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ミャンマーの民主化と少数民族問題、そして日本

六辻彰二国際政治学者

ミャンマー進出ブームの影で

この2年ほど、日本企業の間でミャンマーへの進出が目立ちます。1988年の軍事クーデタ以来、西側先進国と疎遠であった一方で、人件費が中国の5分の1、人口6000万人の市場規模、そして天然ガスやルビーなどの天然資源が豊富であることなど、ミャンマーは東南アジア最後のフロンティアとして注目されています。これを反映して、麻生副総理は初の外遊で1月初頭にミャンマーを訪問し、テイン・セイン大統領との会談で5000億円相当の債務放棄を表明するなど、政府もアプローチを強めています。

一方で、ミャンマーの政情は必ずしも安定していません。昨年12月30日、ミャンマー軍は武装組織「カチン独立軍(KIA)」の拠点を奪還したと発表しました。KIAはミャンマー北部に多く居住するカチン人の、ミャンマーからの分離独立を掲げるカチン独立機構(KIO)の軍事部門です。この攻撃には戦闘機も使用されており、国連も市民を巻き込む攻撃に懸念を示しています。

軍事政権による「ビルマ化」

1948年、第二次世界大戦中の日本軍による占領を経て、ビルマ連邦が独立しました。しかし、その独立後、人口で約70パーセントを占めるビルマ人中心の支配を拒絶する少数民族により、自治権を求める動きが広がりました。ビルマでは多数派ビルマ人主体の政府がカチン、カレン、ワなどの少数民族を力ずくで抑え、これにそれぞれの少数民族が抵抗する構図が定着してきたのです。

この構図は、1988年のクーデタ、さらに軍事政権によって国名がビルマからミャンマーに変更された後、さらに鮮明になりました。タン・シュエ議長率いる国家平和開発評議会(SPDC)は、少数民族の居住地に軍隊を進駐させ、その土地から彼らを強制的に排除し、ビルマ人を移住させる「ビルマ化」政策を推し進めました。その結果、例えば2005年に国連に提出された報告によると、同国北部のカレン人居住地にミャンマー軍が侵攻し、子どもを含む虐殺や集団レイプが横行した挙句、約70万人が強制的に移住させられたのです。

SPDCが「ビルマ化」に力を入れた背景には、主に以下の要因があったといえます。

  • 軍事政権を支える35万人の兵士に、土地という財産を与える
  • 天然ガスのパイプラインを敷設するために、政府と敵対する、その土地の少数民族を立ち退かせる
  • 少数民族の居住地域にある、ルビーなどの天然資源開発を、政府が中心となって行う

ともあれ、もともとあった少数民族への弾圧は、SPDCのもとで一層激化したことは確かといえるでしょう。

民政移管の力学と少数民族問題

クーデタによって政権を獲得したことで、SPDCは欧米諸国からの批判にさらされ続けました。欧米諸国は軍事政権によるビルマからミャンマーへの国名変更も認めず、禁輸などの経済制裁を課してきました。例えば、米国はルビーの原産地を表示することを義務付ける国内法を定めています。これは、ミャンマーの主な輸出品の一つであるルビーの流通の透明性を高めることで、SPDCに対する包囲網を敷くものでした。

20年間に渡って西側先進国とほぼ断絶していたSPDCは、しかし2008年に突然、民政移管を発表しました。2010年11月には議会選挙が行われ、2011年3月にはテイン・セイン大統領が就任しました。これと入れ替わるようにしてタン・シュエは国軍司令官を退き、SPDCは正式に解散。さらに2012年4月の下院補選では、自宅軟禁を解除されたアウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟(NLD)が45議席中43議席を獲得し、スー・チー自身も当選しました。軍政に反対し続け、ノーベル平和賞を受賞するなど、国際的に知名度の高いスー・チーが公式の政治活動を解禁されたことは、ミャンマーの民主化を印象づけました。これを受けて米国は経済制裁を緩和させる方向に舵を切り、昨年11月にはオバマ大統領が現職の米国大統領として初めてミャンマーを訪問し、テイン・セインスー・チーと相次いで会談しています。

