMNLAでした。

しかし、そのカダフィ体制が昨年の全面的な内戦の末に崩壊したことで、トゥアレグ人たちはリビア国内で「厄介者」の立場に置かれることになりました。現在もMNLAはリビアから援助を受けているといわれますが、もしそうなら、マリに戻ってもらうために、リビアがトゥアレグ人たちを支援している、と見ることができそうです。その場合、マリ動乱は ‐少なくとも結果的には‐ カダフィ体制の崩壊がもたらした副産物の一つと言えるでしょう。

MNLAが武装活動を本格化させるなかで、マリのアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領(当時)は軍にその鎮圧を命じました。しかし、これが政権崩壊の引き金となったのです。1990年代以来、マリでは厳しい財政状況を反映して、軍事予算が圧縮され続けてきました。これは主な融資提供者であるIMFや世界銀行の意向に沿うものでもありました。その結果、トゥーレ政権は充分な装備を提供できないまま、軍にMNLA鎮圧を命じたのです。軍部の不満や反発を受けて、今年3月21日に開かれた兵士たちとの対話集会で、国防大臣は武器・弾薬の大規模な補給などを、確約しませんでした。これが兵士たちの不満を爆発させ、その日のうちに兵士の一部が暴動を起こし、翌日早朝には、軍が率いる民主主義制定のための全国委員会 (CNRDR)が、首都バマコを管理下に置いたとテレビ放送で発表。トゥーレ大統領は政権を剥奪されました。物質的な不満が増幅した結果、兵士が政府に弓引く構図は、古代ローマ以来、人間社会に共通するものです。

ところが、首都バマコを暫定的に統治していたCNRDRが、周辺諸国で構成される西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)との協議に基づき、4月12日にディオンクンダ・トラオレ国会議長を暫定大統領とする民政移管を実現させた後も、北東部にはほとんど手が回らない状況が続きました。その間にNMLAはイスラーム系武装組織のアンサル・ディーンと連携して、北東部の主要三都市を制圧し、5月26日のアザワド共和国樹立宣言に至ったのです。

アンサル・ディーン:MNLAの敵か、味方か?

もともと、アフリカの国境は19世紀の末から20世紀の初頭にかけて、ヨーロッパの列強が植民地分割の過程で人工的に設けた区画の名残です。特にマリを含む西アフリカを支配していたフランスは、意図的に植民地を細かく分割したうえで、1960年に独立を認めました。これは独立後の西アフリカ諸国の一国当たりの力を弱め、フランスによる実質的なコントロールをしやすくしたのです。こうして人工的に引かれた国境によって固有の文化をもつエスニシティ(民族/部族)が分断される状況は、アフリカに広くみられます。そして、これに不満をもち、既存の国境の修正を求めて武装闘争に踏み切る人々もまた、アフリカでは稀ではありません。30年以上に及ぶ内戦を経て、南スーダンが昨年7月にスーダンからの分離独立を果たしたことが、少なからずトゥアレグ人たちを触発したであろうことは、想像に難くないのです。

しかし、南スーダンと異なり、アザワド共和国は周辺国や欧米諸国、さらに中国、ロシアなどからも警戒感を招いており、その独立宣言を承認した国は、現時点で確認できません。その最大の要因は、MNLAがマリ政府に対する武装闘争で連携したアンサル・ディーンにあります。

MNLAが宗教色の薄い「トゥアレグ人の国家」を志向しているのに対して、アンサル・ディーンはイスラーム法(シャリーア)に基づくイスラーム国家の樹立を求めています。5月の独立宣言に先立って、4月にMNLAが単独で世俗的な国家としての独立宣言を発表しましたが、アンサル・ディーンの反対によって流れた経緯があります。アンサル・ディーンはイスラーム過激派「イスラーム・マグレブのアル・カイダ」(AQIM)と繋がりがあると言われます。6月30日、西部のトンブクトゥで発生した、UNESCOの世界遺産であるイスラーム指導者の墓所の破壊は、偶像崇拝を否定するアンサル・ディーンによるものです。

アフリカや中東で反体制武装活動を行うグループには、状況により、あるいは個人的な関係に基づいて、必ずしも同じでない主義主張のもの同士で連携することが珍しくありません。それはちょうど、日本国内で政党が離合集散を繰り返している状況に似ています。ともあれ、MNLAからみた場合、多くの国から警戒されるAQIMと繋がるアンサル・ディーンと連携することには、足を引っ張られる側面があります。アザワド共和国独立宣言の後、両者の間には取り決めを見直そうとする動きがあると伝えられています。アンサル・ディーンによる殺戮や文化財の破壊が相次ぐことに鑑みれば、両者の関係がよそよそしいものになったとしても、不思議ではありません。