これらのプロセスが進展した大きな要因として、ミャンマーの置かれた国際的な立場があげられます。ミャンマーでは2007年9月に燃料費高騰などに抗議するデモが発生しました。このとき、通常は政治問題に関与しない仏教僧までもが抗議デモに加わっていたことは、状況の悪化を物語るものでした。このデモを武力で鎮圧したことで、軍事政権は欧米諸国のみならず、近隣の東南アジア諸国からも批判にさらされたのです。

これに加えて、ミャンマーの体制転換においては、中国ファクターも無視できません。西側先進国とほぼ断絶状態にあったミャンマーに進出した中国の、2010年の対ミャンマー輸出額が38億2800万ドル以上(IMF, Direction of Trade Statistics Yearbook)。また、パイプラインを通じた天然ガスの輸入も進めています。

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中国の公式の原則は、「内政不干渉」。この立場からすれば、軍事政権であることや、人権侵害、少数民族問題などは全て「内政」であり、外部が口を出すべきでない、となります。西側先進国が進出を控えていたミャンマーへ、不干渉原則を盾に中国が進出したことは、少なくとも短期的には、SPDCにとっては都合のいいものでした。しかし、あまりに急速に中国のプレゼンスが拡大したことが、SPDCに「中国に呑み込まれる」という警戒感を募らせたとしても、不思議ではありません。言い換えれば、ミャンマーには、中国との関係を維持しながらも、力関係でバランスをとるために、そしてさらなる投資を呼び込むために、欧米諸国と関係を改善する必要があったといえるでしょう。

この観点からすれば、ミャンマーにおける急速な体制転換の進行は、旧軍事政権の関係者が突然、民主主義論者になったことを意味しません。スー・チーの国際的な活躍と、昨年4月の下院補選におけるNLDの躍進に目が奪われがちですが、議会の8割はSPDCが衣替えした政党の連邦連帯開発党(USDP)によって握られています。のみならず、2008年憲法の規定により、議席の4分の1は軍人に割り当てられています。さらに、SPDC解散と同時に設立された国家最高評議会(SSC)は、憲法や法律にその規定がないインフォーマルな組織ですが、メンバーは議長のタン・シュエをはじめ、旧軍事政権の幹部ばかりで、テイン・セインもその1人で、事実上の最高意思決定機関になっています。民政移管は軍事政権の権力を温存させることを大前提にしていたとみることに、大きな矛盾はありません。

もちろん、従来の支配構造が一朝一夕に解消されると想定することは非現実的で、「下からの民主化」が困難であった以上、 SPDC/USDP主体の体制転換そのものは批判されるべきでないでしょう。

しかし、この体制転換が既存の権力構造を温存させるものであったことから、少数民族の置かれた状況が大きく改善しなかったことも確かです。体制転換後、USDPは各地の少数民族組織の多くと停戦合意にこぎつけましたが、それはあくまで戦闘を一時中断するものに過ぎず、「ビルマ化」の方針が修正されたわけでも、少数民族の権利が保障されたわけでもありません。天然ガスなどの資源が出る北部で、テイン・セイン大統領による停戦命令後もミャンマー軍がKIAと戦闘を続けている状況は、示唆的です。スー・チーは議会での初めての演説で、少数民族に自治権を認めるべきという主旨の発言をしていますが、NLDが実質的な発言力をほとんどもたない以上、その実現は限りなく遠い状況にあります。

日本とミャンマー

このような環境のもと、冒頭で触れたように、日本企業のミャンマー進出が活発化しています。投資の増加や貿易の増加が、日本企業にとっての経済チャンスとなるだけでなく、ミャンマーの経済成長にも寄与すること、さらに両国間の関係を強化することはいうまでもありません。また、東南アジア一帯で広がる中国のプレゼンスと、これに対する警戒感の間隙をぬい、ミャンマーを含むこれら諸国との関係を強化することは、中国との関係において重要な意味をもつことも確かです。しかし、その一方で、ミャンマーをめぐる問題が、日本の場当たり的な対応を改めて浮き彫りにしたことも看過できません。