地域内部の力学

一方で、AQIMやアンサル・ディーンをめぐる国際関係は、ただ単に警戒と拒絶の一色に塗りつぶされているわけでもありません。マリの隣国アルジェリアは、国境付近に部隊を展開させており、アル・ジャズィーラなど一部報道では、アルジェリア軍がマリ領内で活動しているともいわれます。アルジェリア政府はイスラーム過激派を殲滅するためだと主張していますが、ロンドン大学のJ.キーナン教授は、アルジェリア軍がAQIMやアンサル・ディーンと積極的に戦闘している様子はなく、むしろその目的はMNLAからこれらを守ることにあると指摘します。

アルジェリア政府は1990年代初頭以来、国内のイスラーム主義者の活動を厳しく取り締まってきました。選挙でイスラーム政党が議席を伸ばすと選挙を無効化する、といった手段までとられてきました。およそ民主的とは言えない手法ですが、イスラーム勢力の拡張を恐れた欧米諸国はアルジェリア政府の方針を黙認してきました。強権的なアルジェリア政府にとって、国内や近隣諸国に「イスラーム過激派の脅威があること」は自らの存立基盤にもなっています。この観点から、MNLAとアンサル・ディーンの関係が悪化し、前者が後者を潰すような事態は、アルジェリア政府にとって好ましいものではありません。アフリカ内部の国際関係の力学が、結果的にAQIMやアンサル・ディーンの活動を助長させているのです。

それだけでなく、MNLAもそう簡単にアンサル・ディーンと手を切ることもできません。一般市民にまで銃口を向けるアンサル・ディーンは、必ずしも現地で幅広い支持を得ているわけではありません。また、人員も200~300人と、決して多くありません。しかし、状況に応じて離合集散するとはいえ、武装組織同士の関係には一定の貸し借り関係があります。手段を選ばないアンサル・ディーンと手を組むことで勢力を拡張したMNLAにとって、いかに外部の評判が悪いとはいえ、おいそれと手を切ることは、その世界の「仁義」にもとるものです。その場合、MNLAはアンサル・ディーンと正面衝突する覚悟をせねばなりません。アンサル・ディーンと敵対する人的・物質的なコストと、これと手を組み続けるベネフィットを秤にかけた場合、MNLAがすぐにもアンサル・ディーンと決裂すると見ることはできないといえるでしょう。

マリが見捨てられる日

仮にMNLAがアンサル・ディーンと手を切ったとしても、欧米諸国だけでなく、近隣のアフリカ諸国、さらには中ロに至るまで、アザワド共和国の樹立を支持するとは思えません。いかにアフリカの国境線が植民地支配の遺産で、現地社会との乖離が大きくとも、南スーダンでそうだったように、当該国政府が同意しない限り、既にある国家の一部を分離独立させることは、今の国際社会ではほぼ不可能です。欧米諸国からの支援を受けて、セルビアやロシアの反対を押し切って、2008年にコソボがセルビアから独立した時のように、外部勢力が特定の国の一部の独立を促すことも皆無ではありませんが、それは関与する外部勢力にとっても、相当の負担を覚悟しなければなりません。実際、コソボの一件は、その独立の賛否はさておき、欧米諸国とロシアの確執を深めるものになりました。当該国政府の同意がない限り、いずれかの国の分離独立に外部勢力が関与することには、「植民地主義」の批判が付きまとうのです。これに照らせば、マリ政府がアザワド共和国の樹立を全く認めていない以上、そして無理にでも関与するほどの地理的・経済的な誘因がマリに乏しい以上、これを認める国は、少なくとも現段階においては見当たりません。

MNLAもそれは理解しているでしょう。だからこそ、当てにならない国際的承認よりも、確実なアンサル・ディーンとの連携を選択していると見られるのですが、しかしこれは、アザワド共和国の国際的承認をより困難にすることで、MNLAの悲願がますます遠のくことをも意味します。いわばMNLAは自分で自分の首を締め続けざるを得ない状況に陥っているのであり、そのデッドロックのなかで、アンサル・ディーンによる蛮行が止まる要素を見出すことは困難なのです。軍閥が林立して「破綻国家」になったソマリアと同様に、マリで見捨てられ、忘れられた戦闘が長期化する可能性は、極めて高いと言えるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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