もともと、欧米諸国が経済制裁を課すなかで、日本はミャンマー向け援助を出し続けてきました。

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2008年以降、2007年のデモを取材していた日本人ジャーナリスト長井健司が兵士によって銃殺される光景が繰り返しTVで報道されたこともありましたが、日本政府の基本的な立場は、「関係を維持することで事態の改善を促す」というものでした。しかし、関係を維持しながら、日本政府がSPDCに対して民主化や少数民族問題の改善に向けた努力を促した形跡は確認できません。少なくとも、上述の経緯に鑑みれば、日本政府のスタンスがミャンマーの体制転換に寄与したとはいえません

日本政府は、一方で西側先進国として、人権保護や民主化を開発途上国に求める立場に立たざるを得ません。その一方で、しかし日本は、相手国の内政を理由に経済関係を停止することには消極的です。1980年代に国連による経済制裁の対象となっていたアパルトヘイト体制下の南アフリカと最後まで通商を続けたことは、その象徴です。南アの問題をめぐり、国際的な非難を受けて以降、特に(イランなどの例外はあるものの)欧米諸国が非難する国と積極的に経済関係を構築することは少なくなりましたが、他方で相手国に国内問題の解決を求めることは稀です。その背景には、特にアジア諸国に対しては、欧米諸国と比較して日本は地理的にも近いために、より密接な関係を築いておくことを重視しており、さらに第二次世界大戦中の各種の人権侵害を鑑みれば、民主化や人権保護を強く求めにくいという事情もあります。(以前に取り上げたように)日本には何かの理念を奉じて、その実現を求める傾向が弱いことも、これに影響を及ぼしているといえるでしょう。

いずれにせよ、この相反する要請により、日本政府は結果的にミャンマーに対して人権保護や民主化をほとんど求めることはなく、援助を提供し続け、関係を維持しました。しかし、さらにその一方で、これらの国内問題にほぼ全く頓着しない中国などとも異なり、体制転換までは積極的な経済関係の構築を控えてきたのです。欧米諸国の「人権保護」や「民主化」圧力にダブルスタンダードがあることは否めませんし、経済利益だけを追求する中国の立場を称揚することもできません。そしてまた、各国が基本的に自国の利益を最優先にすることもまた、国際政治の冷厳な現実だと思います。とはいえ、誰のため、何のためか分からない援助を続け、さらに風向きが変わった途端にアプローチを強める姿勢は、決して感心できるものではありません。少なくとも、ミャンマーの政府からはともかく、市民からは、日本政府の姿がよくみえないことでしょう。

2010年末以来の「アラブの春」で明らかとなったことの一つは、市民のもつ発信力が政治的原動力になる、ということでした。相手国政府との友好関係のみを考えていると、政治状況に変化が生まれた場合、相手国内部での立場は悪くなりがちです。エジプトのムバラク政権と友好的だったアメリカに対する批判、リビアのカダフィ体制と親密だった中国への批判は、その典型です。そこで現代では、欧米諸国はもちろん中国政府も、TVなどのメディアを通じて自国の立場を相手国市民に伝える「公共外交」に余念がありません。自国を知ってもらい、併せてファンを確保すること。日本の場合、自動車や電化製品だけでなく、近年ではアニメやゲームといったコンテンツを通じて、海外に親日派が多くいることは確かです。しかし、これらはいずれも企業努力の結果であって、政府が何らかテコ入れした成果ではありません。この観点からすれば、外交のカウンターパートを相手国政府のみと捉えがちな姿勢を改め、相手国の野党や市民にまで視野を広げることは、政権を問わず日本政府に課された宿題であり続けるといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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